漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

インターネットに最適化されたくない最近の気持ち関連

 世の中は、無数の小さな社会が重なり合っていて、それぞれの社会には正解とされる立ち振る舞いがあります。それは、ルールとして明文化されているものや、マナーとして共有されているもの、あるいは、構成員のそれぞれが暗黙のうちに読み取るものなどで、その立ち振る舞い方を獲得することで、その場所にいることが許容されるというようなことがあると思っています。

 

 それはインターネットでもそうで、インターネットもひとつの社会です。インターネット入り浸り人間として、自分が知らぬ間に見ているインターネットに最適化されている立ち振る舞いをしていることに気づくと、おっ、いつのまにか最適化された立ち振る舞いを身につけているなと思ってしまいます。

 

 それがなんか嫌だなと最近は思っている感じです。

 

 僕が認識しているインターネットの適切な立ち振る舞い方はいくつかあります。例えば、インターネットで攻撃性のある言葉を発すると反発が生まれます。反発があると、知らん人に怒られたりするので、怒られたくないなと思うと攻撃性を無くすような物言いをする必要があります。

 でも、目の前に出てきた情報があまりに自分の感覚と違いすぎて、そこにひとこと言ってしまいたいと思ってしまうということはあると思います。これはきっと誰にでもあります。全くないと言う人は嘘をついているのでは?と疑ってしまいます。

 とにかくそこで出てくるのが、表面上の攻撃性を排除した物言いです。一見良いことを言っているようなように見せることで、他人を攻撃しているように見せないことで、即物的な反発を避けることができるやり方です。でも、よくよく言っていることの向いている先を見てみると、自分とは異なる考え方の否定や排除であったりするものです。それはやっぱり他人の持つ価値観への攻撃性です。

 どれだけ丁寧にバリ取りをして、そうではないと見せかけたとしても、言っていることは他人の持つ価値観への否定なのだから、そこを見逃さない人もいます。そういう人は、自分たちが攻撃されているのだから当然反発をしますが、表面上の攻撃性を排除した物言いを支持する人たちは、自分たちには攻撃性がないように振る舞っているものだから、あいつらは攻撃的で自分たちは平和的であるかのようにしようとしてしまいます。

 これはボクシングがグローブを導入したことで、人を殴る技術が高度化したような話で、他人を殴っても自分の拳が痛む可能性が低くなるので、より人を殴りやすくなるというような話です。そして、このような防御方法を長く使っていると、自分は実際は攻撃的なことを言っているくせに、まるで自分には攻撃性がないように誤認してしまうのではないか?と思っています。自覚のない暴力性は、歯止めがないため、それをエスカレートさせてしまうのでは?という危惧があります。

 

 分かりますか?僕もいま攻撃性を排除したようでいて、特定の人を攻撃するようなことを書いています。僕はこういうことを誤魔化さないようにして、これは自分は誰かを攻撃しているんだという自覚を持ち、そこへの反発を受け止めることの方が誠実なんじゃないかと最近は思っているわけです。

 世の中を見回すと、言い争いをしている双方が、自分たちは平和的で理知的で論理的だが、相手は、攻撃的で乱暴で非論理的であると言い合っていることがよくあります。そういうことの不毛さみたいなのを最近は感じています。

 

 どうせなら、「自分は他人に対する攻撃性を抱えていて、それを定期的に外に出してしまうような人間なんだ」と思った方がましだなと思っていますが、とはいえ、やっぱり身近な人に過度に攻撃的な物言いをするのもどうかとも思っています。だって、わざわざ嫌な言い方をされるのは、実際自分がされたら嫌だなと思うからです。

 ただ、そこはやっぱり婉曲的に言うよりは、自分はそれをよくないと思っているが、それでもお互いにうまくやっていけるやり方を模索する方が、明示的に言わずにずっと違う違うとイライラし続けたりするよりは、少しでも違う在り方に到達できるかもしれないので、そっちの方が良い感じがするんですよね。

 身近でなければ、距離をとればいいだけですが。

 

 もうひとつ、代表的なインターネットでの振る舞いについては、自分の立ち位置を明確化するための他人を利用するというものがあります。

 例えば、自分の正しさを主張するためには、自分とは逆の立場の間違っている人を見つけてくれば簡単みたいな方法です。でも、間違っているものを否定しても、間違っているものを否定しているだけで正しいわけではないと思うんですよね。狂った人を笑っても、自分が狂っていないことの証明にはならなくて、自分もまた別の種類の狂った人かもしれないからです。

 

 ただ、間違っていることを否定することで正しくなるという方法は、とても流行していて、僕もそれをしてしまっていることもあって、そしておそらくは、インターネットで耳目を集めるために、意図的な嘘でそれをやっている人たちもいるように感じています。

