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「からくりサーカス」は実質、秋葉流の話説

 来月からついにアニメが始まる藤田和日郎の「からくりサーカス」ですが、皆さんは好きですか?僕はめちゃくちゃ好きです(なお、アニメが楽しみ過ぎて死にそう…原画展も…)。僕は好きな漫画については色んなことを思い続けているので、最近思い至った考えについて書こうと思います。

 

 それはズバリ、「からくりサーカス」という漫画は、作者の前作である「うしおととら」に登場する秋葉流という男の抱えていた課題を引き続き取り扱ったものではないかということです。なので、「からくりサーカス」は実質的に「秋葉流2」と言ってもいいかもしれません!!

 

 なお、秋葉流についての僕の考えの詳細は、前に書いた以下の文章を参照してください。

mgkkk.hatenablog.com

 免責:以下の文章には「からくりサーカス」と「うしおととら」、そして「月光条例」のネタバレが含まれます。

 

 からくりサーカスという物語は、中国に生まれた2人の兄弟、白銀(バイイン)と白金(バイジン)が同じフランシーヌという女性に惚れてしまったということから全てが始まります。

 

 つまり、からくりサーカス=白銀+白金 なのです。

 

 では、まず白金とはどういう男であったのか?彼は自分が先に好きになったフランシーヌを、後から自分もまた好きであると自覚した白銀にとられてしまった男です。そのとき白金は見てしまいました。フランシーヌの顔を。その幸せそうな顔は、自分ではなく兄に向けられたものなのです。それは決して見たくないものでした。

 だから、白金はフランシーヌを攫います。2人だけの場所で幸せになりたかったからです。でも、フランシーヌはそんな白金のもとから白銀のもとに逃げようとします。白金はフランシーヌを殴ります。そして哀願します。自分を愛してほしいと。あの素晴らしい笑顔を自分に向けて欲しいと。

 

 からくりサーカスという物語は、白金という男が、フランシーヌに徹底的にフラれ続けるという物語です。白金はフランシーヌの血縁であり、面影を残す少女アンジェリーナにもフラれ、アンジェリーナの子であり、錬金術の力でフランシーヌの記憶を宿す少女エレオノールにもフラれます。

 

 この物語は白金という男には、決して大好きなフランシーヌが手に入らないという物語であるのです。

 

 以前こちらでも書きましたが、

mgkkk.hatenablog.com 藤田和日郎の長期連載漫画におけるラスボスには、共通する欠落があるのではないかと思います。つまり、この白金のように、自分が欲しくて欲しくてたまらないものが、絶対に手に入らないという呪いのような欠落です。一番欲しいものが絶対に手に入らないということが言い渡されているような環境、それはどれだけ残酷なことでしょう。

 白面の者は陽なる存在になることができず、白金はフランシーヌに選ばれることがなく、オオイミ王はヒーローになることができません。

 

 うしおととらに登場するとらは、白面の者に対して「お前はナガレだ」と言いました。白面が陽なる存在を見る目は、流がうしおを見る目と同じです。自分が決して手に入れることができないものを、手に入れてしまっている人がいる。だから、白面も流も、それに敵対してしまうのです。どれだけどれだけ望んでも自分には手に入らないものを目の前にしたとき、人は狂ってしまうのかもしれません。

 それは白金も同じでしょう。フランシーヌは白銀を選び、自分を選んではくれないのですから。そのまま生きていくのだとしたら、白金は白銀とフランシーヌの仲睦まじさをずっと近くで見続けなければならなかったのです。狂うでしょう。狂いますよ。そんなもの。白面や流がそうであったように。

 

 つまり、白面の者=秋葉流=白金 ということが成り立ちます。

 

 では一方、白銀はどうでしょうか?彼は錬金術に傾倒しながらも、その力の使い道に疑問を感じていた男です。錬金術の研究も技術の研鑽も、自分のためでしかなければ虚しいものなのではないのかと。彼の精神はまた、錬金術の成果である生命の水に溶けることで、それを飲んだ「しろがね」たちに受け継がれます。その中でも一番濃い部分は加藤鳴海という男に引き継がれます。

 

 つまり、白銀=加藤鳴海 です。

 

 加藤鳴海もまた自分の力の使い道が分からなかった男でもあります。ひ弱でいじめられっ子だった鳴海は、ある日、中国拳法の門を叩きます。理由は「お兄ちゃんになるから」です。今度生まれてくる弟のために、自分は強くならなければならないのだと決心して門を叩いたのです。不幸なことに、その弟は生まれてくることがなく、しかし鳴海は理由を失いながらも自らを鍛え、強くなります。そして、その心の中には風が吹くのです。「『強くなったからどうだというのか』だろう?」、師にそう指摘された鳴海は、自分の心の中に吹くそんな風について自覚します。強い力を持ちながら、その使い道が分からない男の心に吹く風です。

 「その風は、いろいろな英傑の心にも吹いていた風だが、結局、その風を止める方法は各々が見つけるしかなかったのだ」、師の梁剣峰はそう言いました。

 

 白銀も、偉大なる錬金術の力をどう使えばいいかが分からない男でした。しかし、彼もようやく到達します。フランシーヌです。フランシーヌたち貧しき人々を救うためにこそ自分の力はあるのだと自覚します。だから彼の心の風は止まったわけでしょう。鳴海もまた才賀勝という少年と出会うことで風を止める方法を手に入れます。彼の強さは、勝のために、自分より幼い勇気ある少年、いや、最初は勇気なんてなかった、でも、そんな勇気をきっと持つことができる少年のために発揮されることになるのです。

 

 秋葉流の心にも風が吹いていました。彼もまた強くなることに意味を見いだせず、死ぬまでただの暇つぶしと思って生きていたような男だったからです。彼が風を止めることができたのは、とらとの戦いの結果です。化け物であるとらに、完膚なきまでに負けることによって、その風はようやく止まりました。悲しいことにそれは死と同時にやってきたものでしたが。

 

 つまり、心の中に風が吹く男=加藤鳴海=白銀=秋葉流 なわけです。

 

 ここで思い出してください。

 からくりサーカス=白銀+白金 です。

 そして、白銀=秋葉流 であり、白金=秋葉流 であるならば、

 つまり、からくりサーカス=秋葉流+秋葉流 ということになりませんか?

