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「ジョーカー」と分断と排除関連

 映画の「ジョーカー」を観て来ました。何を描くかが明確で、そのために必要なものしかない映画だと思ったので、偉い映画だなあと思いました。それは、「広く世に出すなら、これも描いておいた方がいいんじゃない?」という考えを全てちゃんと排除しないとできないことだと思うからです。

 

 僕がこの映画から排除されていたと感じたことは「悪いことは悪い」という概念です。物語の中で悪を描くためのやりやすい方法は、正義を描くことだと思います。物語の中で正義が悪を懲らしめることによって、映画全体が「悪いことは悪い」という合意をとることができます。この合意は、刑法に代表される社会の合意と同じだと思うので、人に受け入れられやすくなります。

 

 しかし、この映画では違いました。普通の人が悪いことをすることを、苦しみからの解放のように描いているように感じました。悪くならないでいることで、苦しみに苛まれていた人間が、悪くなることでその苦しみから解放されるということ、それは悲しい光景です。しかし、その苦しみの中で生きてゆけ、あるいは善良なままに人知れず死んでゆけと押し付けられることは悪くはないのでしょうか?

 善良な人が苦しみの中で死んだとして、彼ら彼女らのような善良な人こそ救われるべき人であったと死後に語られることがあります。しかし、彼ら彼女らがその苦しみから解放されようとして罪を犯したらどうでしょうか?犯罪者なのだから、救われるべきではないと語られてしまうのではないでしょうか?であるならば、善人というのは誰にも迷惑をかけずに死ぬから善人でいられます。生きようとして足掻く中で罪を犯してしまえば、それはもう悪人だからです。

 

 少年漫画の類型のひとつは「いじめられっ子の仕返し」ではないかと思います。物語の最初に理不尽にいじめられた少年が、何らかの強い力を得て仕返しを図る物語です。その意味で、ジョーカーは類型的で分かりやすい物語であるとも言えます。自分たちをじわじわと脅かす存在を強力に脅かし返すことに成功するからです。

 しかしながら、ジョーカーではその手段が言い逃れ用のない犯罪です。犯罪は社会通念として忌避されるべきものですから、このジョーカーの行為は褒められたものではないと思ってしまいます。でも、よくよく考えてみれば、少年漫画でも同じではないでしょうか?例えば法で裁けない悪を罰するヒーローは違法行為をしたりはしていないでしょうか?悪を殺したとき、それは殺人罪ではないのでしょうか?そう考えると、少年漫画では、その行為が「悪い」と認識されないように文脈が作られていると思います。

 そして、ジョーカーでもその閾値と位相が異なるだけで同じではないかと思います。彼はその行為に至るだけに十分な言い訳を抱えており、彼の視点に立てば、その犯罪行為は肯定され得るかもしれません。そして、何が犯罪行為であるかを決めるのは法です。法とはその社会に属するものが守るべきルールです。社会の中で行きたければそのルールを守る必要があります。それは国が定める方でもそうですし、例えばアウトローな集団の中にも法はあります。誰かと社会を作るならば、そこには何らかの法があるはずです。そして、その法は、その社会の外には何の効力も持ちません。

 

 人喰い熊に、殺人は犯罪だと説いても何の意味もないわけです。

 

 この物語が描いていると思ったのは、孤立と排除です。社会の中で排除され孤立したとしても、それでも社会の中で生きたければ法を守るしかありません。でも、ある瞬間、その外に足を踏み出したらどうでしょうか?社会に属することを止めるだけで、それまで自分を苦しめていた正しい正しい法が、全く無意味なものに見えてくるはずです。

 これは犯罪行為に走る人だけについての話ではありません。抑圧的な親による家族のルールを強要されていた人にだってそうでしょう。法は呪いとも言えます。人が社会を作るならば、同じ呪いに呪われていなければならないわけです。呪いを解くことは、解放を意味しますが、同時にその社会からの追放も意味します。同じように呪われもしないくせに、同じ社会を築こうとすることはできないのではないかと僕は思っています。ただ、その社会が何に呪われるべきかは変えることはできるかもしれませんが。

 

 だから、法が効力を持つのは、相手が仲間であるときだけだと思っています。ならば、誰かのとってその法の力を失わせるには、その誰かを「我々の仲間ではない」と分断することです。分断された人間は、別の法に則って行動することになるでしょう。その行動は我々の法に照らせば間違っていることかもしれませんが、彼らの法では正しいことかもしれません。それを食い止めるため、同じ法に呪われ続けてもらうためには、仲間として迎え入れるしかないのではないかと僕は思います。いや、その存在を駆逐するという暴力的な方法もあるのかもしれません。

 自分たちを同じように呪われていない人間を、自分たちの安全と安心のために駆逐する暴力は正義でしょう?でも、逆側の視点からすれば、暴力は暴力、一方的で理不尽な暴力です。こういうことは多かれ少なかれ幾重にも重なる大小の社会の中で毎日起きていることです。自分たちは法に則って正しくやっているという正しいことが、別の視点から見れば、誰かを分断し追い詰めて排除していることだってあるわけです。

 

 最初に書いた「悪いことは悪い」というのは、こちら側の法です。そして、あちら側には無意味な概念かもしれません。

 

 「ハンターハンター」でも、善良に生きてきたジャイロが、ある日、虐げられた生活の中で、自分は「人間」という枠組みに入れて貰えていないということに気づいた瞬間に、「人間の社会」からの視点では悪と解釈される道を歩み始めます。「コオリオニ」では、「正常な人間」という枠組みにしがみつきたかった男が、歪んだ警察組織の中の法に過剰に適応しようとし過ぎたために起きた悲劇が描かれています。「寄生獣」の新一は、寄生生物との肉体的な入り混じりと母殺しのトラウマによって、人間という大きなくくりから半歩踏み出し、人間らしいとされる情動や涙を失います。しかしながら、寄生生物が遺伝子的に何の繋がりもない自分の子を守る姿から、繋がりを取り戻し、再び涙を獲得するようになります。

 自分たちはあちら側なのか?こちら側なのか?その立場の違いによって何に寄り添うべきなのか?それは、物語の中で繰り返し語られてきたことです。ジョーカーの物語は、あちら側に行ってしまう人の物語だと思います。そして、それは別に特殊な話ではありません。自分たちの身の回りでも日々起こっていることです。そのきっかけは、誰かが「自分はあいつらの仲間ではないんだ」と思ったことです。

 排除した人たちを責める意図はなく、排除されたと思ってしまった人を責める意図はなく、僕はそれはそういうものだと思うんですよね。仲間でなければ、同じ法に呪われる必要はないのだから。ただ、それだけです。

 

 「ジョーカー」という映画の反響に、この映画に影響されて罪を犯す人が出てくるかもしれないというものがありました。その語り口は、「自分たちとは違うあいつらの話」だなと思いました。自分たちとは違うあいつらが罪を犯すかもしれないぞ!という話です。それは分断だと思い、排除だろうなと思いました。

 日々起きていることだなと思いました。