漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

人間が狂うとは何か?関連

 中年になって周りを見渡していると人間の挙動がおかしくなっていくことが散見されるようになり、それは僕が見ているところ以外でも起こっているようで、「人間が狂う」と表現されていたりします。

 僕自身の挙動もおかしくなっている可能性はありますが、自分のモノサシは自分に合わせて歪んでいるので、その歪んだモノサシで歪んだ自分を測ってもずっと一緒じゃんと思ってしまうと思うので、自分自身ではなかなか気づけません。おそろしいですね。

 

 僕は人間とは誰しも基本的に「狂っている」もので、たまたま周囲の人間と足並みを合わせようとしているときに「狂っていない」と判定されているだけではないかと思っています。

 つまり、「狂う」とは「人が他人と上手くやっていこうとしない話」であって、年齢や性別やその他社会的属性にかかわらず、接する人が「この人は自分とやりとりできる人ではない」と判断したとき、「この人は狂っている」と判定されているように思うということです。

 

 なので、僕の考えでは「狂っている」と思われることそれ自体はそんなに特異なことではありません。認知と判断と行動のそれぞれが周囲と噛み合っていないだけです。それは自然とそうなってしまうパターンもあれば、対人関係が煩わしく感じ、意図的にそうすることにしたパターンもあると思います。

 

 「独身の中年が狂う」という話は、そういう意味で環境要因として納得がいく話で、独身の中年は自分の生活を自分の思い通りにできる裁量が大きいので、自分の思い通りに生活し過ぎているとそれ以外の人と感覚がずれていってしまい、さらには周囲に合わせるモチベーションもない場合があるので、それが「狂った」と判定されてしまいがちなのではないかと思います。

 つまり、独身であることそのものは狂うための要件というわけではなく、家族がいても、他の家族を自分の思い通りにしようとして、折り合いをつける余地を設けなければ家族や周囲からは「狂っている」と思われるでしょうし、肝心な部分は、「自分と他人の接点で、相手と折り合いをつけようとしているか」という部分だと思います。

 

 ここでもう一つの条件が出てくることが分かります。それは狂いには「他人との接点」が必要だということです。

 

 いかに自分だけの価値観で生きていたとしても、山奥や無人島で一人で生活していれば、狂っていると思われることはありません。たまたまそこに人が来たら、狂った生活をしていると表現されてしまうことはあるかもしませんが、狂いが他人との違いの摩擦の中で判定されるものだとすれば、人と接することがなければ狂っていると言われることはないわけです。

 そう考えると、狂った人が増えたという認識は、「自分の価値観だけで生きている人がいる」というそんなに不思議ではないこととともに、そういう人と別の人との接点が存在しているということが重要なポイントではないかと思いました。

 

 僕が知っている事例では、自分の好きなように生きていた人が中年になり、昔は一人でいいと思っていましたが、周りの人たちが家庭を持ったりして疎遠になる中で寂しくなり、新たな人間関係を求めようとしたときに、狂った人呼ばわりされたケースがあります。

 

 その人は、自分より若い人の集まりの中に入ろうとしたものの、その場所に応じた形に自分を合わせる訓練をそれまであまりしてこなかったので、自分を曲げないことが重要と考えており、他人との接点では、相手の側が自分の合わせて曲げるべきであり、そうしない人に強く当たる、みたいなことを繰り返していました。

 これが、それをされる側からすると「狂っている」状態だと思います。そして人の輪に入りたかったのに、それが上手くいかないことでさらに調子を崩してしまい、人への当たり方が強くなってより狂ってしまったと判定されてしまったりしていました。

 

 この辺の事例では、「狂っている」というのは言葉が強過ぎると僕は感じていて、実際は「他人と上手くいっていくやり方をまだ学べていない人が、人間関係を上手くやれていない」に過ぎないのではないかと思います。

 なので、人の話をよく聞いて、自分がその人たちとどのように上手くやっていきたいと思うかを考えて、そうなれるように行動すれば、狂っていないと思われるように変わると思います。

 