 

 そう、白銀も白金も秋葉流と同じものを抱えてるわけです。2人はともに秋葉流の抱えていた別の可能性です。だからこそ、からくりサーカス自体が秋葉流と秋葉流の間で起きたことと言うことができ、からくりサーカスは実質的に秋葉流ということになってしまうんですね。

 

 以上、証明終了!!

 

 ただし、鳴海と流は少し異なりますね。流の風はその死とともに止まりましたが、鳴海の風は生きているうちに止まるからです。鳴海は流でありつつも、うしおととらの流には訪れなかった可能性です。だから、からくりサーカスにおける流は、その悲しい死から救済されることができた可能性の話として捉えられるかもしれません。

 一方、白金としての流はやはりここでも救済されないままです。人は欲しくて欲しくてたまらないものが、どうしても手に入らないときにどうすればいいのでしょうか?白金は最後に「僕が間違っていた」と言ってしまいます。白金はその欲しくて欲しくてたまらないものを我慢するしかなかったのです。皆が笑顔でいるために。

 それは正しいかもしれません。でも悲しいでしょう?

 

 では、白金としての秋葉流に対する救済はあり得ないのでしょうか?ここにはさらにその次回作である「月光条例」の話があります。月光条例はおとぎ話が青き月の光の力で本来の筋に反して暴走し、災いをもたらす物語です。そこにオオイミ王という男が出てきます。オオイミ王は全ての虚構を否定する存在です。この世には一片の物語も必要ではないのだと、だから全てのおとぎ話を消し去ろうとします。

 それは何故か?同語反復になりますが、彼がこの月光条例という物語において、全ての虚構を否定する存在であるからです。彼はこの月光条例という物語において、その役割を担わされている存在であるからです。彼自身の精神は、むしろそこに抵抗しているかのようにも見えるわけです。だって、彼は虚構を否定する存在でありながら、誰よりもヒーローに憧れ、ヒーローになりたかった男なのですから。

mgkkk.hatenablog.com

 この月光条例の物語には、秋葉流を救済する余地があると思います。作中に登場する悲しい結末のおとぎ話がそうなったように。物語の本来の筋に反して、登場人物たちにとっての別の可能性が、救済された結末がもたらされる可能性があり得るからです。月光条例の物語もそのような結末を迎えます。お話の中で自己犠牲の悲しいデクノボーとして消えていった月光のために、読者たちが新たな可能性を作者に強要し、無理やりにハッピーエンドを強請りとることができるからです。

 そう、望みさえすれば、きっとオオイミ王にだって、そう、秋葉流にだって。

 

 秋葉流が秋葉流である以上、うしおととらにおける彼の結末は何度やってもあのようになってしまうでしょう。月光条例の作中で、ハンス・クリスチャン・アンデルセンがどれだけ脅されようとマッチ売りの少女の悲しい結末を変えなかったように。でも、月光条例の中にはあったわけですよ。青い鳥のチルチルが、寒さで凍えるマッチ売りの少女を助け、寒空の下、娘にマッチを売らせていた強欲で無慈悲な父親に、鉛弾を叩き込む光景が。それは作者である藤田和日郎がそれを望んだからではないでしょうか?アンデルセンのマッチ売りの少女にはありえなかった結末が、藤田和日郎月光条例でならあり得ます。

 だから、きっと望めばあり得るわけですよ。うしおととらに敵対し、その死によってしか風を止めることができなかった悲しい悲しい秋葉流が救済され、生きたままでにこやかに笑うような光景がどこかに。望みさえすれば。

 

 こういうことを僕は思うわけなんだなあ!!ということをお友達に熱っぽく話していたら、お前はいつもそんなことばっかり考えているのかよ?というようなリアクションがあり、そう…僕はこんなことばかり考えているんだ…と返事をしました。

 

 からくりサーカスという物語は、短編集「夜の歌」に収録されている物語の欠片の拾遺と言えるかもしれません。物語の冒頭の鳴海が勝をサーカスに連れていくところは、「メリーゴランドへ!」から、懸糸傀儡のからくり人形と自動人形との戦いは「からくりの君」から(カトウという名もそうですね)、中国拳法は「掌の歌」から、それまで描かれてきた漫画中から拾遺した要素を改めて描いているような漫画とも言えます。

 ならば、物語の中身だってその可能性があるのではないでしょうか?「うしおととら」で描かなかった部分が「からくりサーカス」で描かれ、「からくりサーカス」で描かれなかった部分が「月光条例」で描かれるわけですよ。

 では今連載中の「双亡亭壊すべし」では何が描かれるのか?きっと今までとは異なる、まだ描かれていない領域が描かれるに違いないと強く期待しています。

 

 白銀としての秋葉流も、白金としての秋葉流も、ひとまずの救済があったあと、秋葉流以後の世界がそこに待っていると思うからです。何言ってんだか僕もよく分からなくなってきました。

 

 ともあれ、秋葉流2こと、からくりサーカスのアニメが楽しみだなあと思う次第です。