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「ダンガンロンパ」と希望と絶望関連

 「ダンガンロンパ」、前からやろうかなと思いながらずっとやってなかったのですが、スマホ版が半額セールをやっているのを聞きつけてついに遊び、クリアしました。

 

 ダンガンロンパに対する事前情報をほとんど持っておらず、色々勘違いしていたところがあって、なんとなくのイメージとして普通の学園生活の中で何かの事件が起こって、学級裁判の中で解決する話なのかなと思っていたのですが、全然違っていて、デスゲームだったのか…と思ったのが遊び始めて最初の驚きです。

 

 ダンガンロンパは、日本全国から超高校級の才能を持った人たちが入学する高校に、たまたま入学できる運が良い人(超高校級に運が良い人)として主人公が入学するところから始まる物語です。学園に入ってすぐに意識を失ってしまい、次に目が覚めたときには学園の様子は変貌していました。全ての窓は金属でしっかり固定され、外の様子は分からず、外への扉も閉じていて、出ていくこともできません。

 そこに現れたのは謎の人形モノクマです。彼はそのとき学園にいた15人を集め、誰かを殺した人間だけが外に出ることができるということを教えるのでした。しかし、ただ殺すだけではダメです。人の死が確認されたあとに開催される学級裁判の中で、自分が犯人であることを暴かれないということが条件です。

 主人公たちは、次々に死んでいく同級生と、その犯人がこの中にいるという状況の中で、生き残りをかけた推理バトルを行います。

 

 ダンガンロンパの学級裁判における推理バトルの特徴的なところは、そこに時間制限とアクション性があるということでしょう。そして、裁判の沢山の参加者が次々に発言する中で、事前に調査して獲得した証拠、あるいは、他の人から採取した発言を弾丸として、流れてくる別の発言に撃ち込んでいきます。

 ダンガンロンパで巻き起こる事件は、割と親切に証拠が提示されるので、裁判開始前に真相の7~8割は分かっている状態になっています。

 ただ、この大体分かっていると思っている状態で挑んでいるはずなのに、時間制限やアクション性と組み合わさるとゲームの難度が結構変わるのが面白かったです。なぜかというと、落ち着かない状態にさせられると僕自身の思考能力が低下するからです。自分の頭の中にある真相を、目の前の他の人たちの会話の中で、どのように提示すれば上手くプレゼンできるかを判断しないといけませんが、手元の操作に気をとられて、思考が上手くできなかったり、タイミングよく指摘できなかったりして、実生活で喋っているときにもこういうことはよくあるなと思いました。

 

 ただし、これはゲームなので、同じ会話が何度もループしてくれます。あと、ゲージを消費しながら会話の流れを遅くするボタンがあったのですが、スマホのインターフェースだと、画面をタップ操作に気をとられて、僕が終盤までその機能を使っていなかったのが、勝手にゲームの難度を上げてしまっていました。

 

 そして、相手を追い詰めるときには何故かリズムゲームとなり、最後の真相当ては、事件を描いた漫画の抜けている部分に、手持ちのコマを当てはめて、分かっているかどうかを確かめられます。

 

 推理が様々な形でゲーム化されていますが、その背後にあるのは、ゲーム側からプレイヤーへの「お前、ホンマに分かっとるんやろな?」という問いかけだと思います。推理のゲームとはつまり、与えられた材料からプレイヤーが自分の頭の中で真相を想像するということ、そして、ゲームのインターフェースを通じて、自分が真相を分かっているということをどうすればゲームに伝えられるかというコミュニケーションです。

 ダンガンロンパは、「はっはっは、おれは真相分かったで!」と自分が思ってから、その事実をゲームに分からせるという部分で大変な気持ちになったりします(僕がゲームが下手だから)。そして、真相に至るための情報は十分に与えられますが、そもそもの謎の構造として、学級裁判の中で初めて与えられる情報で明らかになることもあります。

 つまり、事件の真相を究明する中で、どうしても事実関係がイマイチぼんやりした部分があり、ぼんやりしたままで推理バトルが始まってしまいますが、途中で明らかになる事実を自分の頭の中で組み立て直し、完全な真相を理解し、そしてそれをゲームを通じて表現していくことが求められるわけです。

