漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

理想化された認識と現実との乖離の圧力差で起こる事故関連

 「近未来不老不死伝説バンパイア」という漫画があって、これは「昭和不老不死伝説バンパイア」という漫画の続編です。そしてこれは、無性生殖を行い、自分で自分を生みなおし続けることで悠久の時を生き続けるバンパイアのマリアを巡る物語です。

 人間ならばいつか受け入れなければならない「自分は死ぬ」ということを、金や権力を手に入れた人々は「自分たちが特別である」という自認ゆえに受け入れません。なぜ特別な自分たちが、その他の多くの特別でない人々と同じに老いて死んでゆくのか?それを受け入れたくない人々はマリアの存在に希望を見いだします。彼女の持つある種の不老不死を、自分のものとする願望を抱いてマリアを追い続けるのです。

 

 この物語では、そんなマリアを追う者と守ろうとする者たちの戦いが描かれます。マリアを守ろうとする者のひとりがあーちゃんと呼ばれる男です。彼はマリアに育てられ、マリアを慕い、されど、マリアを守るための一番にはなれなかった男です。彼はマリアを追う者たちの中に紛れ、あるいは姿を変えて、影ながらマリアを守り続けました。それは献身でしょう。あーちゃんは自分が決してマリアにとっての一番になれなくとも、マリアを守り続けた男です。そしてついには、マリアを守るために作られたマリア会の頂点に立つのです。そのとき、日本は神マリアを崇拝する者たちによって支配される国になっていました。

 

 さて、この物語は「神マリア」の勝利で終わります。そして、その神マリアとは一個人のマリア自身ではないのです。マリア会が崇拝する神マリアという概念は、不思議なことに一個の生物である当のマリアとは敵対してしまうのです。多くの人々に崇拝されたところで、そもそもマリアは神ではありません。自分を生みなおし続け、悠久の時を生き続けるというだけの、そういう生物なのです。人とは違う生き方ができるマリアという生物は、人とは違う生き方ができるゆえに、人から特別視されますが、しかし、それでも全能の神なのではなく、あくまでただの生物です。

 しかし、マリアを崇拝するマリア会にとってはそうではありません。マリアは常に正しく、そして、マリアに敵対する者たちは排除しなければなりません。なぜならば、マリアは神なのだから。神マリアのものとして広められた言葉はマリア律法となり、人々を縛ります。そして、神を冒涜する存在は排除すべきなのです。その対象が当のマリア自身であったとしても。

 

 そんなマリア会を牛耳るあーちゃんに対してマリアは立ち向かいます。誰よりもマリアを愛し、誰よりもマリアを崇拝してきたあーちゃんはそんなマリアを殺すのです。マリアは言います「やはり、神マリアとはお前か…」と。あーちゃんはそれを認めます。

 

 「そうだ!今やっと自分が何者か分かったよ」と。

 

 あーちゃんの抱え続けていたマリアへの愛情の結論は、愛していたはずのマリアを殺すことでした。マリアを殺す瞬間、それはマリアという他者への愛情ではなく、あーちゃん自身への自己愛に変貌を遂げていたのだと思います。つまり、神マリアとはマリアではなくあーちゃん自身であり、その神マリアと決定的に乖離したマリアはもはやただの邪魔者でしかありませんでした。では、それはいつ頃からだったのでしょうか?他者への愛が自己愛への変貌を遂げたのか?あるいは、そもそも最初から全てが自己愛であったのか?その献身の全ては、果たして自己利益でしかなかったのでしょうか?

 

 誰かのことを「好きだ」と表明することは、言葉通り他者への愛の表明でしょうか?僕はそうとも限らないと思っていて、なぜならば、誰かのことを好きだと表明することの実際的な意味が、「だからあなたも私を愛してほしい」であったりすることも多いからです。それはつまり、自分への愛でしょう。ただ他者が好きなだけならば好きと思うだけで満たされるわけじゃないですか。自分から他者への一方通行の愛でも、愛は愛でしょう。例えば、何かの本が好きとか、音楽が好きというとき、その本や音楽が自分のことを個人識別して作られていなくても好きは好きでしょう?

 でも、他者から自分への逆方向の感情がなければ、成り立たないものもあります。自分が相手を好きでも、相手が自分を好きでなければ成り立たないのであれば、そこには自分自身への愛情が混ざっているはずです。そしてそれは、行き過ぎれば他者の意志の否定となってしまうかもしれません。こちらからあちらへの愛情が発生しているにも関わらず、あちらからこちらへの愛情が発生しないとき、場合によっては、その他者への怒りすら生まれることがあるからです。

 

 これがあーちゃんにとっての神マリアであったかもしれません。自分にとって必要だったものは理想化された神マリアであって、そこからもはや乖離するマリア本人は、ただの出来損ないでしかなかったのかもしれないのです。あーちゃんにとって、マリアが神マリアでないことには怒りすら生まれる余地があります。相手が自分の理想通りに行動しないことに怒り、それが暴力に帰結するのは、ストーカーの事件の話でもよく耳にすることです。

 

 人間が自分の外と何かしらの接点を持つことは、実は自分の内側に影響を及ぼすことで、つまり、自分の中にその外の居場所を作ることでもあると思います。人と人との心が直接繋がるものでない以上、人と人とのコミュニケーションは多くの場合、不完全な方法を使った「点」でしかありません。それらを繋げて「線」として理解するには、コミュニケーションのみでは確認できない部分を想像して埋める必要があります。他者の胸の内を直接確認することができない以上、線の理解を構築するためには、その間を埋めてくれる全ての胸の内をさらけ出してくれるような架空の他者が必要でしょう。なので、その架空の他者の居場所を自分の中に作っているわけですよ。つまり、実際にやっているコミュニケーションとは、外にいる他者ではなく、その自分の中に作ったその他者像との対話だと考えられるのではないかと思います。

