漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

文章原作を批評のように漫画に変換する関連

 2/28(月)に発売のヤングキングから、3号連続で3話完結の漫画が掲載されます。

 

 こちらの漫画は頂いた文章原作を元に漫画を作っているのですが、ネームにする段階で好きに演出していいという、非常に大らかな話になっているので、僕の方で原作の中身を色々組み替えて漫画にしています。そして、その結果のネームをチェックしてもらい、OKなら作画に入って完成に至っています。

 なぜ完成までにそういう工程を経ているかというと、それは、文章で綴る物語と漫画で描く物語は、特性がかなり異なるため、最終的には漫画としての最適な形を探らないといけないと僕が考えているからです。

 

 文章の物語を漫画に変換する際に気を付けるポイントは、大きく以下の4点です。

(1)フキダシに収める文字数

(2)絵的な演出の追加

(3)コマ割りの圧縮

(4)ページ数調整のための構成変更

 

(1)フキダシに収める文字数

 漫画では、基本的にセリフをフキダシに収める必要があります。しかし、文字が多くなるとフキダシ自体が大きくなってコマの中に占める領域も大きくなり、その場合、絵がその隙間に入るような窮屈な形になってしまう可能性があります。また、漫画はかなりの速度で読まれるので、言葉は一瞬で意味がとれるまとまりになっておいた方が良いという側面もあります。

 そのため、元のニュアンスを残したままで、セリフを分割したり言い換えたりすることで、読む際のテンポ感を作れるように変換をしています。

 ただ、セリフは原作の要素の中で重要な部分だと思うので、どこまで変えていいのか?という懸念はあり、チェックしてもらってOKは出ていますが、変えてしまうときの申し訳なさがあります。

 

(2)絵的な演出の追加

 漫画はパラパラとめくったときに目に留まるようなコマが1話に少なくともひとつはあった方がいいと思うので、そういうコマがどこに入れられるか?を考えて入れています。場合によっては、そのシーンを足したりもしています。

 絵の文章とは異なる特性としては、「見た瞬間に理解ができる」という部分があり、文章であれば、ひとつひとつの描写を追っていかなければ書けないものを、絵であれば一目で理解できたりするので、ダイナミックな動きや、微妙な表情に関しての描写を絵で追加することで画面から読者が読み取れる情報量を増やすことができます。

 

 漫画の絵というのは、単純な絵というよりは、ある種の象形文字だと認識していて、ひとつひとつの絵が示しているものは何か?という、その意味の部分を読者に伝える必要があります。なので、地の文を絵というひとつの象形文字に圧縮するような工程や、絵を追加することで文を補強するようなことが、漫画であればできます。なので、それをやろうとしています。

 

(3)コマ割りの圧縮

 文章で書けば短く書けるが、絵にしようとするとコマ数を費やす必要のある描写があります。例えば、「冷蔵庫を開け、中に象を入れ、冷蔵庫を閉める」という文章を絵にしようとした場合に、どの描写も省略できそうにないため段階を踏んで最低3コマ必要です。その場合、それを1コマで表現する言い換え(描き換え)がないか?を検討する余地があります。

 果たして、本当にここで言いたいことを表現するために、冷蔵庫の中に象を入れる描写に3コマも費やしていいのだろうか?重要でないならば、「冷蔵庫からパオーンと声が出ている描写」で済ませてもいいのではないだろうか?などを考えます。

 重要なのは、原作が描こうとしていることについて、その描写そのものが重要な役割を果たしているものであるかどうか?という部分です。それを考えるためには、原作が何を描こうとしているのか?という部分を考える必要があります。

 

 そう捉えたとき、これは批評的な行為だなと思う部分があって、つまり、この原作は何を描こうとしているのか?を考えることで、限られたページ数の中で、何を「重要」だと考え、何を「さほど重要でない」と考えるかを判断し、重要でない描写を圧縮することで、重要な描写により多くのコマを割けるようになります。

 

(4)ページ数調整のための構成変更

 これは(3)とも共通する部分ですが、原作をそのまま漫画に置き換えた場合に、全体のページ数が長くなってしまう可能性があります。ただし、紙面に載せられる分量には限界があるので、規定ページ数の中にそれを収めなければなりません。

 そのため、全体の構成上、なくても辻褄が合う部分を探して省略したり、複数の場面を1つに合成することで全体を圧縮したりをしています。

 

 基本的な考え方としては、同じ内容が表現できるのであれば、ページ数は短い方がいいと思います。なぜなら、長い話はそもそも読んでもらえない可能性が上がると考えるからです。ページをめくってもらうためには、ページをめくるごとに可能な限り密度の高い情報が出てきた方がよく、そこで、もしページを増やすのであれば、その増やした部分に見合った新しい何かを表現する必要があるのだと思います。

