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登場人物が言葉で説明することは表現として劣っているのか?関連

 インターネットで、たまに目にするのが「登場人物が状況や心情を言葉で表現するのは良くない」という価値観です。僕はそれを目にするたびに、「そんなもん状況によるだろうがボケ」と思うのですが、その辺についてのことを書こうと思います。

 

 例えば、僕は「うしおととら」の終盤で、うしおが「うれしいなあ」と言うシーンがとても好きです。うれしいときに、とてもとてもうれしいときに、「うれしいなあ」と言うのは劣った表現でしょうか?言葉で説明するのではなく、演出でうれしさを感じさせてくれた方がよかったでしょうか?僕はあそこはうれしいなあと描くのが最高に感動するので、これは言うのが最高の表現だと思ってしまいます。

 なぜなら、これはうしおがうれしいと思っていることを、読者も一緒に感じることこそが求められている場面だからです。

 

 つまり、言葉で説明するということは、作中の描写と読者の理解を一致させる上でとても効果的な手法であると言えます。そして、それが一方で劣った表現であると言われることの理由のひとつではないかとも思います。つまり、場面の解釈を読者に委ねるのではなく、作品側から一意に同定してくるということへの拒否感ではないかということです。

 

 読者と作者では、読者の方が偉いと思います。なお、これは読者の頭の中に限定しての話です。そのため、読者はときに、自分が考え付いた作品の解釈を、たとえ作者がそれを意図してはいないと言ったとしても、自分が感じた理解の方が正しいはずだと主張したりもします。作者にそれを伝えるまでするとどうかと思いますが、これは少なからずどの読者にもあることだと思っていて、自分が至った解釈は、他の人から伝えられたものよりも大切に感じてしまうのではないでしょうか?

 つまり、自分の考えが作者の描いたものよりも偉いという価値観に則れば、直接的に描写をされるのではなく、そう読者が自分で感じられるように促してくれた方が、よりその表現を大切に感じてしまうということに繋がります。

 あるいは、言葉にすることは、読者を信用していない行為であると思われるのかもしれません。わざわざ言わなくても分かることを、わざわざ言われることによって侮られていると思ってしまうということです。

 

 このように「言葉で説明すること」が、「正解をひとつに限定してしまうこと」であれば、確かにそれを嫌う人はいるかもしれません。それ自体は理解可能だと思います。しかし、最初に例示したように、それが読者と作品の間で誤解を生まず、同じものを共有できるという良い効果を生み出す場面もあるということにも目を向ける必要があると思います。

 

 つまり、解釈をぶれさせたくない場合には、明示的に言葉にした方がいいですし、間接的な表現によって読者の脳みそをパーツのひとつとして使うことを避けることで、より込み入った表現をすることが可能になります。例えば、ハンターハンターのキメラアント編における戦闘描写はその極地のひとつです。

 キメラアント編の特に王の城への突入のあたりからの戦闘描写は、一挙手一投足にその解説が文字で説明されます。登場人物が何を考えて、その行動を行ったのか、そして、相対する敵は何を考えてその行動に反応し、結果起こったことは何なのかが丁寧に言葉で説明されます。

 これによって、より深く戦闘描写を描くことが可能になります。

 

 これは例えば、スポーツの解説のようなものです。そのスポーツを見慣れていない視聴者は、目の前で繰り広げられている攻防を正確に解釈することはできません。

 例えば、サッカーの細かいプレーの意味が分からない人にとっては、その試合からは点が入ったか入らなかったかぐらいの意味しか読み取ることができないはずです(ちなみに僕のことです)。そんな人にとってみれば、サッカーは退屈なスポーツです。なぜなら、その場合、サッカーは長い一試合の中で片手で数えられるほどの数字が増えるのを見守るだけのスポーツにしか見えないからです。

 

 ある描写について、ひとつひとつ言葉で解釈してくれることは、つまりは、読み取る力が高い人の理解を共有してもらえることと同じです。それによって、描写の解釈力がなくとも、とても精緻にひとつひとつの描写を理解していくことができます。言葉で説明することは、上手く使えば、読者にとって大量の情報を流し込めるようになり、あるいは、その後の描写の理解を補助するための訓練にもなるやり方です。

 

 僕は言葉で説明することについてこのような理解をしているので、その表現そのものが劣っているとは思えず、使いどころの問題だろうなと思います。僕が最初にボケと思うと書いたのは、「このような表現をしているから、即ダメである」という短絡的な考え方をしていることにであって、実際、何かの作品において、ここで言葉でひとつひとつ説明されたら台無しだよ~と思ってしまうことは僕にもあります。

 

 また、言葉を使うことの他の弊害としては、言葉を使う場合には瞬間的な理解が難しくなる点もあると思います。例えば、「AはBという理由でCをした」という文章を理解するには、文字を追ってその意味を解釈しなければなりません。その文章が長くなるほどに読むことに時間がかかりますし、意味をとるのに解釈の時間が必要になってきます。さらにアニメや実写などで発声されたものを聞くならば、言い終わるまで聞かなければなりません。

 ここからは僕の独自理論ですが、人間の感動というのは、穴の開いたバケツから水を溢れされることに似ていると思っています。つまり、バケツに流れ込む水の流量が少なければ、穴からどんどん流れ出て行ってしまい、感動に至ることがありません。穴の開いたバケツから水を溢れさせるなら、同じ量の水を入れるにしても瞬間的に一気に入れる必要があります。つまり、「穴から漏れ出てしまうよりもずっと早く水を入れる必要がある」ということです。

