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「ロッタレイン」を読んで気づく自分の中の気持ち悪さ関連

 松本剛の「ロッタレイン」ですが、雑誌での連載が完結した後に、毎月1冊ずつ単行本が出て、最終3巻まで出おわりました。なぜこういうタイミングでの単行本化になったのかはよく分からないですが、連載が続いても単行本が出ずに終わるんじゃないかと少しハラハラしてしまいましたが、出てよかったですね(その間、掲載誌のIKKIが休刊し、後継のヒバナに移籍し、そしてそのヒバナも休刊しました)。

 

 さて、この漫画は、メンタル的なトラブルから事故を起こして、しばらく働けなくなった男性(三十歳)が、自分と母親を捨てて他の女のところに行った父親の元に身を寄せることになり、そちらの家庭の連れ子である少女(十三歳)と恋仲になってゆくというような物語です。倫理的な側面からすれば、三十歳の男性が十三歳の少女に恋愛感情を抱くということは、社会通念上よくないことであると思います。ただし、人間の感情は規範とは別の論理で動くものだと思うので、そのような感情を持つこと自体はどうしようもなく、止められないのではないかとも思います。しかしながら、そうであったとしても、それを表出させたり、行動に移すことは許されておらず、咎められるのが、現代の社会規範ではないでしょうか?

 

 この漫画のすごいと思うところと怖いと思うところは、その十三歳の少女をこれでもかと魅力的に、あるいは蠱惑的と言っていいほどに描くことで、戸惑いながらもその境界を一歩向こうに踏み越えてしまおうとする男性の心理状態を追体験させられるところではないかと思いました。

 

(以下、ネタバレが含まれます)

 

 ロッタレインとはlotta rain、つまりたくさんの雨のことでしょう。物語の中で象徴的に描かれるのは、少女がある日見た、晴れと雨の境界線で、今立っているこちらの場所には雨が降っていないのに、目の前のあの境界の先には大雨が降っているという不思議な情景です。そして少女は雨の中に足を踏み入れその中を歩いてしまうのでした。

 

 それはつまり、規範という境界の向こう側ということではないかと思いました。そちらに足を踏み入れ歩き始めた少女が、夜になっても家に帰ってこないことで、男性は車で追いかけ、見つけることができます。その後、帰りの道すがら、少女のワガママで寄った夜の海で、少女は波の先にざぶざぶと足を踏み入れ、男性にもこちらにくるように誘うのでした。果たして、砂浜から先の海へ、足を踏み入れるべきでしょうか?踏み入れるべきではないでしょうか?

 

 この物語は全編を通して美しい情景が描かれ、そして特別な少女の持つ特別な何かが描かれます。しかし、そこにもうひとつ見出してしまうのは、それを見る人間の気持ち悪さではないかと思いました。つまり、男性が抱いてしまった少女への執着心の気持ち悪さです。そして、その気持ち悪さを自覚しつつも、押しとどめておくことができないというさらなる気持ち悪さです。

 少女からの誘い水を言い訳に、それが漏れ出してしまうということの気持ち悪さが描かれていると思います。その感情は言うなれば、人間の精神の活動において循環する中の汚水にあたるものだと僕は思っていて、それは普通は外には出ないものだと思います。普段目にする水はきれいなものばかりです。それらがどこかで濾過され浄化され、処理されたものだけが目に入るように社会の表面はなっています。たとえそれが、塩素臭い杜撰な浄水であったとしても。

 そんな目に触れないように隠してある自分の精神の汚水が漏れ出してしまうことの自己嫌悪と、それを他人に見られてしまうことの恐怖が描かれていると思いました。しかし、それも間違いなく自分自身でもあるのだと思います。普段はないように振る舞っている、その気持ち悪い汚水の部分が、自分の中には確かにあり、それを確認させられてしまうということが、このロッタレインを読んだことの読後感でした。

 

 人間の他人への執着心、それが大人の男から幼い少女へのものであれば、なおのこと気持ち悪いでしょう。他人と自分とのお話は、どこに主役としてのピントを合わせるかによって、美しくも醜くもなります。そのピントがどちら側にも紙一重で合わさりうる危うさが、この漫画の魅力ではないかと思っています。

 

 さて、主人公の男性には喪失があります。子供の頃に家を出て行った父親の喪失、そして、残った母親も亡くなった喪失。事故を起こしたときには、恋人を失った喪失があり、心の中にがらんどうがあります。そのぽっかりと空いた穴を埋めることの欲と、恐怖があるのではないかと思いました。なぜなら、埋まることは次の喪失を意味するかもしれません。そして、それを埋めようとする自分の執着的な行為自体にも嫌悪感があるかもしれません。

 少女側にも喪失があります。自分の父親は、血がつながった親ではなく、一方、ある日、家にやってきた三十男は、その実の息子です。彼が来ることは、自分が父親と血が繋がっていないことを強く自覚させられることでもあり、そして、物語の半ばで、彼女はその母も病気で失ってしまいます。残った父と弟、ある日やってきた兄たちは血のつながりのある家族ですが、自分だけが違います(とはいえ、弟とはありますが)。彼女の居場所は、家の中で不安定になってしまいます。

 この状況において、血の繋がらない兄が、自分への好意を抱いていることは、その解決方法として都合がいいものでしょう。自分の中で欠けているものを埋め合わせるためにピタリと合わさるパズルのピースのようなものです。しかし、それは非対称です。少女から男性へは、それを拒絶する理由がなく、男性から少女へは、父親を含めた世間の目という躊躇する理由があります。

 

 そこを踏み越えてしまうこと、そして、それが必ずしも良い結果とならないだろうこと、その際に嫌でも直視させられてしまう、自分の中にある気持ちの悪い部分、読者である自分の中にもそれがあるということを自覚させられるところが、読んでいて心をかき乱されるなと感じたものです。

 それは主人公が半ば予期していたこと、それゆえ最初は押しとどめようとしたものであったはずですが、結局押しとどめることができなかったという悲劇であり、分かっていたはずなのに人がそうなってしまったという、ある種の滑稽な喜劇でもあると思いました。

 

 この物語の中には、少女に対する、ある種の性的な目線が何度も出てきます。例えば、少女の学校の担任の先生は、そのしぐさの端々にそれを見てとることができます。それが主人公の男性の目には非常に不快に写ります。それが不快なのはきっと、それを理解できるからでしょう。自分の中にある気持ちの悪い部分と同じものを目の前でまざまざと見せつけられてしまうからです。そして、それはきっと読者である僕が、主人公を見て感じるものと似ているのかもしれません。

 

 僕が思うには、人間には気持ちの悪い部分があるじゃないですか。それはあったとして、多くの場合は、表にはなかなか出てこないわけです。でも、それは「ないもの」ではなくて、「あるもの」であるという自覚はあった方がいいんじゃないかと思っていて、でも、それはおいそれと外に出していいものではないというのが、僕が抱えている社会規範のようなものだなあと思いました。