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「シュガー」および「RIN」における天災としての天才関連

 新井英樹の「シュガー」とその続編の「RIN」はボクシングの漫画です。そして天才を巡る漫画だとも思います。

 

「できないだろ…俺は最初からできたからね」

 

 これがこの漫画を象徴する台詞だと思います。この台詞は、作中に登場するかつての天才ボクサー中尾がさらりと言ってのけたものです。引退して指導者の立場になりながらも、自身があまりにも天才であるために、中尾の指導内容は誰にも通じることがありませんでした。なぜなら中尾に当たり前にできたことが、中尾ジムのジム生にはどんなに練習してもできないからです。そのせいで、誰よりも強かったはずの中尾は、指導者としてはまるでダメです。だって、天才の中尾には最初からできたからです。天才でない人たちにはそれができないという状態が、そもそも分からないのです。

 気まぐれでジム生に指導してみても、上記の台詞です。自分にできることが他人にはどうしてもできないことを、当たり前であり仕方のないことだと思っています。だから、最初から教えることを諦めてしまっているのです。なぜなら自分は天才であり、他人はそうでないのだから。

 

 そこに現れたのがこの物語の主人公、石川凛です。凛は唯一、中尾の言葉の意味を理解します。それは、凛もまた最初から当たり前にできる男だから。ただ、もちろん相応の努力もしているわけなのですが。

 

 さて、中尾という男は、人間性という意味ではひどいものです。凛の言葉を借りるなら、「『天は二物を…』じゃ表現として甘すぎ、天は中尾をギリギリ、ヒトとするために、ボクシングのみを与えやがった!」です。その類まれなるボクシングの才能と釣り合わせるためには、他を全てが与えられないぐらいにしなければバランスがとれないということです。しかしながら、そんなボクシング以外まるでダメな男に、凛は心酔してしまいます。だって彼のボクシングは天才的だから。凛が心底憧れてしまうほどのものを魅せてくれる男だからです。

 石川凛は、素人のくせに戯れに少し習ったやり方を試しただけで、日本チャンピオンに本気を出させたような男です。地道に練習をし続けたボクサーができないようなことを、ビデオで見ただけで再現してみせるような男です。そんな誰もが羨むものが詰まった宝石箱のような存在である凛が、それでも憧れたのが全盛期の中尾のボクシングです。高慢で自信家の凛が、頭を下げて教えを請います。なぜなら中尾は天才だから。そのボクシングはとても素晴らしいものだから。

 

 中尾や凛のボクシングは、まさしく天才のボクシングです。殴られても殴られても倒れても倒れても、そのたび立ち上がるような、一本気で愚直なボクシングではなく、リングの上の圧倒的な簒奪者としてのボクシングです。それは具体的には、相手に殴られずに相手を殴ることができる三次元的なポジションを奪い、さらにはもう一次元、時間軸までを支配して、自分が思うままに相手を動かし、まるでシャドーでもしているかのように相手を倒してしまう四次元のボクシングです。そんな一方的な試合が面白いのかと思うでしょう。これが、まったくもってものすごく面白いのだから仕方がない。

 

 僕が感じるところに、人にはある種の不思議な願望があるんじゃないでしょうか?それは、「自分なんて及びもつかない圧倒的なものに敗北する快楽」です。それはもしかすると、目の前の火事の火に目を奪われ、逃げることも忘れてしまうようなものと似ているのかもしれません。その美しいものに目を奪われると、危険であるにも関わらず決して目そらすことができない。

 

 この物語の中で凛は、その天才的なボクシングの能力の開花とは裏腹に、人間的な様々を失っていきます。それはまるで中尾のように。凛は端的に嫌な奴になってしまいます。これは自分の圧倒的な才能に支配され、自分自身がその才能の奴隷にでもなったような光景なのかもしれません。だから、あれだけ好きであり続けた幼馴染の女の子にも、凛は拒絶されてしまいます。天才はある種の病気だから、普通の人はもはや一緒にいることすらできなくなります。

 

 つまり、天才であることは、ある種の災禍として周囲をかき乱してしまいます。そして、自分自身をもかき乱してしまいます。本来ならあるべきところにあるようにあったもののバランスを崩し、捻じ曲げてしまう強い力は、あるべきものがあるべきようにあることを期待する平々凡々とした人たちからすれば、もはや耐えられないものなのかもしれません。

 そして逆に、天才でさえなければ手に入ったかもしれないものが、天才であるがゆえに指からすり抜けてしまったりもします。そう、凛の手にはボクシングしか残りません。そして、何を失っても、リングの上では自分を取り戻すことができます。そこにいれば誰よりも輝くのに、そこにしか居場所がない。孤高で孤独で哀れな存在としての天才です。

 

 凛も自分が、今の中尾のように「かつて天才であった」ということ、それ以外に何にもない人間になってしまう未来を想像してげんなりしてしまいます。

 

 物語の序盤に、少年期の凛が強く影響を受けた男、火の玉欣二の言葉が出てきます。

「ゆるくねえときに泣くやつは三流、歯ぁ食いしばるやつは二流だ。笑え!はてしなく。そいつが一番だ」

 災禍に巻き込まれたとき、それに負けてしまうでなく、それに耐えるでなく、その状況を自己肯定する存在こそが1番ということです。凛は笑い、一番になりますが、その姿はどこか儚げで、てっぺんの孤独を伺わせます。才能という業火の中で身を焼かれながらも、その中からけたたましく笑っている声だけが聞こえてくるようにも思えるからです。

 

 天才でさえなければ普通に生きられたかもしれない人生を、天才であるがゆえに異常に生きなければならなくなったのだとしたら、それはやはり、凛にとっても他の人たちにとっても天災でしかないのかもしれません。別の漫画の話では、「うしおととら」の秋葉流も、天才であるということによって迫害され、それを隠して生きることを選択してしまいました。そして、その天才性をついに発揮するのは、とても悲しい形でということになります。

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 天才は天才であるがゆえに、その人生をも飲み込む災厄となり得ます。でも、その凡人がどれだけ努力を重ねても決して到達できない高みにいる天才たちに、人はある種の憧れを抱いてしまうのではないでしょうか?ただ、その憧れは、場合によっては強い嫌悪という形で表面に出てしまうのかもしれませんが。

 

 とりわけ続編のRINになってからは、読んでいてつらい状況が沢山あるんですよ。そして、その辛さとは裏腹に、凛のボクシングの描写はあまりにも流麗で最高に気持ちが良く、砂糖のように甘い。そんな乖離したような状況を見せつけられてしまうわけなんですよ。なので、このシュガーとRINという物語は、何度も読み返したい気持ちと、全く読み返したくない気持ちが同居するような怪作になっているのではないかと思っています。

 ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもなく、天才という現象が通り過ぎた跡を見せつけられる漫画だと思うからです。