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「少年ハリウッド」とアイドルは神か生贄か関連

 少年ハリウッドのアニメ1期、2期を観終わったあと、最終回の完全版を観て、その後、小説少年ハリウッド完全版を読みました。

 でも、まだこの少年ハリウッドというものがどんなものだったのか自分の中で測りかねています。ので、文章を書きながら自分の中で整理をしていこうと思います。

 

 少年ハリウッドは、原宿にあるハリウッド東京という劇場を拠点として毎日のようにライブをする少年ハリウッドという男性アイドルグループを主人公とする物語です。厳密には彼らは2代目で、かつて存在した少年ハリウッド(なお、小説少年ハリウッドはこちらの話)の名前を引き継いだ新生少年ハリウッドです。このアニメの物語では、ざっくり言えば何でもなかった少年たちがアイドルになっていくという過程を描いており、その結実が最終回のクリスマスライブとなります。

 

 僕が今ひとつ納得のいく受け止め方に至っていないのは、最終回を迎えた少年ハリウッドのメンバーたちが、本当にこれでよかったのか?ということに疑問が残るからです。いや、最終回とその完全版を観て、よかったなあと思うのですが、その自分がよかったなあと思ったことがよかったのかどうかという疑問があります。

 

 それは作中でも、「アイドルは神か生贄か」という語られ方をしていたことからも、意図的なのではないかと思っています。僕はアイドルとなった彼らの姿を観ながらも、同時に彼らが生贄としての役割も果たしているということについて自分の中で上手く捉えられないのではないかと思いました。

 

 客席のファンに向けて彼らが見せる姿は、彼らの実態とは異なります。彼らはアイドルでいるときに、アイドルという役割を果たしているからです。彼らのお決まりの自己紹介のパフォーマンスも、自分自身で考えたものではありません。彼らはその珍奇とも思える自己紹介に最初困惑し、そして、後に自分の言葉のように堂々とやって見せるようになりました。そして、舞台の裏側で、ファンたちが自分たちを見る目線が、素の自分以外の何か別物を見ているように思えることへの困惑も描かれたりします。

 

 ここで、僕が思い出すのは大森靖子の「マジックミラー」という曲です。

あたしのゆめは
君が蹴散らしたブサイクでボロボロのLIFEを
掻き集めて大きな鏡を作ること
君が作った美しい世界を
みせてあげる

  この歌は、お客さんのいる舞台に立つ人の覚悟を歌ったものだと思っています。つまり、客席の人たちが舞台に立つ人に向ける目線は、実は客席の人たち自身の心の中にある世界の写し鏡であって、舞台に立つ人そのものではないということ、そこに自覚的な話なんだと思います。それはあたかもマジックミラーのように、舞台から客席は見えても、客席からは客席にいるそれぞれひとりひとりに合わせた鏡しか見えないということです。

 そして、舞台に立つ人は、自分がそんなマジックミラーであることを自覚して、そのためにこそ舞台に立つということが歌われているんだと思います。

 

 少年ハリウッドのメンバーたちもこの心情に近いのではないかと思っていて、その覚悟というか、そうすることが彼らの理解するアイドルという役割であって、そのようなアイドルになってゆくという様子に観ていて、実際僕の心は動きます。

 ただ、こういうことを考えるのがいいのかは分かりませんが、彼らがまだ子供という歳であることが自分の中でひっかかっていて、子供に大人を含めたファンたちがそんなことを背負わせる?という疑問と、しかしながら、アイドルはその子供から大人になる一時期にだけ期間限定で続けることができるものであったりするという構造的などうしようもなさも感じたりします。

 

 つまり、このようなアイドルという概念は、ファンは喜んだとしても、アイドルをやる人々にとっても果たして素晴らしいことなのかということに疑問を持ってしまいました。それはたとえ本人たちがそれを肯定的に捉えていたとしても、もしかすると、搾取でしかないのかもしれないと思うということです。僕にはそれがよく分からなくなってしまったんですよね。

 現実にいるアイドルでも、続けることや辞めることの周りで巻き起こるゴタゴタが目に入るわけじゃないですか。

 

 そして、少年ハリウッドは、その部分をごまかさずに描くということをすることが特徴的な物語であるように思いました。普通の人間でしかなかった人たちがアイドルをやるということについて、表に見えることと、背後に隠れていることがあり、その両方を描くということです。

 

 最終回にあるライブでは、それまで表に出ている部分しか見ることができなかった客席のファンたちと違い、自分は、彼らのこれまでをずっと見てきたんだぞという、客席の後方で保護者面しながら腕組みをしている人間となっていました。そして、この物語はドキュメンタリーのようなものであったのだなという理解があったのです。

 

 アニメの中には、一話丸ごとテレビ番組を模した構成のものがあったり、最終回の完全版は、完全にライブそのものを再現する構成なので、感覚としては、少年ハリウッドのみんなの晴れ舞台を見ている気持ちなんですよね。様々な困難があった中で、彼らがアイドルになっていったこと、そして、この先に繋がっていくであろうことを信じて送り出すような物語でした。

 

 適当にまとめたような書き方をしましたが、全然自分の中ではまとまってないなと思ったのでまだ続きを書きます。

 