 例えば、自分が作っているものについて、別の誰かにとてもひどい扱われ方をしたという主張をすれば、自分が作っているものが良いものであると主張するよりもずっと多くの耳目を集めやすいという状況があります。それを利用して、本当にはなかったひどい扱われ方をしたという情報を作り出しているような人がいるように感じてしまうんですよね。

 別にそれをすることがそんなに悪いとは思っていなくて、それにインターネットの社会が強く反応してしまう状況がある以上、どうしようもないのかなと思います。ただそれはきっと多重構造になっていて、「ひどい人がいて、それを否定する」ということには、その話を最初に作り出した人だけでなく、広めようとしている人たちにもメリットがあることだと思います。だから根深い話だと思っています。

 

 このように、「自分たちが正しいことを証明するための、一番簡単で効果的な方法が、自分たちとは真逆の立場の間違い方が分かりやすい人を否定する」ということになってしまうということは、実は共犯関係と言えるのではないのかなとも思ってしまいます。

 それは結局、いつまで経っても、自分達とは異なる側に分かりやすく間違っている人が必要になってしまうので、分断が存在し、問題が解決しないことが最適解になってしまうんじゃないかと思っていて、その状況がいいとは思えないなという気持ちがあります。

 

 そういうことを思ってから、自分が正しいことを証明するには、正しいことが世の中に増えるように行動して振る舞っていくしかないなという諦めのような感情があります。間違っている人を探すことをいくらしても、そういう人がただ見つかり続けるだけだし、自己主張に利用するために、むしろそういう人を優先的に探さなければならなかったりするように思ってしまいます。

 それはある種の最適解なのかもしれませんが、そんなことをずっと続けてもしかたがないなという疲れた気持ちが出てきました。

 

 誰も彼もをバカだと言い続けている人が一番賢い人でしょうか?そんなことないですよね。賢くあるためには、賢く行動をし続けなければならなくて、でも、それはコストの高い行動です。だからといって、それを他人を否定することによって達成しようとするのは、即物的には意味があっても、結局現状を維持をしてしまうだけで、自分が解決したいことを解決することには繋がらないのではないかと思うようになりました。

 

 これらのような最適化は、挙げれば他にもいくらでもあります。僕が見ている範囲のインターネットという社会にはある種の偏りがあって、そして、その偏りに合わせて無意識に最適解となる振る舞いをしてしまうようになっている自分に気づくことがあります。

 そして、同じように最適解を読み取っている人と、似通った発言をしてしまっていることもあって、これがこの社会ではきっと正しい振る舞い方なのだなと思ったりします。

 

 そうであることは別に何も悪くはないというか、それを悪いと言うのは、結局その自分の足場を別の社会に移しているというだけの意味しかないんじゃないかとも思います。

 でも、自分が最適化するのはここでいいんだろうか?という疑問が常々あって、そして、社会の側に自分の正しい振る舞いが規定されて、それを再生する装置にしか自分がなっていないんじゃないか?という疑問を持ってしまうと、色んなことを虚しく感じてしまうようにも思いました。

 

 なので、一回全ての社会性を捨ててみて、自分がどう振る舞いたいのかについて、それが今足を踏み入れている社会における最適解とは異なっていても、自分がどうしたいかの方を優先させて、ぶつかるところはぶつかってみてもいいんじゃないかということを思っています。

 でも、それで結局揉め事が生まれて疲弊してしまったりもするんだろうなとか、そういうこともぐるぐる思っています。

 

 インターネットへの最適化された振る舞いによって、僕の人間性が実態よりも良く見えてしまっていると、結局実際はそうではないことにがっかりされるのは自分だなと思って、ある程度内面を露悪的に出すことで牽制していきたいなという気持ちがあります。

 そして、矛盾するようですが、自分の内面が別に良くはないとしても、それでも他人と接する部分に対しては、良く見せていきたいと思うことが人間の祈りだなと思ったりもしています。結局、内面なんて直接見ることはできないのだから、その人が他人に対してどのように接したいかと思うことそのものと内面をそんなに切り分けることができるのか?と思うからです。

 あんまり良くない例示かもしれませんが、どれだけ人を殴りたいと日頃思っていたとしても、それでも殴らないと決めていることが人間性であって、そして、死ぬまでその内面を発露することがなければ、それはきっと人を外面が内面よりも強かったという話だと思うんですよね。

 

 このように、自分の中でもどのようにするべきかの考え方が一本筋に固まっているわけではありません。でも、考え方を変えてみれば、この揺らいでいる状態が一番いいのかもしれません。たったひとつの正しいやり方が決まってしまえば、それは結局その方法に最適化されるきっかけになってしまうからです。

 ある場所に最適化され過ぎると、別の場所には適応できなくなるかもしれません。僕の考える人間の強さは、その揺らぎを上手く使って、色んな社会の色んな状況にどこでもそれなりに対処できるようなものです。そういう風にやって行けると、一番自分が嫌な気持ちにならずにやって行けるような気がするからです。

 

 分かりませんが。