漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

頭が暇になると何も続けられない関連

 何かを続けられないこと結構あるんですけど、そういうとき自分にどういうことが起こっているのかと思っていると、退屈をしているのではないかと思っています。

 

 じゃあ、退屈って何かなと思うんですけど、僕の考えでは脳みそのリソースが余っているということです。目の前にある情報を処理するのに、自分の能力のごく一部しか使わなくてもいい状態が続くと、脳みそが暇になってしまいます。暇になるともっと暇にならないことをしたいと思って別のことをしちゃうんじゃないかと思うんですよね。それが何かを続けられないときには起こっているんじゃないかと思っています。

 だから、何かを続けたいならそんなふうに退屈にならないことが重要じゃないかと思いました。

 

 退屈にならないためには、目の間に情報が十分あるようにすることです。例えば、静止画と動画では、動画の方が長時間見やすいのではないでしょうか?それは目の前に絶えず変化する情報があるからだと思うんですよね。

 一方で、同じ静止画でも「静止画の中に南原清隆が目立たないように仮装して隠れている」と言われたら、しばらく見続けることができるかもしれません。それはその静止画の持つ意味が変わるからです。人が隠れていると言われたら、木々や岩壁の模様を細かく見ていくことが必要になってきますし、その意味で見るべき情報が増えています。

 

 絵画やスポーツを長時間見れる人と見れない人がいます。それは例えば、絵を描く人であれば絵画の筆致を追ったり、全体のバランスを見たりと、自分がその絵から読み取るものを沢山探せたりして長時間見ることが退屈ではなく、スポーツが好きな人であれば、細かいプレーのひとつひとつから何かしら情報を感じることができて退屈ではないのではないでしょうか?

 スポーツが分からない人ならば、試合を見て分かるのは点数ぐらいです。点数だけに着目すると、例えばサッカーでは90分の試合の中で数回ぐらいしか注目ポイントしかありません。その何十分に1回しか来ないタイミングのために情報量が無の画面を見続けるのは退屈じゃないですか?退屈でしょう?

 そして、退屈になったら人はそれをやめて別のことをやりたくなってしまうんだと思います。

 

 歩きスマホもこの理屈で説明ができて、歩いているときには頭が暇なんだと思います。スマホを開けば情報が洪水のように出てきますから、何も見ずに歩くのはやめて、スマホを見て歩いた方が退屈をしませんね。だとすれば、歩きスマホをやめさせるためには、単純に「歩きスマホを止めろ!」というよりは、歩道をスマホを見ない方が情報量が多い環境にすれば自然に止めるように誘導できるのかもしれません。

 それがどういう方法なのかは分かりませんが。

 

 情報量を増やせば、人は退屈せずに離脱しないというのは、YouTuberの動画にも見て取ることができます。YouTuberの動画でワンカットを動作の最後ではなく途中で切り取って、次のカットに繋げるような編集がされているのをよく目にするからです。

 つまり、動作が終わるフォロースルー的な部分には情報量が少ないので、ざっくり切ってしまい、余韻を排除して常にサビみたいな感じにするというのは効果を狙った方法だと思います。

 他には同じ音楽でもテンポアップすれば単位時間あたりの情報量が増えますし、ニコニコ動画のように映像の上にテキストを流せば、テキストを読むことや、テキストの意味をとることで情報量が増え、退屈を減らすことができます。

 

 ただし、情報量をむやみやたらに増やせばいいわけでもありません。なぜなら処理できないほどの流速の情報を目にすると、最初から処理を諦めてしまうからです。諦めたら情報量はゼロです。それは退屈なので、離脱してしまいます。

 頑張ればギリギリ処理できるぐらいの情報量、目指すべきはきっとそれでしょう。そういう意味ではニコニコ動画弾幕と呼ばれる、文字が画面に大量に出過ぎてしまうものは、テキストとしての情報量はゼロに近くなる一方で、光景としての情報量が増えるというケースで、これは面白い現象ですね。

 

 何にどれだけの情報量を見いだすかは、その対象だけでなく、その主体となる人に依存する部分も多いです。例えば、何かが上達することで、より細かい情報を得られるようになって楽しくなることもあるでしょうし、逆に同じ情報しか読み取れないことが繰り返されることで、同じものを見てもだんだんと退屈していくかもしれません。

 歳をとって何かがつまらなくなってしまったと感じるのは、対象そのものがつまらなくなったというよりは、以前にも経験したパターンの繰り返しと捉えてしまうからかもしれません。

 

 一回目はストーリーを追うことで手一杯だった情報量の多い映画は、繰り返し見ても都度それまで気づかなかった別の細かい演技や演出などの情報に気づけるかもしれません。それはつまり何度見ても情報量が落ちずに楽しめるということですが、そのうち限界があります。そういうときに他の人の見方を参考にすれば、また別の情報に気づけるかもしれません(評論や批評に求められているのはこの部分なのかもませんね)。でも、それでもさらにそのうちその映画からはもう何かを得ることができなくなり、ついには見ても退屈になってしまうかもしれません。

 そういうとき、「かつてはあんなに好きだった映画が、今となってはつまらないものにしか見えなくなった」とか思ってしまうこともあると思います。でも、これはもう得られるものは十分得たということだと思うんですよね。だからきっと悪いことではなく、それらは既に自分の血肉になったので、他者としての魅力は感じられなくなっただけなのではないでしょうか?

