漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「恋のニノウチ」メイキングメモ

 商業誌でまた漫画の読み切りを描かせてもらい、今回は割と珍しくコンセプトから理詰めで話を作ったので、そのメモを描いておきます。長くなると思うので別に読まなくてもいいです。

 

shonenjumpplus.com

 

 きっかけとしては、ある日突然、「ジャンプ+で描いてみませんか?」と提案を頂いたので、やったぜ!と思い、同時にえ?ホントかなあ?と現実感なく思いながらも、せっかくだから描かせてもらうことにしました。

 僕は漫画を三十代半ばで描き始めたこともあり、年齢の割りに漫画を描いた経験が少ないので、描くことで自分の経験値を貯めるという目標と、それはそうと、お金を貰って描く以上、漫画が面白くないといけないという2種類の目標があります。つまり、自分の中での目標と、他人に対する目標です。

 

 経験値を貯めるという方面では、今回は格闘描写を描きたいというものがあって、なぜならあまり描いたことがなかったからです。描かないと上手くなりようがないので、どうにかねじこみたいということがあり、またジャンプ+という場所だと、読者層的にアクション描写へのリアクションももらいやすいかな?という想像もありました。

 そこでやろうと思ったのは、以前同人誌として描いた「少年対組織暴力」という漫画の、違うアレンジの話です。

 

manga-no.com

 

 僕の漫画は最終的に、2人の人間の言葉のやり取りに収束していってしまうのですが、その場合、2人が立ちっぱなしで話すというようなことになってしまって、言葉は動いていても、体の動きはないので絵面も地味になるという問題があって、それを解消しようと試みたのが少年対組織暴力のコンセプトのひとつでした。

 つまり、戦いながら話すことによって、動きの中に言葉を乗せて、絵の力で言葉の威力をより高めるということです。格闘技の打撃において、拳に自身の体重を乗せるように、拳に言葉を乗せると威力も倍増するんじゃないかな?という雑な考えがありました。

 

 また、少年対組織暴力で描いたテーマ性というものにも思い入れがありました。それは、中野でいちさんの「hなhとA子の呪い」という漫画で描かれていたのを読んで、自分の中にあったもやっとしたものが具体的になったものです(余談ですが、中野さんとは、その後、友達になりました)。

 

 それは、「男性性の持つ加害性によって自ら傷ついてしまう男」という苦しみの話です。人が誰かを好きになるということには、少なからず暴力性があります。自分の欲求を充足させるための他者を求めるということになるからです。それはつまり、他者が自分の欲求に寄り添う形であって欲しいという願いでもあります。

 しかしながら、他者への愛情というものは、その人が幸福な状態であって欲しいという願いでもあったりします。つまり、他者への愛情が強くなればなるほど、その他者に自分の望む形に変わって欲しいと思ってしまうことと矛盾する可能性があります。そのひとつの形としては、自分が好きな女性に対して抱く性欲は、その人に対して抱く愛情と矛盾するように感じられるなどがあります。

 これは他では、「レベルE」の作中作でも描かれています。生殖欲求として異性を捕食する宇宙人が、好きな女の子を食べてしまったことに絶望するという光景はとても印象的でした。

 

 僕はこれは現在の世の中の状況で、より色濃くなってきているように見えていて、近年は「他者を傷つける」ということに対して社会が自覚的になっています。多くの人たちは、自分の発言が他者を傷つける要素を持っていないか?ということを気にしながら喋っていますし、他者の発言で傷つけられた人は、それを我慢せず口に出して良いようになってきています。僕はこれを好ましいことだと思っています。

 しかしながら、その一方で、自分が他者を傷つけないか?ということに対して怯えてしまっている人がいることが目に入ります。恋愛に臆病になっている若い男性の中には、特にその傾向が見て取れることがあって、自分が女性に対して地雷を踏んでいないか?をとても気にしながら、結果的に、恋愛をするに至るまで踏み出すことができないということがあると思うんですよね。

 僕は恋愛はしなければならないものだとも思いませんが、しかし、その理由が他者を傷つけてしまうことへの怯えであったり、それが自分に内在する性欲などの他者へのある種暴力的な欲求への自覚からくるとするならば、それは苦しいことだろうなと思います。

 苦しいものというものがあるならば、苦しみを抱えた人間の変化を描けば物語になると思いました。

 

