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「ファンタジウム」と人間の序列判定関連

 「ファンタジウム」はマジシャンの漫画で、主人公の長見良くんは14歳ながらめちゃくちゃ高度なマジックのスキルを持つ少年です。しかしながら、長見くんはもうひとつの抱えている事情があります。それは文字の読み書きをすることが難しいディスレクシアという障害を抱えていることです。

 

 この物語は、長見くんを取り巻く人間模様の変化を描いた物語です。しかしながら、長見くん自身の根っこのところは最初から最後まで大きくは変化していないように思います。ただ、長見くんを取り巻く周囲の状況は激変し、そして、長見くんはそのせいで起こる様々に直面することになります。

 

 この物語の特徴は、ディスレクシアとマジックという2つの物を同時に長見くんが抱えているところではないかと僕は思っています。この2つは一見何も関係ないようにも思えますが、同質のもののように思えるからです。

 

 あらゆる人間が根本的に抱えていることとして、人間は周囲の人間たちの序列を考えずにはいられないように思います。「そんなことはない、人間は皆平等なはずだ」と思ったりするかもしれません。でも、自分の周りを思い返してみてください。この人は、社会においてとても重要な価値ある人だと思う人は思い当たらないでしょうか?そして、この人は社会において害悪なだけの価値のない人だと思う人は思い当たらないでしょうか?

 普通は誰かしらそれに該当する人がいるはずです。人間と人間は平等なはずなのに、人はそこに価値のある者と価値のない者を見いだしてしまいます。僕はこれは別に悪徳ではないと思っています。しょうがないことです。でも、人間がそういう性質を抱えているからこそ、「人間は平等だ」というお題目が必要なのではないでしょうか?それによる歯止めがなければ、すぐに人間には価値とそれによる序列がつけられてしまうからです。

 

 人間は他人のことを完全に理解することができません。なぜならば、人間のコミュニケーションは不完全だからです。頭の中にあることを直接確認することはできず、他人の口から一度言葉になったものを読み取り、それを自分の頭の中で再生して想像することしかできません。もちろん言葉だけではなく、見た目や行動からも何かしらの情報を読み取っています。それは受動的なものだけとは限りません。能動的に言葉や何かしらを相手に投げかけ、そして返ってきた内容によって他人の中身を判定することも多々あります。

 雑談は日常の中に存在するその最たるもののひとつでしょう。相手に言葉を投げかけ、想定の範囲の内容が返ってくるかによって相手がコミュニケーション可能な存在かどうかを判定しています。何を話しかけても、理解できない内容が返ってくるならば、そのうちその相手はコミュニケーション不可能な存在として分類されてしまいます。

 この傾向は、コミュニティが小さければ小さいほどにより強くなっていくと思います。例えば、オタクは常に相手が自分の仲間かどうかを判定するための定型的なコミュニケーションを行ったりします。型を覚えているかどうかが、仲間かどうかの判定基準であるため、内輪ネタを発言してはそれに想定通りの反応が返ってくるかどうかを見ているように思います。

 例えばガンダムの話をしたとして、相手がガンダムのことを「ロボット」と発言すれば仲間ではないとされるかもしれません。なぜならガンダムは「モビルスーツ」だからです。想定している正解の答えを出すことで仲間として認められますが、そうでなければニワカオタクという判定をして仲間には入れて貰えないかもしれません。

 

 さて、文字の読み書きができない障害というものは、そんな状況において非常に不利になります。なぜならば、相手が投げかけてきた文字について、理解することができず、文字によって返答することもできなくなるからです。他人から投げかけられるその中身を品定めするようなコミュニケーションにおいて、相手が求める答えを返せないことで、その頭の中身そのものを劣ったものであると理解されるようになってしまいます。

 これは、母国語以外を拙く喋る人に対しても見られる傾向かもしれません。カタコトで拙く喋るということは、頭の中身の方も拙いのだろうと思われてしまうことがあるからです。

 もちろん、他人に劣っていると判定されたからいって、侮られることが正しいこととは全く思いません。でもそれはあるでしょう?今まで生きてきて、それがない場所を僕は見たことがありません。自分だってそれに加担していたこともあるはずです。

 

 障害を抱えていることで、周りが当たり前にやっていることを上手くできないということのもうひとつの辛いことは、それをする理由が「舐めている」と判定されてしまうことです。普通の人が当たり前にやっていることをお前はなぜできないんだ?と問われ、その理由は、やる気がないとか、舐めているとか、甘えているとか、そういう理解をされてしまいます。

