オタクなので、自分が好きなものを世の中に広めたいという気持ちが湧いてしまいます。
これ、昔からなんでかなあと思い続けていて、だって、別にそれが広まったところで、自分にお金が入ってくるわけでもないし、その作品の評価が自分の評価になるわけでもないじゃないですか。別にメリットはないわけですよ。じゃあなんでわざわざ労力をかけてまでそんなことをしてしまうのかなと思ってしまいます。
その対象があまり世間的に知名度のない漫画であれば、それが広まることで連載が長く続いてくれるというようなメリットもあるように思いますが、自分の胸に手を当てて考えてみて、それは核心ではないような気がするわけです。
だってそれじゃあ、既にそこそこ売れている漫画なんかに関してはその気持ちが湧かないはずですけど、ぜんぜん湧いて出ますからね。
で、一応今の結論が出たんですけど、これは「自分の頭の外が、自分の頭の中と同じであって欲しいという願望」なんじゃないかと思いました。これは最近よく考えていることの延長の話です。
人間は、自分の頭の中を生きているわけですが、生きる中では自分の頭の外とも接する機会が沢山あります。その時、自分の頭の外が、頭の中と違っているとストレスを感じてしまうんだと思うんですよね。
「お米はおいしいな」という認識が自分の頭の中にあったとして、自分の頭の外にいる他の人たちが、「いや、お米は不味いよ」と言ってきたとしたらどうでしょうか?ストレスなんじゃないでしょうか?
そんな時、「そんなことはない!お米は美味しいよ!!」と相手に食ってかかったり、「そうだよね、言われてみればお米は不味いのかもしれない」と自分の認識をそちらに合わせたり、「はー、この人はお米を不味いと思っちゃうんだな」と自分と切り離したりをしなければならなくなります。つまり、自分が単純にあるがままではいられないので、こういうのが頻繁にあるとしんどいように思います。
だから、「最初からみんながお米を大好きであってくれ!!」って思っちゃったりしませんか?だから、そうなるように行動しちゃったりするんじゃないかと思うんですよ。
自分が好きなものは、みんなも好きであってほしいし、自分が嫌いなものは、みんなも嫌いであってほしいなんて思っちゃったりします。このような、最初から自分の頭の中と外が一致しておいて欲しいという願いが、自分にはあるような気がするんですよ。
だから、少しでもそうなるように、これが面白いよって話をしてしまったりしてる気がします。
ただ実際には、自分の頭の中と外にギャップがある方が当たり前なので、そう簡単にはいかないですよね?だから、自分の頭の中ほどに外で評価されていないと思ったものには「もっと評価されるべき」と言ってしまったり、自分の頭の中では評価が低いものが世間的に評価されていると「世間は分かっていない」みたいな話を延々してしまったりします。
でもそれってまとめると、「自分の頭の外が自分の頭の中のようになっていないこと」が嫌で嫌で仕方がないみたいな感情で、それって実は不毛なことなのかもしれません。だって、頭の中は人の数だけあるので、全員の願望が同時に全部満たされることってないじゃないですか。
そう考えてみると、世の中の全部を無理やりにでも自分色に染めてやる!!みたいなことをし続けるには無限の力が必要だと思ってしまいますから、早めに諦めて、なんかぼんやりと、へえ、みんなはそうなんだね、僕はこれをこう思うけど…みたいに、自分の頭の中と外は違うものだということを受け入れてしまって、自分の頭の中だけで辻褄があっていればもうそれでいいじゃないか…みたいな気持ちも生まれてきます。
別にそれでいいんですよ。自分が楽しめりゃそれ以上望むところはないですからね。僕は。個人的には。これはおそらく老化なのではないかとも思いますが。
なお、自分に対してこう思うということは、他人に対しても同じ目線を持ってしまうということです。なので、自分の好きなものを必死で広めようとしていたり、自分が嫌いなものが世間でウケているときに怒ってしまったいるする人については、今の状態がギャップがあって辛いんだろうなという解釈をしてしまいます。だから、それをなんとか解消したいのだと。
オタクがとりわけそんな感じになるというのは、オタクって基本的にはマイノリティですから、自然な状態だとそのギャップが大きく見えてしまうんだと思うんですよね。だって、自分が好きなものが最初から世間でウケているものと概ね一致していれば、その感情自体が最初から生まれないじゃないですか。
どうして自分が好きなもの、嫌いなものは、世の中で大勢のそれと一致していないんだろう?という気持ちを解消するための活動が、これが面白いよってみんなに言ってしまったりすることであって、それが上手く行けばギャップが減って生活がしやすくなりますし、失敗すれば余計にしんどいみたいな感じなるでしょうね。きっと。
僕はそういうのはもう疲れたので、そういうオタクの気持ちはひとりで抱えてりゃそれで充分だな、みたいな感じに落ち着きつつありますけど、それは僕がそういう方法を選んだだけで、正解ってわけでもないと思います。
人は、日々、自分がどうあるかということと、それに対して世間はどうであるかということをすごく気にしてしまったりして、それぞれの人がそれぞれのやり方で、そのギャップを解消しようとしているんじゃないでしょうか?
そして、そのやり方が人と人との間で矛盾してしまうと、喧嘩になってしまったりもするのでしょう。でも、それはたぶんもう仕方ないんですよ。全員の気持ちが一意に解決されることなんてありえないからです。
それぞれの人が、歳を食うにつれてそれぞれのやり方で、その上手い折り合いのつけ方を得ていくのかもしれませんし、元気いっぱいなら生涯戦い続けるのかもしれません。
結論としては、僕はそういう気持ちはあるにはあっても周りをどうにかしようと息巻く元気はもうないな、ということを思いました。