 自分の中にある他者像と、実際の他者があまり乖離していないときには、結果的にコミュニケーションの齟齬は生まれにくいと思います。しかし、自分の中にある他者像が実際の他者と著しく乖離してしまうとき、当然そこには問題が発生します。

 

 つまり、自分は他者と会話しているつもりで、自分の中にある他者像と会話をしているのに過ぎないのに、その他者像自体が本人とは全然違う人物像なのだとしたら、その会話は全て成り立たないことになります。想像した内心は的外れになりますし、想定していた返答は、その通りに返ってくることはありません。

 そこで、自分の中にある他者像をより実像に近いものに修正することができれば、コミュニケーションを立て直せる可能性があります。しかし問題は、自分の中の他者像の方が正しく、実際の他者の方がむしろ間違っていると思い込んでしまったときです。相手が何を言ったところで、いいや、あなたは本当はそう思っているはずがないという受け取り方をしてしまいますし、相手が何かの行動をとっても、そんな行動をとることはおかしいと考えてしまいます。「自分の中にいるあなたは、そんなことをするはずがない」と。

 

 場合によっては、他者の方がその人の中の他者像に頑張って合わせて行動してくれるなんていうこともあるでしょう。人と人とのコミュニケーションにおいて、何が正しいとするかいうことを僕には規定することができません。ただ、人の中にある他者像と、他者自身が何らかの力で一致していない限り、筋の通ったコミュニケーションは困難であるということだということは事実だと思っています。

 

 そのような環境で、各人の中で理想化された認識が、現実の人そのものと大きく乖離してしまうとき、その圧力差を解消しようとする動きが発生すると、その場にいる人に痛みとして伝わることがあると思います。それが世の中の多くの人間関係における不幸の生み出していたりするんじゃないかと、身の回りのこれまでを見渡しても思うことがあるわけです。

 なので、他者から明示的に出てきたわけではないことを想像し過ぎないとか、誤解が起こる可能性を減らすために、「言わずに察してもらう」のではなく「明示的に表明しておく」ことを心掛けるとか。そういう乖離をどうにか減らすためのことはするといいんじゃないかと思ってそうしているところがあります。

 そして、どれだけ気をつけても、齟齬が生まれることはあって、そういうのは悲しいことだなと思うわけですよ。そして、それでも、みんながお互いがお互いを正確に認識できない中で、なんとなく勘違いしつつも適当に上手くやっていたりするわけじゃないですか。

 

 さて、こういうことは、人と人との間だけではなく、例えば漫画を読んだりしてもあると思います。ある漫画を読んだとき、「この漫画はこういうことを描いているのだ」という感想が自分の中から出てきたとしたら、その自分の感想こそが真実だと思ってしまうというようなことです。僕は結構ありますよ。でも、作者はそれを全く意図していないかもしれません。上記のバンパイアの感想だって、僕が思っただけのことです。

 そのように僕の中にある「ある漫画」という認識が、その作者の描いた「ある漫画」の認識と一致しないことは当然あり得ますし、もちろんそれぞれの読者が感じた認識はそれぞれ完全に一致するものではないかもしれません。それはある程度仕方がないことです。なぜなら、漫画もある種のコミュニケーションの手段であると考えることができますし、人と人とのコミュニケーションというものはいつだって不完全だからです。

 

 これは例示しやすいのでよくする話なのですが、「ベルセルク」を、「ファンタジーの世界で、魔法などの超常的な力を使わず、魔物と己の肉体のみで戦うのが素晴らしい漫画」と褒めていた人がいました。しかし、ベルセルクではその後に魔法が強大な力を持つ存在として描かれることになり、作者からすれば、魔法が登場することもアリの漫画だと思っていたということです。ただ、それまでベルセルクを褒めていた彼は、その展開のあと「ベルセルクは堕落した」という話をするようになりました。つまり、自分の中にあった漫画の認識の方を優先させ、それにそぐわない作者の描く漫画自体を否定的に捉えるようになったということです。

 こういうことが悪いことかというと、別のそれほどのことではないと個人的には思っていて、なぜならよくあることだからです。こういうことは程度の差はあれ世の中には無数にあります。

 

 僕自身もこの前、大好きな「うしおととら」の登場人物である秋葉流の話をしていて、「秋葉流とはこういう人物で…」という話を延々していたのですが、僕の中にある秋葉流という人物像はあくまで僕の中にあるものでしかなく、いつの日にか先鋭化を進め過ぎてしまった僕の中の秋葉流は、漫画の中に登場する本来の秋葉流という男を、「これは秋葉流っぽくない」などと否定してしまうかもしれません。そうなればつまり、僕にとっての秋葉流とは誰だったのか?それは自分自身であったということです。つまりそうなれば、僕もあーちゃんと同じです。

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 人間の認識は不完全で人それぞれですから、自分の中の認識が、外の実際と異なってしまうことは仕方がないことだと思います。しかし、それが事故に繋がるのは、その差を埋めようとする力が生まれてしまうときでしょう。つまり、こちらの方が正しく、あちらが改めるべきだと思ってしまった時点で、世の中には急激にその差を埋めようとする圧力が発生し、そこに巻き込まれる事故が起こります。事故が起こると痛いじゃないですか。痛いのは嫌じゃないですか。

 僕はそのように人が事故に巻き込まれるのはしんどい話だなと思うので、齟齬があるのは仕方ないにせよ、ゆっくりその差を埋めてなくすか、自分の中のそれを外にある別の誰かのそれと直接一致させようとなんて考えない方がいいのではないかと思っていて、そうすることにしています。