 これ、結構難しいと思うんですよね。なので、僕は楽しく遊んだものの、自分の親(ゲームをテトリスぐらいしかしない)に遊んでみてよと薦めるか?というと、難しくて上手く遊べないのでは?と思ったりもしてしまいました。ただ、これは自分がギリギリプレイできる人間だと思っているということで、難度設定が適切なんだろうなと思います。人間は、目の前の課題が簡単すぎると退屈しますし、難しすぎると最初から諦めてしまうので、自分がギリギリクリアできるぐらいの課題を好むと思うためです。

 

 さて、ダンガンロンパの魅力の大きな部分は、物語の意地悪さや、その中で生き、そして死ぬことも多いキャラクターの強さではないかと思います。

 基本的にひとつのエピソードで誰かが殺され、その犯人もまた生徒の中にいます。そして、それぞれの生徒とはサブイベントとして個別に交流を深めることができます。仲間の誰かが死ぬことは嫌ですし、その犯人が仲間の誰かであるということが本当に嫌なんですよね。このゲーム、プレイしなければ誰も死なずに済むのでは??とまで思ってしまいます。犯人を見つけることは必要なプロセスですが、見つけられた犯人は、モノクマによってとても残酷に、悪ふざけのように処刑されてしまいます。

 

 死んだと思った人が生き返ることもありません。人の死はゆるぎなく、ただの死です。それが起こる中で、閉鎖環境の学園生活を送るということの奇妙さを体験することになります。

 

 好きになったキャラクターが次に殺されるかもしれません。好きになったキャラクターが次に殺人犯になるかもしれません。その中では、誰かを好きになることそのものに虚無性を感じてしまうかもしれません。それはひょっとしたら絶望かもしれません。何かをすることに虚無性を感じてしまったとき、もう何もしないことを選んでしまうかもしれないからです。

 この物語は、絶望と戦う物語だと思います。このような極限状態でなくとも、この世には多くの絶望の種があります。そんな世の中で誰しも生きているはずです。

 

 この物語は、絶望が病のように蔓延する学園から脱出する物語です。その脱出はつまり希望のはずです。では希望とは何でしょうか?それは、外の世界に約束された幸福が広がっていることでしょうか?おそらくは違うはずです。幸福が約束されていることが希望なら、どうしようもない世の中には希望なんて一欠片も存在しないことになってしまうからです。

 僕の考えでは、希望とは扉の外に出ていく意志のことです。歩みを止めないことが希望です。扉の先に待っていたのが地獄であったとしても、その外に出て行こうとした人の意志こそが希望です。寄生獣の泉新一くんも言っていました。

 

「なんだ…ほとんど可能性ゼロに近いじゃないか!…でもやらなけりゃ…確実なゼロだ」

 

 これがきっと希望なんじゃないかと思います。ここでやる方に決められる気持ちが人間の希望です。そして、どうせ可能性はゼロに近いからやらないことが絶望です。そんなに大した違いじゃないのかもしれません。気持ちを時間で微分した加速度が上向きか下向きかということが希望と絶望なんじゃないかと思っていて、その先にあるかもしれない幸福や破滅は、その瞬間瞬間を積分した結果みたいに思うんですよね。なんかゲームの話とは違ってきましたが。

 

 世の中は結構ダルくて、やったことが徒労になったり、よくなる将来が思い浮かべられなかったりすることがあります。瞬間瞬間は希望を感じても、それ以上の絶望的な気分に押しつぶされそうになることもあります。その嫌な感じが、ダンガンロンパを遊ぶ中にもあって、どうせ死ぬんだから仲良くならなくていいじゃんとか、どうせならシナリオ的になかなか死なない相手と仲良くなればよかったとか、思っちゃえるような気もするんですけど、個人的にはそれはなくて、人はいつか死ぬし、大切な人が豹変するかもしれないけれど、瞬間瞬間希望的な気持ちになれることが重要じゃんとか思うところがあったりします。

 だから、この人と仲良くなるかと思った人には話しかけてプレゼントをあげまくり、その人が死んでは、うぎゃーとショックを受けたりしながら遊びました。

 

 その希望の扉の先、一瞬の後に仮に絶望的な死が待ち受けていたとしても、その扉をくぐるときには、生きる気持ちで生きるということ、そういうのがいいじゃんと思うところがあって、ダンガンロンパをクリアしたときに、そんな感じのことを思いました。

 そういうのがどうしようもない絶望を強いられたときに打ち勝つ力なのかな?と思う感じなのですが、これがこのゲームをプレイして思うべきことなのかどうかは分かりません。

 

 ただ面白かった。好きなキャラは腐川です。