 

 僕はこういう考え方なので、自分で漫画を描いたりするときにも、上手くできているかは別としてこういうことを考えています。読者に対して退屈をしない情報をページごとに提供できているか?ということを気にしていて、それは少なすぎてもいけませんし、多すぎてもいけないのではないかと思います。その情報は言葉で表現してもいいですし、絵で表現してもいいでしょう。あるいは、コマとコマの繋がりを補完して文脈を認識する読者の心の動きに求めてもいいはずです(ちなみに単位時間あたりの情報量は文、絵、文脈の順で大きくなりがちと思います)。

 それが上手くできれば、退屈せずに読める漫画が描けるのではないかという思想を持っています。でも上手くやるのは難しい。

 

 さて、なんでこういう話を書き始めたかというと、一昨日からリングフィットアドベンチャーという任天堂の筋トレゲームを始めたのですが、これが、退屈をなかなかさせないように気を配られているなと思ったからです。

 僕は子供の頃に器械体操とかをやっていて、その関連で筋トレとかもよくしていました。続けていると回数をこなせるようになってくるんですけど、同時に退屈してきます。なぜなら筋トレ中には数を数えるだけで頭が暇だからです。何の情報量もない状態でただただ運動だけするのに飽きてしまって、なかなか回数をこなしたくありません。頑張ればできるんですけど、頑張らないといけないんですよね。それは張り詰めた気持ちが切れたら止めてしまいます。

 

 一方で、リングフィットアドベンチャーは、多少ランダム性も感じられるRPG的なゲームが、自分の筋トレと連動して進んでいきます。これも、夢中になるほどに楽しいかというと今のところそこまで夢中ということもないのですが、でもかなり気がまぎれるんですよ。頭を暇にさせないことで、肉体のしんどいのを淡々と続けることの退屈も減ります。

 中でも実装として良く感じたのが、筋トレ攻撃をするときに、途中でペースアップするんですよね。これは繰り返しでだんだんと退屈してくるところを、速度を上げることで誤魔化して最後までやり切った気持ちになれてグッドだなと思いました。

 

 リングフィットアドベンチャーをやろうと思ったのはダイエットしようと思ったからなんですが、ダイエット何回かやって何回か成功して、そして継続できずにまた太る、みたいなことを繰り返しているんですけど、続けられないのは退屈しちゃうからだと思っていて、退屈しちゃう理由としては、体重の数字ってそんなにすぐに分かりやすく減らないんですよ。

 ゲームが楽しい理由も情報量の問題として解釈できて、ゲームでは自分の操作に即座にフィードバックがあることで常に新しい情報が出続けるというフローの中で夢中になってしまうということがあります。一方で、体重は運動してすぐに減るわけではないですから、結果が出るのに何週間もかける必要があったりします。ゲームのボタンを押したら、数週間後にパンチが出るゲームをやりたいでしょうか?つまり、沢山操作をしても、そのフィードバックが来るのがとても遅いダイエットは、ゲームとしては退屈だと思うんですよ。

 

 だから、ダイエットをゲームとして面白く続けたいなら、体重以外の数字を見ながらやった方がいいなと思っていて、そこにリングフィットアドベンチャーを頼りたい!!という強烈な気持ちがあるんですよ。ほんと。マジで。

 

 まあ、まだ2日やっただけなので、続けられるかどうかは分かりませんが…。

 

 ここまで書いたのは僕の行動原理のかなり根幹にあるので、かなり大切な話なんですけど、とにかく何かを続けたいときには、そこで退屈をしないようにしないといけなくて、あるいは取り扱えないほどの巨大な情報にそのまま立ち向かうことをやめないといけないと思っています。

 退屈なら何を情報として追加すれば夢中になれるのかを考えますし、情報が巨大だと、その流速をどれだけ搾って見れるように抑え込むかということを考えます。

 

 何かに退屈して止めていまうことは人間の基本的な性質だと思うので、それは根性の無さとかではないと思っています。ただ退屈しないぐらいに情報を増やせばいいのです。情報量がめちゃくちゃ多いときに何もできなくなるのは、やる気のなさではないと思っています。そういうときは、分かるレベルまで情報を砕いて細かくして、分かるものに取り組んでいけばいいじゃないですか。

 

 そういう感じに生きているという話です。ダイエットは成功してほしい。