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ファブラノヴァクリスタリスファイナルファンタジーとゲームで物語ることの模索関連

 ファブラノヴァクリスタリスとは2006年に発表されたファイナルファンタジーシリーズ(以下、FF)の共通コンセプトで、FF13(とその続編であるFF13-2ライトニングリターンズFF13)とFF零式(発表時はアギト13)、FF15(発表時はヴェルサス13)がそれに当たります。

 先日、FF16が発表され、この十数年、FFのナンバリングが抱えてきたファブラノヴァクリスタリスが終わったんだなと思いました。

 

 ちなみに僕は上記を全部プレイしましたが、FF零式のみ、途中のどこかで詰まったまま止まっていません。そのうちリマスター版等をやり直そうという気持ちはあります。

 

 ファブラノヴァクリスタリスは、その背後に共通する神話を抱えるゲームシリーズです。神話については、作中でも語られはするのですが、色んなものを見ないとイマイチ分かりにくいというか、僕もいまだによく分かっていない気がします(なので以下の理解も間違っているかもしれません)。

 

 ただ、このゲームシリーズに対して僕が感じたのは、ゲームという枠組みそのものを神やその代行者に置き換えることで、それにいいように操られてしまう人間の悲しさや、そこに反逆する人間の意志などを描くシリーズだったのかな?ということです。

 僕は両方好きですが、FF13FF15も、国内有数の代表的RPGであるにも関わらず、かなり歪なゲームです。そして、僕はその歪さが何らかの足掻きの結果のように思え、遊びながらそこに色んなものを感じることになりました。

 

 この神話には、神とファルシとルシが登場します(なお、FF15ヴェルサス13からの変更のせいか直接的な言葉は消えましたが、その精神性は残っているように思いました)。ファルシとは神に作られた何らかの役割を持つ代行者、言うなれば機械で構成された天使のような存在です。ファルシは、人間をルシという存在に変化させます。ルシとは何らかの使命を帯びています。そして、使命を果たせばクリスタルとなり、使命を果たせなければシ骸という化け物に変えられてしまいます。

 また、FF13ではプレイヤー以外のルシはシ骸になったあと冥碑という存在となり、果たせなかった使命をプレイヤーに託すという形で、サブクエストのシステムを担う役割もあります。

 

 FF13ではルシに変えられた主人公たちが、その背後にそれぞれ別のファルシの存在がある、コクーンとパルスという2陣営の争いに巻き込まれていきます。

 シリーズを通して描かれているのは、ルシという存在の哀れさではないかと思います。そして、それは、それまでゲームが描いてきた物語への懐疑に繋がっていると思いました。FFの過去作には、クリスタルに選ばれたということが名誉のあることであり、その選ばれた人間が世界を救うために戦う物語があったりします。そして、そこに感じる懐疑とは、選ばれたということは果たして本当に良いことであったのか?ということです。

 

 ファルシにルシとして選ばれた人々は、それまでの自分が望んでもいなかった使命を与えられ、それを果たすために動かなければなりません。選ばれたということは世界を救うという名誉ある特別な立場と捉えることもできるかもしれませんが、誰かの考えた目的のために選択肢なくそうさせられてしまうという運命の奴隷であるという解釈もあります。

 

 ファブラノヴァクリスタリスのシリーズでは後者の理解がされているように思いました。プレイヤーの操作するキャラクターはゲームによって選ばれ、世界を救うという使命を、まるで呪いのように与えられた哀れな存在です。

 

 その意味に沿って考えていくと、FF13FF15は対になっているゲームだと捉えることができます。僕の理解では、FF13はゲームに与えられた使命から解放されていく物語で、FF15はゲームに与えられた使命を受け入れさせられる物語です。

 そして、ゲームの構造も対比するような作りになっています。FF13ではひたすらリニアなゲームプレイがなんと20時間以上ぶんぐらい続いたあと、ようやく広いフィールドに到達して自由なゲームプレイになります。そして、FF15ではオープンなフィールドでの自由なゲームを好きなだけ続けたあと、終盤に至るリニアなゲームプレイに押し込められます。

 これは、主人公が不自由から自由に至るFF13と、自由から不自由に至るFF15の物語という意味で、ゲームの構造とその物語性が一致しています。

 

 ゲームにおいて、決まった物語をプレイヤーに与えるという意味では、リニアなゲームの方が向いています。プレイヤーがどのような体験をするかを設計しやすいからです。オープンなゲームでは、プレイヤーがどのように遊ぶかを制限しないことに意味がありますし、人によって必ずしも同じ体験でないからこそ意味があります。

 その意味で、FF13FF15は、それぞれが極端な形で物語とゲームの構造が一致していて、そこを面白いと感じました。

 

 また、FF13に関しては、PS3に移行してHDのゲームを作るということにおけるリソース配分を改めようとした事情もあるのかな?と想像しています。なぜそう思うかというと、FF13は、かなりカッコいいゲームの作り方をしていて、取捨選択が潔すぎるようにも思うからです。

 従来のRPGを新世代に持ってくる上で、何を残すべきと考えて、それ以外の何を削ってもプレイヤーが欲している体験を再現できるかという判断において、マップを探索することを排除していたり、ショップをセーブポイントと一体化したり、バトル敗北時には直前からリスタートできるようにしていたり、他にもそれまでのFFに存在した様々なものを排除しています。

 つまり、物語の背後に感じた思想がそうであるように、システム面でもRPGの当たり前を見直そうとしていたように思いました。ただし、カッコよすぎたので、世間的にはあまり受け入れられていたようには思えず、続編では方針転換をしていますが。

 ゲームは何でもできるように進化しているので、むしろ、何をしないかに、その思想性が現れるように思います。

 

 ファブラノヴァクリスタリスはとにかくRPGの色んなものを問い直そうとした試みであったように思います。それは上手く行ったものも上手くいかなかったものもあるとは思いますが、僕はFF15の最後で、今までプレイしたFFの中でも最も大きく感情が揺れ動いたので、ゲームを通じて物語るという意味では、ひとつの到達点に至ったような気がしました。

 

 ちなみに、僕のFF15の感想はここで書いています。

mgkkk.hatenablog.com

 

 そういうこともあって、色々変なゲーム群だなあとは思いましたが、ゲームを使って何かを物語るという意味では非常にユニークな体験があって、僕はそれがとても面白く感じたんですよね。

 個人的には、ファブラノヴァクリスタリス以後も、FFはどんどん変なゲームであってほしいです。FF16にも期待しています。