漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

昔、あずまんが大王が嫌いだった話

 今は、あずまんが大王は何も嫌いじゃないというか、本当は最初から別に嫌いなんかじゃぜんぜんなかったと思うけど、若い頃、あずまんが大王がすごく嫌いだと思っていた。嫌いだったというより、より正確には、これを面白いなどと思ってはいけないと思っていた時期がある。

 

 漫画は何も悪くなくて、こんな風に名前を出すこともよくないのかもしれない。僕がなぜあずまんが大王を嫌いと思っていたかというと、僕が嫌いだった奴が「世界で一番面白い漫画は、あずまんが大王だ」と言っていたからだ。ほんとうにしょうもない理由だ。

 僕が「あずまんが大王は面白い」と感じてしまうことは、「僕が嫌いなあいつの感性を肯定すること」だと思ってしまったのだと思う。そんなわけはないし、全く無意味なことを思っていたなと思うけど、当時はそう思わないでいられるような感覚がなかった。

 

 その嫌な相手は、ある繋がりでたまに一緒の空間にいなければならない人だった。

 

 僕が彼を嫌いになった理由は分かりやすくて、彼が僕が好きな漫画のことを「気持ち悪い」と表現したからだった。すごく嫌だなと思って、なんで人が面白く読んでいる漫画についてわざわざそんなことを言ってくるんだろう?と思った。それだけだ。それだけのしょうもない話なんだけど、たったそれだけで、その後何年もの間、あずまんが大王を面白い漫画とは思ってはいけないという感覚に囚われ続けてしまった。

 人間はしょうもない。一般化し過ぎた。僕はしょうもない。

 

 でも、もしかしたら今は頑張って切り離しているだけで、今でも同じ感覚はまだあるのかもしれない。

 

 例えば、SNSでの振る舞いが嫌な作者の描いた漫画を、面白いと思ってはいけないという感覚があったりはしないだろうか?SNSでの振る舞いを否定したいがために、相手の漫画をつまらないと表現しようしようとしてしまうとしたら、それは人間と人間の問題であって、漫画の問題ではないだろう。でも、そこを綺麗に切り分けることが本当に誰もに完璧にできるのだろうか?ということも思う。

 もしくは、他人が好きなものをこき下ろすことで、自分が相手より優位に立ったように感じてしまったりしないだろうか?それはひょっとしたら、嫌な相手が僕に向けてきた感覚の裏返しで、同じものなのかもしれない。

 

 オタクは、何かが好きとか嫌いとかで自分を語ってしまいがちなのではないかと思う。何かが好きとか嫌いとか言うことが、オタクにとって自分自身を記述する数少ない方法なのだとしたら、そこにはきっと優劣も生まれるのだろうと思う。人間は他人との優劣を気にしてしまう生き物だからだ。

 何かのことを好きな自分は、別のものを好きだと言っている他の誰かよりもいいセンスをしているとか。何かを嫌っている自分は、他の誰かよりいいセンスをしているとか。それは自分が属する集団の中の序列の話で、人間関係の話で、人の心の問題だろう。漫画は実はあんまり関係ない。

 でも、そういうことをしてしまうんじゃないかと思う。漫画そのものじゃなく、それを好きとか嫌いな自分の話をしてしまうんじゃないかと思う。何が嫌いかより、何を好きかで自分を語れなんて台詞があったけど、好きとか嫌いとかを感じてしまうことそのものは個人の感覚だから別にいいとして、好きだろうが嫌いだろうが、それを他人との序列を認識するために使うことには本当に自分に得があるんだろうか?と思う。実際は自分が楽しめる範囲をわざわざ狭くしているだけなんじゃないのかと思ったりする。

 

 こういう経験は、友達のオタクたちにも少なからずあるようで、「自分が好きな漫画を、他人に薦めるときに重要なことって何かな?」って話をしていたときに、最終的に大事なのは「薦めている自分の好感度」だなという結論に達した。

 僕が嫌な人間だと思われていれば、僕が薦める漫画をむしろ嫌う人の方が増えるだろう。僕があずまんが大王を嫌ってしまったように。

 もしくは、自分と自分が好きな漫画を一体化して、我こそがこの漫画の一番のファンであるぞ!!という顔をし始めても、その漫画を何のしがらみもなく楽しむことができる人は減るかもしれない。ファンコミュニティの序列の中で、自分は上で、お前は下だと言われ続けるかもしれないからだ。

 

 僕は自分が好きなものが、世の中でも広く好かれているといいなと思う。それは別に善良さではなく、個人的な利益の話だ。つまり、自分が好きなものが嫌われている光景を見ると傷ついてしまうからだ。そう、結局のところ完璧に切り離せてなんかいない。ただ、僕が好きなものを皆も好きであれば、そういうことは起こらない。自分の好きなもので世の中が満たされていさえすれば、僕も機嫌よく過ごすことができる。

 でも、実際の世の中は僕と同じ形をしていない。百人いれば百人の違った形が存在する。全ての人間にとって心地よい形を満たすようにすることは不可能なのかもしれない。だから、たまたまそうあってほしいと願うことぐらいしかできない。

 そして、自分が嫌いなものの感性で世の中が満たされてしまうことにも怯えてしまうのかもしれない。だから僕はそれを拒絶しようとして、面白い漫画を面白いとは思ってはいけないと、頑なになってしまっていたんじゃないかなと思う。

 

 そんなふうに色々思うところがあって、何かの特定のものが好きなオタクの集団には深く属さないでオタクをやろうという気持ちがある。なぜならそこにはどうしても序列が生まれてしまうだからだ。自分は他の誰かよりもこれが好きだとか、作者と仲がいいだとか、あんなものを喜んでいる奴らはレベルが低いだとか、そういう序列の話が生まれてしまう。

 そうじゃないんだよな。ひとりで読んでてなんとなく面白かったなとか、楽しかったなとか、救われた気持ちになったなとか、そういうことをしている時間が好きなだけなんだよな。

 だから、同じものが好きなオタクの集団に無理に属する必要はないし、ひとりで楽しくやってりゃいいんだと思う。

 

 僕は今、あずまんが大王を面白く読める。でも、かつて嫌いだと思っていたことに少しの後ろめたさがある。いまだに。