 そういえば、今回の話は3話構成ですが、当初は2話構成で考えていました。2話構成のネームを元に打ち合わせたときに、描こうとしているものに対してページが足りていないという判断があり、最終的にもう1話追加させてもらいました。追加ページで、当初の設計では落とした演出上追加したかったものが表現できたので、かなり良かったです。

 

まとめ的な

 ある物語を別の媒体で表現するにあたっては、表現媒体の特性に合わせた変換を行う必要があるものだと思います。これは例えば、よく批判のやり玉に上げられる漫画の実写映画化などでも当然そうだと感じています。長大な物語を映画の2時間前後の尺に収める制約や、漫画の絵では良くても、実写にすると不自然になるビジュアルや、言葉のやりとりなどは、必要がある場合に変えなければ映画としての表現を棄損する可能性があります。

 例えば、実写映画版のるろうに剣心では、技の名前を叫ぶという描写がなくなっています。これは実写化する上での重要な変換部分だと思っていて、人が技の名前を叫びながら戦うのは、漫画やアニメではよくても、実写で違和感がある部分だと思うからです。もちろん技の名前を叫ばせながら上手く演出する方の道もあると思います。ただ、これまでの実写映画のシリーズでは、その判断をしたということが分かります。そこには、その判断をする意志が存在したということです。

 他の例では、漫画の格闘ゲーム化などでもそういう側面があるかもしれません。例えば、漫画の中には明確な強さの序列があることが多いと思いますが、格闘ゲームでその部分を再現し過ぎた序列があると、ゲームとして成立しなくなってしまいます。作中で最弱のキャラが最強のキャラに勝利することがあることは、原作漫画においては解釈違いですが、ゲームとして成立させるためには重要な部分で、そこをどのようにバランスをとって変換するかという部分に判断が存在します。

 

 僕は、媒体が異なれば別物だと昔から考えているので、漫画を原作とした別の媒体の何かが作られる際には、原作の何かが変わってしまうという部分に対して、基本的にはそういうものだと思っています。僕は、原作の何かがそのまま再現されるかどうかにはあまり興味がなくて、むしろ媒体特性に合わせて当然変えるべきものだと思っています。

 ただし、その過程において「どこを変えずにどこを変えるのか?」という部分に、制作側の批評家としての態度が求められるのではないかと感じています。つまり、その原作において、重要な部分はどこであって、どの部分を再現して表現しきれば、それ以外の手段は変えてもいいのか?という部分に批評家としてのセンスが問われるのではないかということです。

 この場合の批評家という言葉が意味するものは、「その作品が何であるかを、自分なりに捉えようとする態度」のことです。

 

 ただ、変換する過程で核の部分まですげ替えてしまうことで内容を乗っ取ってしまうという手法も世の中にはあって、これは原作ファンからすると怒りの対象になりがちな行為ですが、にもかかわらず、そのような形の名作もあります。

 例えば、宮崎駿のアニメ映画ではそのようなことが行われることが多いと思っていて、「カリオストロの城」のルパン三世は、原作漫画のルパン三世とは異なる人物だと思いますが、それでもカリオストロの城は名作だと僕は感じているんですよね。押井守による、「うる星やつら ビューティフルドリーマー」なども同様ですし、他にも例は沢山あります(僕は実写映画の「バクマン。」もそう捉えています)。

 

 さて、僕自身が原作の良さを損なわずに漫画化出て来ているか?という部分には不安もあります。でも、皆さんは原作を直接読むことがないので、そこに差がある可能性に気づかないかもしれません。

 ただ、僕はできうる限り、藤見登吏央先生の原作の核の部分はここであるという部分に対して批評家としての態度で臨んでいます。そして、それを表現するために、原作を変換した部分が上手く行ったかどうかについては、読んでもらって想像してもらうしかありませんが、もし、この漫画を面白いと思って貰えたとしたらなら、それは僕が原作を読んで面白いと感じた部分が上手く表現できたということではないかと思います。

 来週発売なので、よかったら読んでみてください。

 

 余談というか、思い出したので書きますが、僕はこれまで書いたような意味で「ドラゴンクエスト ユアストーリー」は、かなり媒体の変換を考え抜かれた作品だと思っていて、個人的な評価は高いです。そもそもゲームというインタラクティブな媒体特性を利用した、2人のうちのどちらかをプレイヤーが選ぶという内容を元に、一本道の映画に変換するにあたって、かなり考え抜かれたパズルを上手く解いたような描き方をされていると感じました。

 ゲームでは描きにくかった映像表現の追加や、時間に合わせた内容の省略の仕方と、その辻褄の合わせ方、全てが良く出来ていて、惜しむらくは、結末における主人公と敵とのやり取りに、目新しさを感じない内容だったので、そこが印象を悪くしたなと思いました。

 そこさえ除けば、めちゃくちゃ満足した映画です。そして、そこの印象の悪さが全体の評価に波及しているという残念な扱われ方をしがちな作品だなと思っています。