 予め注意頂きたいのは、ここからの話は、あくまで僕がこういうコンセプトで話を組み立てていったという記録であって、僕の描いた話の正しい解釈というわけではありません。読書体験とは、作品と読者の共犯関係のもとに生まれるものなので、読者の数だけ(その読者にとっての)正しい解釈はあるからです。

 

 少年対組織暴力のタイトルは、もちろん「県警対組織暴力」からとっているのですが、「人間の理性はときに自身の性欲を忌避するが、それでも自分もまたその結果によって生まれてきた」という矛盾する状況を、「生物としての人間」を「組織暴力」に見立てることができると考え、少年がその組織暴力に蹂躙されるという形で決着をつける物語となりました。

 少年は組織暴力のために、かつての理想を失ってしまいますが、それも悪くない結末だよねという話です。

 

 恋のニノウチは、同じ構造的な苦しさを描きながらも、人が異なればまた別の結末もあるだろうと思って考えた、また別の物語です。「恋愛感情に対する忌避感」と「恋愛感情の喜び」という矛盾する状況を同時に肯定するという結末であればいいと思いました。

 なので、コンセプトとしては、恋愛感情および行為の肯定と、その気持ちの動きの変化をバトル形式で描くというものです。

 

 ここで出したアイデアは、「登場する男女を格闘技の擬人化とすること」でした(より正確に言えば、実際の格闘技ではなく、漫画に登場する格闘技概念の擬人化です)。そうすれば使う技そのものを、人の心と直結させることができます。そこでまず思い当たったのが、合気道です。

 合気道には、相手の攻撃を利用する技があります。しかし、相手が攻撃をしてこなければそれを使うことができません。ただし、その争いがない状態を理想的だと、グラップラー刃牙の渋川剛気は言いました。

 「互いに攻撃しない状態が理想的である」というのは、「自身の加害性を認識するあまりに、他者との関係性を作ることに積極的になれない人間像」と一致します。テーマと描写が一致すると思ったので、この辺でなんとか話として構成できるなという確信が得られました。合気道では理想とされるものを覆す解釈を提示することで、驚きも生まれると思ったからです。

 

 合気道と戦うという話になると、相手が八極拳であることがすぐに決まりました。一撃で相手を倒すという攻撃性特化のイメージが得られるからです。また、「エアマスター」あるいはその後の「ハチワンダイバー」に登場する、皆口由紀(合気道)vsジョンスリー(八極拳)に対するなぞらえもできます。

 今回の漫画は、漫画格闘技の擬人化というコンセプトなので、他の僕の好きな漫画からたくさんのパーツを寄せ集めて錬成する形になるので、概念や表現や単語はそこから引っ張ってきても、そのまま使うだけではただのパクりになるので、それらを元ネタの作品では使われなかったような使い方をする必要があります。

 

 大きなところでは八極拳の「一撃で倒す」部分を「一撃で倒せない」ことをむしろ肯定的に描く、そして前述のように合気道の「争いが生まれないことが理想」という部分を「争いがないことは少し寂しい」と描くということです。

 そうであるならば、既に他作品を読んでいる読者に対しては、むしろ、ひっかけ問題として機能するという効果を得られると考えました。

 

 つまり、攻撃性のある八極拳士が自身の攻撃性に怯え、争いがないことが理想のはずの合気道家が争いを求めることで、「人が傷つけあいたくないという理由で、他人とコミュニケーションをとらないことは少し寂しい」という話の流れを構築することができます。

 

 これで大体骨子ができ、キャラクターの名前はその格闘技に関する有名人からとっていきました。主人公の武田惣子ちゃんは、大東流合気柔術武田惣角からとりました。これは、合気道が現在の合気道として成立する以前の、打撃もありの柔術としての側面を描くにあたって、前振りでもあります(そう思って読んだ人がいるかはわかりませんが…)。

 八極拳は当然、二の打ち要らず(一撃で倒す)と呼ばれた李書文をベースですが、名前をどうもじるかの段階で、「拳児」に登場した李書文は本宮ひろ志のキャラを意識して描かれたという話を思い出し、本宮書文くんとしました。