 なぜならば、その判定する人はできる側だから。できないことの理由がそれぐらいしか思いつかないのです。それもある程度は仕方がないことですよ。人は当たり前に持っているものについて、その価値をなかなか知ることができません。水の中を潜ったり、宇宙にでも行かなければ、当たり前に呼吸ができる空気があることに感謝をすることはできません。

 

 相手の想定している答えを返せなければ、人はどんどん侮られていきます。劣った存在として、イジメにもあってしまうこともあります。そこで起こり得る何より怖いことは、そんな劣っていると侮られた存在が世間で評価されることでしょう。

 人間は序列を気にしてしまいます。そして、世間の序列が自分の中に存在する序列と異なるときに、パニックになってしまうのです。テレビにマジシャンとして出演する長見くんの世間の評価は上昇します。しかしながら、学校で彼を侮っていた人たちの中では、万年赤点で再試験を言い渡される劣った奴です。序列の下位の者が、序列の上位として紹介されることに、人はパニックになります。

 そしてこう主張したくなってしまうでしょう。「世間の評価は間違っている」と。それを世間に知らしめてやろうとする力は、自分が見下している何かが世間で評価されることでより強くなってしまいます。

 

 ネットなんかを見てもよく目にすることだと思います。人は自分が見下しているものが世間で評価されているときに、「そんなものは評価されるべきではない」と言い、自分が価値あると思っているものが世間で評価されていないときに、「もっと評価されるべき」と言います。同じことです。自分の中の評価と世間の評価が一致していないことに耐えられないからこそ出てくる言葉です。でも、そんなもの完全に一致するわけないじゃないですか。

 

 長見くんが抱えているのはそういう種類の過酷な環境です。「誰に見下されても、得意なことで評価されて見返してやればいい」ということだけでは抜け出ることができない環境です。そしてそれは、世を見渡してもそこかしこに存在する普遍的な過酷さだと思うんですよ。可哀想な誰かの問題ではなく、自分たちが加害側にも被害側にも多かれ少なかれなっている問題です。

 

 さて、長見くんをこんな状態にしてしまうディスレクシアと、マジックは同質のものであると最初に書きました(覚えてますか?)。僕の意図はつまり、マジックというものが、他人の不完全な認識による偏見を利用した娯楽だからです。

 例えば、右手にあったはずのコインが、左手に移動している。これは、マジックですが、マジシャンからすれば不思議なことではありません。なぜなら、お客さんが右手にまだ持っていると思っているコインは、とっくに右手にはなく、何も持っていないと思っている左手には最初からコインがあったりするからです。マジシャンにとっては当たり前のことを、お客さんは気が付くことができません。できないようにマジシャンに誘導されています。

 だからこそ、それが分かったときに辻褄が合わず驚いてしまうのです。

 

 これは、前述のコミュニケーションと同じではないでしょうか?言葉を投げかけた誰かが返す反応から、その人はこういう人だと解釈するように、マジシャンに見せられたものから、今コインがどこにあるかを解釈しています。そして、それは不完全な認識による誤認なのです。

 違いは、その後想定外の答えを見せられたとき、マジックでは驚きと賞賛があり、コミュニケーションでは驚きと拒絶があることでしょう。

 

 長見くんは、他人に対して想定外の答えを返してしまうことで拒絶され、想定外の答えを見せることで賞賛されます。これはここだけ比較するととても不思議なことですね。

 

 人は自分を基準のモノサシとして、他人を測ることを止められないのかもしれません。そして、自分のモノサシと世間のモノサシを比較して、それが合致しているとかしていないとかいう話をすごくしてしまいます。でも、それだけを考えていくと、人を取り巻く世界はどんどん狭くなっていってしまうのではないでしょうか?なぜならば、人間は全ての物事を完全に知ることはできないので、誤認があり、誤解があり、その歪みに周りの全てを合わせようとしてしまうということだからです。

 漫才でも、想定外の答えを出すボケと、その認識合わせをするツッコミは両輪です。それを人は楽しむことができます。それはマジックと同じではないでしょうか?ツッコミがあるからボケが楽しめる一方で、自分の認識に世の中を合わせるツッコミだけしかなければ、世の中のあるべき姿はどんどん狭くなるんじゃないかと思うからです。

 コインは右手にあるべきだと言っても、既に左手にしかないのです。

 

 漫才のボケもマジックも娯楽です。世間では特に必要なものではないと思われるかもしれません。でも、もしかすると、それが人の持つ世界を閉塞から開放に導くための潤滑剤になっているのかもしれません。

 この前の「ジョーカー」の感想文では、モノサシに合わない人を社会から分断し排除することに関する閉塞感について書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ならば、こちらはそれに対する答えのひとつなのかもしれません。一見、生きる上で必要ではないマジックという存在が、世の中の在り方を少し広くすることができるものであるように思えるからです。