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批評的行為と序列の認識を分けて考える関連

 作品を批評する行為に関して「近年はコミュニティの和を重要視して、貶す批評が忌避されているのではないか?」という意見があるのをこの前読んで、自分の認識とは異なっていたので、それを書こうと思います。

 

 実際、近年「何かの作品を、価値が低いものであると否定するタイプの批評行為」に対する反発があることは感じています。僕自身も実際に他人のそのような文章を読んで、嫌な気持ちになったりすることもあるので(該当作品を好きな場合には特に)、そういう雰囲気に対する自分の中からの実感もあります。ただ、人が何かを思うことは自由ですし、それを外に向かって表現することそのものは、別に咎められるいわれはないと思います。

 

 ただし、外に向かって発したものもまた、ある種の表現である以上、それに対するリアクションもあるでしょう。そしてそこに、人と人との意見の相違による摩擦のようなものが発生することも避けられないと思います。

 

 つまり、人は自由だが、自由であるということは争いも起こるものだろうということです。

 

 さて、そのような価値観の摩擦による争いが起こることを避けるなら、否定的な批評というものはその火種になりやすいので避けられるかもしれません。それをもってして、否定的な批評を避けた方がいいというような流れが存在しているということ自体はあるのではないかと思います。

 

 なので、「否定的な批評が避けられる風潮がある」ということに対する認識相違はありません。僕が認識が異なると思ったのは、それが「作品そのものに対する純粋な批評行為ではなく、コミュニケーションを重視してるから起こること」だという解釈の部分です。そして、僕が思うのは、それは「その批評の中に作品そのものに対する純粋な批評行為以外の、コミュニケーションが発生しているからこそ起こっている」のではないかということです。

 

 つまり、批判されているのは、「コミュニケーションを重視していないから」ではなく「コミュニケーションを重視しているからこそ」なのではないかという点が見解の相違の部分なのです。

 

 作品に含まれる何らかの要素について、それを良しとするか悪しとするかが、その周辺の人々との関係性に影響を与える行為として存在しているように僕は思います。

 それは批評をする側にとってもそうですし、その読み手にとってもそうだと思います。そのようなコミュニケーション要素が多いか少ないかはあるにせよ、批評からコミュニケーション性を完全に取り払うのはとても難しいことなのではないでしょうか?いや、批評に限らず、人間が発する言葉には少なからずそのような要素が含まれてしまったりします。

 

 ここで言うコミュニケーション性とは、代表的なものを取り上げるなら「格付け」です。批評をすることによって、「そう考えたり、感じた自分」のブランディングとして、集団における自分の格付けを上げようとする行為が発生します。そして、その批評に読み手によるリアクションとしての、それの格付けへの抵抗という綱引きが存在したりします。それによって、揉め事が発生しているように見えるケースがよくあるように思います。

 

 人間は集団における序列を非常に気にしてしまう性質があると思います。つまり、自分がある種の集団の中で、どのポジションにいるかを気にしてしまいますし、他人がある集団の中でどれぐらいのポジションにいるかも気にしてしまいます。

 なので、例えば、批評者が自分の序列を上げようと思って何かを悪く言っている場合、あるいは、たとえ意図がなくとも、そう思われる可能性のある書き方をしてしまっている場合、そこにはその批評を読んだ人からの反発心が発生しやすいのではないでしょうか?

 

 なぜなら、批評を読んだ人の中で、その批評を書いた人の序列が高いとは限らないからです。特にその作品のファンの場合、作品や作者の方が序列が上なのは確定的で、批評者はそれよりもよっぽど序列が下です。そんなときに批評者が、作品を踏み台にすることによって、自分の方が、この作者よりも価値の本質を分かっているという主張をしていると思ってしまうと、それは否定したくなってしまうと思います。序列が矛盾するからです。

 

 批判が揉めを誘発しやすいのは、そういう部分だと思っていて、批評の中で褒めている場合には、批評者の序列はどれだけ高く行っても作者と同等(同じものが分かっている)ですが、批判の場合は、批評者の方が作者よりも高い序列に位置づけられようとしてしまう可能性があります。

 例えば批評者が「この漫画の作者は面白さの本質がわかっていないので面白くない」という種類の主張をした場合、批評者は漫画の作者以上に面白さの本質に近い立場にいるという主張として読み取れます。しかしながら、その批評者は実際には漫画を描いているわけではなく、その作者よりも面白い漫画を描いてみせることで主張を証明して見せたというわけでもありません。

