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三宅乱丈の「ペット」と自分の中の自他の区別に悩む関連

 三宅乱丈のペットがアニメ化されて、毎週楽しみに観ています。

 ペットはめちゃくちゃ面白い漫画なんですけど、これがどのような漫画であるのかについてある程度読み進めないと理解が難しいところはあると思っていて、分かってからまた最初から読み返せば最初からさらにめちゃくちゃ面白いので、アニメで初見の人たちもとにかくとっかかりの理解を得るまで観てくれという気持ちがあり、そして、とにかく最後まで観てくれという気持ちでいます。

 

 ペットは精神感応能力を持つ人々を主軸にした物語です。彼らは生まれながらに他人の精神に感応し過ぎるために、自分の人格を保つことができませんでした。つまり、自分の頭の中にあるものが自分の記憶か他人の記憶か分からないために、自我を確立することができなかったのです。そんな中で、記憶を整理する方法を自力で編み出した男がいました。彼は自分が編み出したその方法を他の人にも分け与えるようになります。

 

 彼が編み出した方法とは記憶を良い記憶「ヤマ」と悪い記憶「タニ」に分けて整理し、人が忌避するタニの記憶で大切なヤマの記憶を囲むように守ることで、自分の記憶が他人と混ざりにくいようにするというやり方でした。これにより彼らはついに自我を持ちえるようになり、その特異な精神感応の能力から、他人の記憶を改竄することを仕事とするようになります。

 

 彼らはヤマを分け与えてくれた人のことをヤマ親と呼び、慕うようになります。なぜなら、彼らにとって自分の一番大切な記憶は、ヤマ親から分け与えられたものだからです。そして、それなしでは自我を保つことができず、自他の曖昧な世界でしか生きられなかった自分を想像してしまうからです。だから、彼らのとってヤマ親とはかけがえのないとてもとても大切な存在で、そのヤマ親に強い思慕を向ける姿は、周囲から「ペット」と揶揄されるようになりました。

 そして、彼らはペットであるために、その絆を利用されて、会社に従わざるを得ないことになります。これはそんな悲しく苦しい物語でもあります。

 

 さて、この物語は特殊能力者の物語ですが、個人的にはとても分かるところがあります。それは、普通の人間だって少なからず他人に感応して生きていると思うからです。他人のことは分かりませんが、少なくとも僕は人と会うことで、その人と同じ気持ちになりやすくなります。悲しい気持ちを抱えた人と話していると自分も悲しくなりますし、楽しい気持ちを抱えた人と話していると自分も楽しくなってきます。

 

 人は自分の記憶と他人の記憶を本当に明確に区別できるものでしょうか?例えば、他人の怒りや悲しみを自分の中に取り込んで生きていたりはしないでしょうか?自分の考えだと思って口に出した言葉が、実は誰かから聞いたものを反復しているだけだったりはしないでしょうか?自分とは本当に自分でしょうか?

 

 この物語は、そんな実は誰にでもある性質を能力として強調することで描いているのではないでしょうか?

 

 ヤマをタニで囲むことを、彼らは「鍵」と呼びます。鍵を強くかければ、他人に感応する能力は抑えられ、より普通の人間に近くなります。しかしながらそれは、一方で自分の能力を抑制する結果にもなります。

 ヒロキはタニの記憶を嫌がり、鍵のかけ方が緩いために感応の力は強くなります。だから、他のペットたちよりも早く感応することができますし、精神世界では自由自在に動き回ることができます。その代償として、周囲の他人の精神に影響を受けやすく、とても不安定な精神性を抱えてしまうことになりました。

 一方、司は鍵を強くかけすぎた男です。彼は他のペットにおいそれと感応されない強さを持つ一方で、他人に感応しようとする場合もその制限を受けてゆっくりになってしまいます。そして、その他者との感応を拒否する精神性は、周囲の他人とのバランスをとることが難しくなり、独自化し孤立し、行き詰った思考に向かいがちになっているように思いました。普通の人だって、周囲の人の影響は受けて生きているのに、司はそれすら拒否しているように思えたからです。だからこそ、周囲の人間は彼のことを助けることは難しい。鍵の強さは孤立の強さだからです。

 悟はもっともバランスがよい存在です。でも、彼とてヤマ親に見つけ出されなければ、自我のないままに日々過ごしていたことは同じです。そのヤマ親と離れて暮らすことの喪失は悟にとってもやっぱり強いストレスで、それをなんとか誤魔化しながら生きていました。

 

 そして、メイリンです。メイリンは「ベビー」とも呼ばれ、鍵を作る前にヤマ親から引きはがされた少女です。だから彼女は、いまだ自我を確立することはできません。彼女の頭の中に流れ込んでくるのは、膨大な他者の記憶で、そして、人殺しに利用されるメイリンの能力は、仕事を重ねるたびに他人の中の陰惨なタニの風景を彼女にもたらします。

 自分自身の意志を持つことを否定され、他人の記憶に無防備にさらされ続け、道具として利用されるしかない存在です。それは、ひょっとすると司や悟、そしてヒロキも陥ってしまったかもしれない恐ろしい可能性です。

 

 鍵をかけること、つまり自我を保つことは人間として最低限必要な尊厳でしょう?他人の意志を再生するためだけの道具にされることはあまりにも残酷ではないですか。でも、考えてみてください。自分が何かを判断し発言し行動すること、それは本当にあなた自身の自我から来たものでしょうか?もしかしたら、誰かが望むように自分の意志を出す暇もなく、ただ、それを再生させられている、そんな可能性はないでしょうか?それに気づいてしまうことはないでしょうか?

 誰かを喜ばせるために、誰かに怒られないように、何かを当たり前だと思わされて、人は自分以外の人間の意志を再生するためだけの部品のようになってしまうことがあるのではないでしょうか?

 

 三宅乱丈はその後「イムリ」でも、類似することを繰り返し描いています。人にとって一番残酷なことはその人から選択肢を奪うことです。そうですよ。誰かの考えたことを再生する装置としてしか生きられないことは、とても悲しいじゃないですか。

 

 そして、世の中にも似たようなことは実際にありますよね?

 作中の催眠術や精神感応ほどではなくとも、ある場所で当たり前とされていることが、その場所以外では全く間違っていたとしても、当たり前として受け入れざるを得ないことがあります。どんなに間違っていると思っても、百人のうちの九十九人が当たり前にやっていることを、自分だけは拒否すると毅然と言うことはとても難しい。そんなとき、間違っているとは思っても、仕方なく同じことをしてしまったりはしないでしょうか?そういうものだ。ここでは正しい。逆らっても意味がない。そんな風に言い訳をしながら、やってしまうことがあります。

 それはある種の精神感応をかけられているということなのではないでしょうか?価値観をハックされ、誰かの思った通りに動かされていると言えるからです。

 

 ペットの物語では、他者に強く共鳴してしまうことの危うさと同時に、他者と共鳴することを拒否して思いつめてしまうことの危うさも描かれています。そして、他者に共鳴すること以外を求められないことの残酷さが描かれています。

 それらは果たして他人事でしょうか?

 

 僕は誰に近いかというと司に近いと思うので、鍵を緩めて他人に適度に感応して、周囲と上手くやっていかなければ、どこかの袋小路に入ってしまいやすそうな危うさを自分自身に感じます。そういうところもあって、アニメで改めて司を見るとき、原作で結末まで全て分かっているにも関わらず、その危うさに他人事ではない心配を感じながら観てしまっています。

 良い漫画で良いアニメですよ。よかったですね。