 ここで言う水というのは人間の感情的なもののことです。つまり、文字でゆっくり説明していると、ゆっくり水を入れている間に穴から沢山漏れ出てしまい、じんわりといい気持ちになったとしても、一気に感情が溢れ出てしまうような体験にはなりづらいと考えています。

 貯め込んでいる感情を一気にバケツにぶちまけるには、一枚の絵でそれを示すなどが効果的です。それを見た瞬間に「AはBという理由でCをした」ということが読者の頭の中で一瞬で理解できれば、そこに至るまでのページで、同じものを積み上げて来ていたとしても感動度合いが変わってくると思っています。これは一枚の絵ではなくて、短い言葉でもいいと思います。

 つまり、それまで積み上げてきた感情を、ある一コマで一気に解放させて感動に繋げるには、それを瞬間的に解放させられる鍵(絵や短い言葉)が適切であるという考えです。

 

 ちなみに、僕がこの仮説を思いついて表現として試してみようとしたのがこの漫画です(それが上手くいっているかは読んだ人それぞれだと思うので、よかったら確認してみてください)。

comic-days.com

 

 この考え方に則れば、言葉で長々と説明される表現では感動をしづらいということになります。ただ、これに対しても結局は使いようという認識なんですよね。

 

 結局、僕が言いたいのは、ある表現が単体で良いか悪いかということはなく、「それが作者が表現したいことに対して、適切な選択であったかそうでないか」の話であって、「この表現だから即ち悪いみたいな短絡的な判断は、雑過ぎるだろう」と思っている感じです。

 そして、言葉で明示的に描かれない場合の弊害としては、読者が勘違いして理解しているということも多いわけです。モノローグで心の内が語られない登場人物が、このときどのように思っていたかというのは、読者が好きに想像できるため、色んな解釈があったりもします。

 そこを曖昧にしたければ曖昧にするのが適切な表現ですし、明確にしたければ明確にするのが適切な表現だと思うので、世の中の全てがそうであるようにケースバイケースだと思います。

 

 なので、登場人物が状況や心情を言葉で語る表現が良くないと思ったとして、なぜ、そのシチュエーションでは言わない方がいいのか、また、もし言わなかったときにそれは弊害なく本当に良くなるのか?ということがないと、主張としては明確ではないなと僕が思っているという話でした。

 

追記(2020/11/11)

ブックマークのコメントがついていたので、返事が必要そうなものについて書こうと思います。

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 僕は、匿名ダイアリーの何かを見てこの文を書いたわけではないので、「件の増田」というのが何の話かはわからないのですが、この部分は本が手元にない状態で書いたのでざっくりと書きましたが、正確引用するなら、

「うれしいなァ。うれしいなァ。うれしいなァ。うれしいなァ。」

「でも…みんなと一緒だ!」

「みんな知らねーと思うけど、お役目のおばさんっていたんだ…その人がいってたんだ…みんな仲良くしろって…オレ、それ人間だけのハナシかと思ってたんだ………でもちがうんだ。人間だけじゃ白面にゃ勝てねえ…もちろん妖(バケモノ)だけでも…白面(ヤツ)は強いさ。ああ、獣の槍だって、人間の自衛隊だって、やられちまった…だけど…人間と妖(バケモノ)が一緒に戦ったら わかんねえよな そうとう強いぜ…オレ達!」

「うれしいなァ…おばさんのいったとおりだ。強えおまえらと…一緒だ!」

うしおととら 32巻 92-95ページ) 

という一連のセリフなので、少なくともなぜ嬉しいかは明確に言葉で書かれています。

 

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 また、こちらのコメントに関しては、「作中の登場人物に向けた言葉」と「読者に向けた言葉による説明」が排他であるという前提が明確ではないと思います。作者は少なくとも、読者にうしおが嬉しく感じた理由を明確に提示するために、このセリフを書いているはずだと思うからです。

 それを、例えばモノローグのような自己完結する方法ではなく、他者への語りかけという形式にするのは技法として自然さを出すことができる優れたやり方であるというだけだと思います。

 

 この文章の主旨は「言葉で説明することそのものが、言葉で説明しないことよりも100%劣った表現である」ように言われることに対しての考えを述べたもので、世の中に「説明的過ぎるために問題がある表現」が存在していることは全く否定していません。

 藤田和日郎の漫画のように、言葉による説明をとても素晴らしい演出方法として使うこともできるということを例示しているだけです。

 

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 前述のように説明しなくて良いことを説明している表現がよくないケースはあると考えているので、ご指摘には当たりません。なお、ここでは「言葉で説明しなくても良いようなこと」というのが曖昧だと思います。世の中には沢山の読者がいるので、ある人には明確なことが、別の人には明確とは思えないかもしれません。その場合、誤解を避けたい部分を明確に書くということには一定の意味がありますし、その方法をとるかとらないかは作者の判断であって、ある人がその説明なくわかったとしても、それをしない方が優れているとは言い切れないと思います。

 

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 僕の考えとしても、どのような表現を使うかは作者の選択の結果であって、優劣はないと思います。言葉で書かれていても誤解をする人がいるのはそうですし、登場人物が発した言葉が心情を嘘偽りなく語っていない保証もありません。場合によります。

 念のため補足しておくと、この場合、言葉で説明することと言葉で説明しないことの比較をしているので、その言葉が登場人物の心情として本当か嘘かにかかわらず、一度言葉にされることで、理解の補助になるという効果はあると思います。

 

 ざっと見て目についたものについては補足として書きました。もし、他に何かあれば追加でお願いします。気づいたら返答します。