漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ドラゴンクエストユアストーリー」とミルドラースと僕関連

 「ドラゴンクエストユアストーリー」は劇場で初日に観たんですけど、最後に分かる真相で、あー、なるほどーと思って、この状態でもう一回最初から観たら、自分はどう思うかな?と思いました。このたびNetflixで配信が始まったことで2回目を観ましたので、その話をします。

 

 この物語における真相とは、これが実はVRゲームの中の出来事であったということが分かるというものです。それについて僕が初見で思ったのは、ある種の納得と、なかなか上手い落としどころやんけという気持ちでした。

 何故かというと、この映画のモチーフになっているドラクエ5には、ビアンカとフローラのどちらを花嫁として選ぶかということが、プレイヤーに委ねられた物語上の重要な選択として存在するからです。つまり、これがドラクエ5の単純な映像化であった場合、ビアンカとフローラのどちらかが選択の正解として決められてしまうということになります。とはいえ、選ばれなかった方が間違いとなることは、これまでゲームを遊んできた人からすると嫌なことですし、そこをどのように取り扱うのかということが観る前から気になっていました。

 

 それがこれが実はVRゲームであることが分かることで上手く整理されたと感じました。つまり、ここにおける選択は、あくまで作中の一人のプレイヤーがそう思ったというだけで、それ以外のプレイヤーにはそれぞれの正しい選択があるということと矛盾しないということだからです。なので、これは上手い解法だなと思ったわけです。

 

 このギミックは、遊ぶのに数十時間かかるゲームを、2時間程度の映画に落とし込む上で上手い作りになっていて、つまり、そのまま映画に置き換えるなら長大になり過ぎてしまう物語を、時短として省略することも、体感型ゲームであるために短時間で終わるVRゲームとして調整されるという形で、作中の設定として織り込むことができるようになるからです。

 なので、確かにこういう構造にしたら色んな問題が解決して、ゲームを一本の映画に置き換えることができるなと思いました。上手く考えるなと思って感心したところでもあります。

 

 この映画は、記号的なもので構成されたスーパーファミコン時代のゲームと、現実世界の間を埋めるという試みでもあります。そこには、映像上も様々な面白い表現がありました。例えば、奴隷生活を送ってきた主人公とヘンリー王子に無精ひげが生えていることや、戦闘の中で汚れがついていったり、生傷が増えたりしていきます。それはゲームをプレイする中では、想像はできても実際には見ることのないタイプのもので、ドット絵からの解像度を挙げて行く上で、その間を埋めるものとしてのポジションにこの映画があるんだなと思いました。

 ドラクエの世界を、実在性の辻褄合わせを含んだCGで描き直すという上では、呪文の表現や、モンスターが倒されるときの崩壊してチリになる表現など、映像的な現代的解釈はかなり観たかったものが見えてよかったです。

 

 ゲーム的な都合からくるお約束と、それをそのまま映像化するなら不自然になってしまう矛盾は昔からツッコミどころとしてよくあり、それをどのように埋めるか?という解釈はずっと行われてきていて、その現代的な映像表現として高度に行われたものが見られたように思ったということです。

 

 なので、全般としてはなかなかよく作られていて観て良かったなとは思うんですが、やっぱり気になるのは最後の下りです。そこで展開される話については、イマイチ納得がいっていません。

 

 この物語の最後は、魔王ミルドラースのゲーム的立場を乗っ取ったコンピュータウィルスが登場します。そのウィルスは天才プログラマーが作ったもので、彼はこのようなVRゲームの存在が気に食わないそうです。外の世界のことを忘れている主人公に対して、これはゲームであると教え、こんなものは虚無であり、「大人になれ」と伝えてきます。

 そして、それに対して主人公は、「お前には分からないだろうが、ゲームは自分にとってのもうひとつの現実だ」と主張し、アンチウィルスソフトの力を借りて、ミルドラースを倒し、エンディングを迎えるのでした。

 

 僕がここで何が納得がいかないか分かりますか?僕はこれがVRゲームであることは面白く思っていて、それが明かされる下りも、映像表現を含めて面白いと思いました。そして、VRゲームに興じている大人に対して、こんなものは虚無だと伝えてくる天才プログラマーの存在も、別に大丈夫です。

 

 何が納得いかないかというと、主人公の主張に対してです。この主人公は屈託がなさすぎると感じてしまいました。どちらかというとミルドラースの方がずっと屈託があり、ミルドラースの話の方を聞きたい気持ちになってしまいました。つまり、僕自身が仲間だと思った側が、仲間だと思えなかった側に負けてしまったので、ウッソでしょっていう気持ちになってしまったのだと思います。

 

 ミルドラースの言うところの、「VRゲームは虚無であると気づいて大人になれ」という主張は、作中に手がかりがないので実際のところは分かりませんが、「VRゲームに興味がない」というよりは、「以前はとても興味があって、ずぶずぶに遊んでいたのに、それをある日無意味だと気づいてしまった」と考える方が自分の中ではしっくりきます。なぜなら、ただなんとなく嫌いだからするというには、やっていることに手間がかかり過ぎるように思えるからです。

 自分がそれを虚無だと思うに至ってしまったがゆえに、それをまだ屈託なく遊べる人に対する怒りの感情や、そんなものは虚無であると知らしめたいという願望が出てくるという理路ならば、個人的な納得感があるように思います。