 この辺には肉体の変化(病気や老化など)が関わっている事例もあって、例えば目が良く見えなくなるとか耳が遠くなるとか、思考する速度が遅くなるなどの場合、コミュニケーションをとる中で、向こうが何を言っているかを上手く読み取れなかったり、即時に適切なレスポンスを返すことができなかったりして、やりとりがとんちんかんになり、そのギャップが狂ってしまったと思われてしまう場合もあります。

 その場合、例えば文字情報で非同期にやりとりをするなどの手段であれば、ちゃんと相手の言うことを正確に読み取る手段と考える時間がとれるので、狂っていないコミュニケーションをとれたりします。

 うちのおじいちゃん(95歳)も耳が遠くなってから、大きな声でゆっくりと話さなければ伝わらず、口頭でのコミュニケーションをタイムリーにとることが難しくなりましたが、まだまだ考え方はしっかりはっきりしているのが文字を使ったやりとりでは分かります。

 そういった、表面上のレスポンスが上手く得られないときには、中身も狂っていると誤判定してしまうこともあるのではないかと思います。

 

 人間が狂っているという判定は、他人とちゃんとやり取りをすることを早々に諦めてしまう側から生まれてしまうこともあるのだと思います。

 

 近年はネットで人と人が繋がりやすいことも狂っている認識の増加に寄与しているかもしれません。ネットでのやり取りは対面よりも情報が制限されているため、欠けている部分を想像で埋めてしまうことですれ違いが起きやすいですし、知らない人に対していきなり一方通行のコメントもしやすいので、やられた側からするとこちらの言うことを理解しておらず話す余地もない雰囲気の人が一方的に話しかけてきたために、「ああ狂っている人だな」と思って終わりになったりしてしまうと思います。

 なので、例えばインターネットで、他人に対して一方的なコメントをし続けることを長年していると、その状態に慣れ親しみ過ぎてしまい、コメントされる他人から見れば双方向のやりとりができないため、どんどん狂っている人と判定されてしまうことでしょう。それは、他の人からは「最初からこちらと上手くやることを放棄している存在」だと感じられるからです。

 

 ただし、人間は別に「他人に狂っていないと思われるため」に生きているわけではないので、狂っていると思われても元気に生きていけばいいのではないかと思います。しかしながら、孤独に耐え兼ねたり、生活に喜びが不足したりするときに、友達や仲間や家族が欲しいと思ったとしたら、狂っていると思われてしまいやすい性質は足かせになります。

 そういうときに、他人と上手くやっていくためのやり方を学んでいくのもいいと思います。そこで、全く異なる感性の人と上手くやってこうとすることに強めのストレスを感じるのであれば、そこまで自分を曲げなくても済む、似た性質の人とだけ上手くやっていてもいいです。

 

 中年からアイドルにハマる知人もちらほらいて、それは「同じアイドルが好き」という部分では一致する人となら上手くやりやすいとか、積極的に合わせなくてもその場にいることだけはできるなどの効果があると思うので、精神衛生上いい効果があることとして機能しているのではないかと思います。

 

 僕の場合も漫画を描く関係の友達がそういう感じなので独身の中年でも具合はいいですね。そんなに労力を割かなくても上手くやっていける人間関係を構築できると、楽しいことも多いですし、自分だけでは知れないことが知れたり、自分だけならやらなかった体験ができたりすると思います。

 また、会社の仕事がそのように機能する場合もあるでしょうが、そういうタイプの人が会社を定年退職したあとで代わりを見つけられずに苦悩する話もあるので、自分にとってどういう場所があるといいかは意識しておいた方がいいかもしれません。

 

 知人のお父さんは、退職後の人間関係の無さから陰謀論の動画をみまくり、SNSで知らない人に当たり屋のようにコメントをしたりしているようですが、それがそのお父さんにとっての会社の代わりの所属の手段であって、主観的な狂わない方法なのかなとも思います。 ただ、その様子を見ている知人からすれば父親が狂ってしまったと判断しているようですが。

 

 このように狂う狂わないは相対的な部分があって、上手くやれる余地があると思えるかどうかなので、どこかの狂わないは別のどこかの狂っているだったりします。

 だから「狂わないようにしたい」という目標はよくない感じがしていて、それよりも、誰と上手くやっていきたいか、その目的と自分の行動は合致しているかを考えることが、調子を崩さない秘訣なのではないかと僕は考えています。