 

 なので、「漫画の面白さの本質を分かってる序列」において批評者が作者よりも本当に序列が上であるかは、一目で分かるようには示されていはいないわけです。ならば、批評文の中で、なぜそう思うかという部分を説得的に記述する必要があります。そこで書かれたのロジックや提示される証拠が、批評の読者にとって納得できる内容になっていなければ、それは「序列の低い人間が、序列の高い人間よりも自分の方が上だと主張している」という文として読めるはずです。

 そして、だからこそ、そこには納得できないという不協和が発生し、批評文への反発が生まれやすいというふうに僕は理解しています。

 

 そもそも論で言えば、批評の中で、批評者が何かの作品を良いと表現しようが悪いと表現しようが、その人が実際にそう感じたのであれば、そこに他の人が口を挟める余地は本来ないはずです。なぜなら、そう感じたのだから仕方ありません。辛いものを食べて辛いと感じたとき、他の人に辛くないと言われても、自分が辛いと感じたものが消えるわけがありません。

 

 しかしながら結局のところ、それを口に出すということには別の意味が出てしまいます。その代表的なものが、人間の序列における格付けです。本人が意識をするしないに関わらず、そのコミュニケーションが発生してしまうせいで、批判的なものは軋轢を生みやすく、風潮として避けられるようになっているのではないかというふうに思いました。

 これは、ネットによって多くの人が繋がりやすくなってしまったことでより鮮明になってきていると感じていて、つまり、人の序列の格付けがはっきりしている間柄であれば、何かを悪く言っても序列違反が起きないので問題とならないからです。

 でも、それは小さな集団の中での話であって、より広い場所では成り立ちません。

 

 具体的に言えば、例えば大学の漫研の中で、先輩が後輩に対してある漫画を取り上げて「この漫画は面白さというものを全然分かっていない」という話をしても、後輩にとって先輩が漫画力が上と考えていれば特に問題になりません。序列が変わらないからです。しかし、その先輩が世間的に別に何者でもない場合、その会話がネット等で外に広まれば、「イキった大学生が何かを否定的に言うことで、作者よりも自分はすごいと言っているというイタいもの」として取り扱われてしまうかもしれないというような話です。

 

 広い世界に繋がっているインターネットは怖いですね。

 

 そして、これは僕がたびたび言う話でもあるのですが、このような構造の中には罠があります。つまり、自尊心を保つために何かを悪く言うという行為をしてしまった先にあるのは、何も面白く感じなければ自分が世間の面白いものが分かっている人になれるという思い込みだからです。

 世間で皆が楽しんでいるものを否定的に言えば、それを作った人や、それを楽しんでいる人よりも自分の感性が上等だと主張する手段になるかもしれません。そして、それを広げていくなら、「何も面白いと感じないこと」が自分が一番と感じられる道です。

 

 でも、それって本当に勝利でしょうか?だって、何も面白いと感じてはならないなんて、めちゃくちゃしんどいじゃないですか。

 

 そして、何かを悪いと評価する表現が適切ではなかった場合、それを良いと思っている人たちからは反発を受けたり、距離をとられたりしていきます。行き着く果てにあるのは孤立でしょう。

 

 そういうことを避けるためには、何かを否定的に批評するときこそ、自分がそこに序列意識を見出していないかを気にする必要があります。そして、その気持ちがなくとも、自分の書いた文章がそう読めないかどうかに注意する必要があります。

 「これを否定している自分ってイケているよね?」みたいな目くばせが文章に含まれてしまうと、どうしても反発を招きやすいからです。「お前は別にイケていないぞ!」という反発が沢山集まるのを避けるためには、批評の中から序列意識をできるだけ排除することが重要だと思います。

 

 なので、序列を意識したコミュニケーション性を排除しさえすれば、作品を否定的に批評しても反発は起きにくいのではないかと思っているということでした。

 

 これは原則論なので、他にも色々抜け道的な方法はあります。例えば、自分が見ている世間で、劣っているという共通認識が明確なものであれば、貶しても自分の序列と世間の序列に齟齬が出にくいので反発をされにくかったりします。あるいは、自分が表現者としてめちゃめちゃ優れているということが世間で認められていても、序列に変化が起きにくいからいいかもしれませんね。

 

 僕は外部に公開する感想文を書くときは、そういうことを意識しながら書いています(上手くできているかは分かりません)。