 

 そのような葛藤は、ゲームが大好きな僕自身についてもあることで、ゲームの存在が良いものだと簡単に言い切って本当に言っていいのか?という気持ちはどうしたってある程度はあるわけです。なぜなら、ゲームは楽しいので、ついゲームをやってしまいますが、そのせいで、他のやるべきことをおろそかにしてしまう経験があるからです。本来やるべき様々なことをやらずにゲームをやってしまっていたとき、ゲームそのものには罪はなくとも、他にやらないといけないことがあるのにゲームをやってしまった…という罪悪感が残ります。

 ゲームはやってしまうが、自分の不作為がゲームのせいになってしまうのはよくない。ゲームが悪く言われないためにも、ゲームとの適切な距離感を保っていこうという気持ちがあるので、ゲームをすることは無条件でいいことだよという主張を屈託なくすることができません。

 

 僕がそういう葛藤を抱えている一方で、主人公側は、ゲームを虚無だと言ってしまうミルドラースが、そもそも昔は好きであった可能性などは一切考えません。自分の分かっているものを、きっと相手は分かっていないに違いない、感じたこともないのだろうと即座に決めつけています。

 そして、自分の中で大切な思い出の一部で、「もうひとつの現実」であると主張するわけですが、その言葉を口にするには、ゲームを始めるときの下りが軽薄過ぎるように感じてしまって、「お前、どの程度の覚悟があって、それを言い切れるんや?ノリで調子のええこと言うとるんやないぞ?」みたいな気持ちにもなってしまいました。そこに葛藤はないのか?と思うからです。

 

 つまり、僕は主人公を自分にとっての外部者だと思ってしまったのだと思います。なので、知らん人の知らん話を見てしまったということを最後に思ったのだと思いました。知らない人の結婚式の生い立ちビデオを見てしまったような気持ちです。それをユアストーリーと言われてもな??と思いましたが、一方で、これを目の前に置かれることで、自分にとってのドラクエとは?みたいな気持ちがむくむく出てきてしまいました。

 人間は他人への反発が発生するとき、自分の立ち位置を強く認識しやすくなったりするからだと思います。まあ、それこそがユアストーリーだったのだよと言われたら、なんやと??と思ってしまうとは思いますが。

 

 色々思ったのですが、総論としては面白かったし見てよかったです。それは例えば、人間の孤独を歌うバンドの曲に強く共感して、ひとりでライブに行ってみたものの、周囲には友達と来てワイワイしている人の方が多数なのだ…と思ってしまうときのような気持ちです(これは実体験)。

 自分以外にも、これを好きな人はいて、それは決して自分ではないのだなと思ってしまうという認識があって、まあ、それはきっと正しいと思うんですよね。自分と何かの作品の関係性は、1対1ですが、世の中にはその無数の1対1が存在しています。

 だから、これは僕の話じゃないんだなと思ったということがとても面白かったです。そして、そんな他人がいることを否定できる権利は自分にはないだろうとも思います。世の中はそういうものです。

 

 結局、僕はどちらかというとミルドラースに興味がしんしんで、彼を作った天才プログラマーは、なぜそこまでVRゲームの世界を憎むようになったのかがとても気になったままです。あのゲームの中は、決まった動作をするだけのプログラムではなく、プレイヤーからのインタラクションに合わせて、自分を書き換えていくような機能があるように思えました。

 作中でのフローラの動きも、主人公がゲームを始めるときに最初にした設定を無視させるようなものであったり、マーサはゲームがゲームとして繰り返されていることや、ゲームの外の様子も少なからず理解していたように思えました。それはつまり、ゲームの中の人々には、ひょっとして自由意思として理解できるもの、あるいは、その種になるものが存在しているのでは?と思えたということです。

 

 人間は根源的には他人のことが分かりません。分かるのは相互のコミュニケーションの界面となるものだけで、自分と相手が触れ合ったときの響きから、その中身を類推しているに過ぎません。機械に対して自分と同じような内面を持っているのではないかと感じてしまうこともあるでしょうし、適切なリアクションを返さない相手の内面は、無いものと認識してしまったりもするでしょう。

 天才プログラマーは、VRゲームのキャラクターたちに内面を感じるほどにハマりこんでしまったものの、それらはやっぱり作られたものでしかないという限界を感じたのかもしれません。であれば、おじさんそこもうちょっと聞きたいな!というような気持ちにもなります。

 

 ドラゴンクエストユアストーリーには、2があって欲しい気持ちになってきました。そこは、最初からVRゲームの世界だと分かっていて、その中には、人間と同じように思えるか思えないかが曖昧な登場人物が存在します。ゲームの中のその存在を、虚構として捉えるのか現実として捉えるのかに悩んでしまう人が、今度は主人公であってほしいと思ってしまいます。

 

 僕自身にはゲームの中で起こったことが、十分自分自身の思い出と言っていいものになっているものが多々あります。だからこそ、虚構と現実の差について、切実な人の話も観たいなと思ってしまいました。

 

 結論としては、映画は面白く見たけど、主人公よりミルドラースの方が好きかもしれない。もし、2があるならミルドラース側?の人の話が観たい気がする!というものです。