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人が狂っていると判定される基準関連

 僕は全ての人間は主観的には正気で、客観的には狂っていると思うのですが、その狂うにも程度の差があると思います。

 

 いきなり「狂う」という強い言葉を出しましたが、そもそも狂うとは何だと思うかの話から書きます。僕が考える「狂う」とは以下の2つの条件を同時に満たしたものです。

 

①世間的に共有されているものとは異なる価値観に基づいて行動する

②その価値観を遂行することが当人の中で絶対的で周囲の働きかけで変わることがない

 

 おかしなことを言う人でも、他の人と話すうちにその考えが変わるのであれば②を満たさないため狂っているとは思われませんし、自分の価値観を絶対に曲げない人でも、それがたまたま世間的な価値観と合致していれば①を満たさないため、狂っているとは思われません。

 

 このように考えた場合、①の条件から、狂うという状態には他者との関係性が必須要件となります。無人島で一人で奇行を繰り返していても、それが他人に観測されないのであれば狂っているとは思われません。当人にとってみればただ生きているだけでしょう。

 

 また、世間的な価値観というものは流動的なものです。時代や場所によっても異なります。例えば、宇宙人が地球に攻めてくると言ってそのための準備をしている人がいたとします。他の人がそんなことないよと言っても、いや絶対に来ると言って曲げないとき、その人は狂った人と思われると思います。なぜなら宇宙人が攻めて来るなんてありえないと世間の人々は思っているからです。

 しかしながら、もし宇宙人が本当に地球に攻めてきたとき、その人は狂ってなかったことになります。世間の価値観が宇宙人が攻めて来るということを受け入れるからです。それどころか、狂っていると判定されていた人はさかのぼってずっと狂っていなかったということになるかもしれません。狂っているか狂っていないかということの境界は、そこまではっきりしておらず曖昧なものではないかと思います。

 

 程度の差はあれ、誰しも客観的には狂っていると最初に書きましたが、今現在の世間的な価値観は確立して参照可能なものとして存在するわけではありませんし、個人が持つ価値観とある程度は乖離しているものだと思います。個人も世間も価値観が変わっていくのであればその乖離具合も流動的になるので、人はそれぞれ世間の価値観に照らして狂いが大きくなったり少なくなったりを繰り返しているものだと思います。

 なので、世の中には狂っている人と狂っている人がいるのではなく、社会の中で生きる人は誰しも狂っている部分があり、当然自分にも狂った部分はあるだろうと思いながら生活するのがいいのではないかと思います。なぜなら、それが狂いの大きさをコントロールする手段でもあると思うからです。

 つまり②の条件です。自分の価値観を絶対的だと思い、他者との間で調整する機能を持たない場合、それは「狂う」の条件を1つ満たしているということになります。たまたま①の部分で乖離が少ないと狂っているとはみなされないかもしれませんが、どこかのタイミングで乖離が大きく出てきたとき、その人は突然狂ったと思われるかもしれません。でも、もともと1つの条件は満たしていたので、突然狂ったのではなく下地はあったのだと思った方が理解がしやすいのではないかと思っています。

 なので、狂っていると周囲から判定されにくい人というのは、周囲がどのような価値観で動いているかを常に見ていて、自分の価値観とのすり合わせを柔軟にしていける人だということになります。その人はおかしなことを言わない人であり、なおかつ話し合いができる人とみなされれば、きっと、狂っているとは思われません。

 

 逆に考えると、こだわりが強い人、他人よりも自分の価値観の方が正しいと強く信じている人というのは、狂っている人と判定されやすくなるということになります。特にそういう人がなんらかの論争の中にいるとき、同じ価値観を共有数る味方の陣営からは信念の強い頼りがいのある人に見える一方で、価値観を異にする逆側からは狂った人と思われたりするでしょう。

 

 こういう論争の中で、頼りがいのある味方であると思っていた人が、あるときから狂ってしまったと言われることもあります。それはそれまでの論点であれば価値観が一致しているため気にならなかったものが、別の論点に移行したときにその部分の価値観は共有できていなかったために気づいてしまった場合に起こる場合があることです。つまり、ある日突然狂ったように見えて、別にその人は全然変わっていなかったことも多いように思います。変わったのはそのとき話題になっている論点だけで。

 

 狂っていると何が悪いかというと、他人に狂っていると判定されるとその仲間に入れて貰えないということだと思います。それは自然のなりゆきでで、価値観が異なり、交渉が不可であるため、同じ場所にいるとずっと揉め続けることになるからです。

 

 孤独な人が狂うという話はよく聞きますが、そこには2つの種類の狂い方があるのではないかと思っていて、1つ目は他者との交流がなくなったため、他人と価値観をすり合わせる機会がなくなり、自身の価値観がどんどん独特になってしまうというものです。言うなれば自分自身を参照して時計の時刻合わせをしているようなものです。そしても1つは、孤立は原因ではなく実は結果で、他者との価値観のすり合わせができないために、人間関係を追いやられてしまったという状態です。つまり、もともと狂っていたため孤立してしまったということです。

 

 ただし、他者との関係が極小でも生きていける人にとっては狂っているということはさほどデメリットではありません。仲間に入れて貰えないことが苦しくなく、むしろ自分の価値観を相手にすり合わせることが耐え難い苦痛だったりするのであれば、最適な行動は他者に狂っていると思われたとしても一人でいることになります。いや、他者との接触を断っているのであれば、そもそも狂っているとは判定されないかもしれません。価値観の齟齬を認識するタイミングすらないからです。

 そう考えると狂った人がいたという報告については、自分を曲げることを嫌い、価値観が周囲と異なり独特であるにも関わらず、孤立に耐え切れずに他者との関係を求めてしまった場所で起きるのかもしれません。

 

 この辺の諸問題は、若いころは軽微でも歳を取ると大きく出てくることがあります。その理由は加齢による変化や、逆に変化できないこと、社会の価値観の変化、周囲の人たちとの環境の違いが出てくるため、価値観の違いが色濃く出てしまったりするからです。

 具体例を挙げると、例えばパワハラが当たり前の環境で仕事をしてきた人が、加齢により社内の立場が強くなったこと、加齢による気力の低下で変化を受け入れることが困難になったこと、パワハラが許容されない世の中になっていること、何が何でも仕事が一番という価値観を周囲の人たちが共有していないことなどがあるにも関わらず、自分が生きてきた価値観である「仕事のためならパワハラを辞さず」という行動をした場合、「今のご時世にそれでいいと思っているのは狂っている」と社内で判断されたりします。そのせいで、仕事や役職を下ろされたりすることも最近では全然ありますね。

 

 言いたいことをまとめると以下です。

・人には誰しも狂いはあるもので、狂っていると狂っていないにはそこまで大きな違いはないと思う

・人は他人に狂っていると判定されていても当人がそれがよければそれでいいと思う

・他人と人間関係をやっていきたいなら狂っていると思われない方がいい

・狂っていると思われないためには周囲の人たちとの価値観のすり合わせが継続的にできる必要がある

 

 この辺のことを意識しながら、自分の狂い具合をいい感じにコントロールして生活をしていきたいですね。