 あとは脇のキャラクターで、女性同士の置かれている立場を話し合う相手として、深雲ちゃんというキャラに登場してもらうことにしました。これは郭雲深からとっています。「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と呼ばれた崩拳の使い手は2人いて、初代が郭雲深、2代目が尚雲祥です。女の子の名前にもじりやすい方として郭雲深を選びましたが、郭雲深は拳児だけでなく、藤田和日郎の短編「掌の歌」にも登場して、これがいい話なんですよね。

 

 ここで問題になるのは、書文くんと惣子ちゃんがなぜ戦わなければならないかの理由がないことです。格闘の攻撃が気持ちのやり取りのメタファーとなるのであれば、攻撃そのものが恋愛の成就と直接的に関係すれば一番話が早いはずです。

 そこで考えついたのが、「人に殴られたら相手を好きになる」という世界観です。であれば、惣子ちゃんが多くの人に暴力で狙われるという、他者からの一方的な好意への忌避感を描くことができ、互いに殴り合い、互いに好きになるという場面を描くことができます。

 これによって、クライマックスが相打ちで殴り合う場面となるといいということになり、しかもそれが最も幸福な場面であるという倒錯も同時に発生するので、わけがわからない絵面になって面白くなるだろうなと思いました。

 

 殴られると相手を好きになるという部分については、北斗の拳的な秘孔があればいいなと思い、それに人体のツボの名前を眺めながら、それらしく馬鹿馬鹿しい名前として恋門と名付けました(羽生生純恋の門」も言葉として意識しています)。

 秘孔の場所は、心に作用するので心臓のあたりがいいだろうなと思い、それによって喧嘩商売(稼業)の金剛の危険なイメージも加わります。さらには理屈として、吊り橋効果とかの話を絡めて言い切れば、道理が引っ込むだろうなと思いました。

 

 恋心の加害性というテーマと恋門という設定、格闘技が擬人化されたキャラ、そして、その裏の理屈で相討ちになって両想いエンドというところまで決まりましたが、まだ足りないのがキャラの心の動きの転換の部分です。

 少年対組織暴力では、自然に任せて展開していくと少年側の性愛(組織暴力)への敗北というエンドになりました。人類がずっと紡いできた組織暴力に、たったひとりの少年では抗うことができませんでした。

 しかし、恋のニノウチでは、対等の関係まで少年を引き上げなければなりません。そこに至るためのピースがひとつ足りないことに気づきました。

 

 そこで登場させることを思いついたのが甘犯です。

 

 甘犯とはごく一部でのみ通用するインターネットスラングで、「それでは一生恋愛はできないですね。恋はお互いがその関係を結ぶことに合意した甘い犯罪なのですから」の略です。僕はこの言葉が好きで、言い方が面白いのでイジラれ続けている言葉なのですが、言っていることは別に間違ってないよなと前から思っていました。

 恋愛関係に限らず、距離感の近い人間関係は、快適なことばかりではありません。例えば家族のような、日常的に顔を突き合わす関係では、やはり嫌なこともそれなりにあるものだと思います。年に2回ぐらいしか会わない人ならば許せるようなことが、毎日会う人にやられ続けると怒りが止められなくなったりすることもあると思います。

 

 恋人や家族のような近い距離感で人がいるということは、お互いに良い事ばかりではないが、それでも一緒にいることを選ぶということが必要なのだと思っています。つまり、甘犯と同じだと思います。相手を傷つけるようなことは、できればしない方がいいことですが、近い距離感の人が相手のときには、日々の生活の中で、少なからずそういったことも発生してしまいます。だからこそ合意が必要で、良くないとこともある程度は互いに許し合うことができる関係でなければ、いずれ破綻してしまうものでしょう。

 

 甘犯を導入することで、「暴力はいけないことであるが、対等な2人の互いに合意のある暴力は、例外的に許されうる」という結論を導くことができます。甘犯概念がこの世にあってよかったです。甘犯があることによって、このように物語全体をまとめあげることができました。

 

 このように、恋のニノウチの物語は、恋心の加害性をいかに取り扱うか?という物語的テーマと、漫画表現としての言葉と絵を一致させたいという表現的テーマを同時に達成するために、合理的に考えて作られました。

 変な物語になったと思いますが、僕はこれが最適な形だなと思って至った話なので、完成するべくして完成した話だなと思います。

 幸いそこそこウケて、たくさん褒めてももらえたので、結構上手く行ったかもしれないなと思ってよかったなあと思いました。

 

 よかったよかった。