 少年ハリウッドが面白く感じたのは、アイドルの物語なのに、最初のシーズンの13話ではそれを見るファンの姿があまりなかったことです。僕の理解では、アイドルという概念には、それを見るファンの存在が必要不可欠で、ファン⇒アイドルの目線と、アイドル⇒ファンの目線がぐるぐる循環してこそアイドルなのでは??みたいな気持ちがあるんですが、前半はそれ以前の物語であるように思ったんですよね。

 

 まだアイドルでない少年ハリウッドのメンバーには、答えるべき他者からの視線がまだありません。だから、13話までの彼らの姿はある意味滑稽にも見えます。伝える先の見えない言葉を発しているからです。そして、それは視聴者にとってもそうだと感じました。

 アイドルとファンの関係性はある意味、内輪の話だと思います。そして、視聴者は最初、その外にいるわけです。だから、彼らの内輪に向けた言葉が、それが届かない相手に向けて発せられているときに、それを見ている僕が恥ずかしくなってしまうこともありました。

 

 アイドルになるための歌やダンスや自己紹介の練習をしながらも、そのときの彼らにはまだ、それを誰のためにやることなのかが分かりません。しかし、物語の後半の13話からは、ファンとの距離感が描かれ始めます。例えば第16話の「本物の握手」では、劇場に来れば握手ができるアイドルという立場とファンの距離感について描かれたお話で、アイドルとファンは、対等な人と人としてではなく、あちらとこちらとして隔てるものとして存在することが意味があるという示唆があります。

 「カッコいい男の子と、ひょっとしたら対等な恋愛関係になれるかもしれないと思って劇場に通う」ということは、実はアイドルを普通の人間として捉えているということで、つまり、アイドルからアイドル性を剥ぎ取ることだということです。目の前のアイドルがどんどん多くの人にとってのアイドルに成長していき、今日この時、握手のためにアイドルの時間を少しだけもらったことが、将来、もう手の届かない、どんどん価値のあるものになっていくという想像こそがアイドルのアイドル性には存在するのではないかという示唆です。

 

 新生少年ハリウッドの前には、初代少年ハリウッドがいます。彼らは解散後のそれぞれの人生があることも描かれます。芸能界に残る人もいれば、他の仕事を見つけている人もいます。彼らはアイドルでありましたが、もうアイドルではありません。アイドルは人生のある一時期にしかできません。しかし、アイドルという物語は、その役割が人から人へと受け継がれていきます。

 新生少年ハリウッドもきっといつか終わりが来る物語です。

 

 アイドルの起源をずっと辿れば、それは例えば巫女のようなものなのかもしれません。太古の昔から今でいうアイドル的な存在はあったのかもしれないということです。つまり、そのようなアイドル的な存在は人間社会で何かしら必要とされてきたのではないでしょうか?

 巫女は自分の言葉ではなく、何かしら超自然的なものの媒介となる存在です。だから、人であって人ではないことに意味が見出されます。ネパールにはクマリという役割があって、初潮前の女の子が生きた神さまとして信仰の対象となったりしています。
そして、クマリは人権侵害であるという議論があります。

 

 アイドルは神であり、生贄でもあるのかもしれません。でも、それは全て、そのアイドルを見るファンたちに対しての奉仕者という意味で共通しているように思います。それは尊いことかもしれませんが、バランスを崩すと酷い話にもなり得ます。

 

 僕の考えでは、人間には接する相手によって多面性があります。誰かと接するときには、その人用にカスタマイズした人間性があるということです。他人に対して冷徹な人が、身内に対して愛情あふれるとき、どちらかが本物なのではなく、人は接する相手によって別の自分を持っているという理解を僕はしています。

 ネットで暴言を吐いている人が、実際会ったら良い人だったという話も聞いたりしますが、どちらかが本当ではなく、ネットで接している相手と、直接接する相手では別の人格が出来上がるものだと思うので、不思議ではありません。

 だからこそ、自分が誰と接しているときにどのような人間性なのか?ということに自覚的になります。誰かが好きと思うとき、その人が好きという話だけではなく、その人といるときの自分が好きということがあると思うわけです。これは昔から感じていたことですが、最近、女優の蒼井優さんも同じことを言っていたという記事を読んだので、おい!僕だけの考えじゃないぞ!あの有名女優も言っとるぞ!!という感じになりました。

 

 なんでこういう話をしているかというと、つまり、「アイドルを見ているときの自分が好き」ということがあると思うわけです。そして、アイドルは、そんなファンとしてなりたい自分にならせてくれる特別な存在なのではないでしょうか?

 もし、アイドルが一人の人間として目の前にいた場合、それはやはり一人の人間なので、上手く行かないこともあると思います。でも、アイドルがアイドルとして目の前にいるとき、それは、前述の自分の写し鏡として、自分が心地よい状態をしてくれる存在となってくれるのかもしれません。

 アイドルのファンである自分が好きであるということがアイドルの現場によって保証されているならば、アイドルは必要な存在です。だから、アイドル的な存在が世の中には存在しているのではないかと思ったということです。

 

 新生少年ハリウッドを作り上げた社長は、初代少年ハリウッドのメンバーでした。それはつまり、社長はアイドルとファンの関係性を維持する場所を保とうとしたということだと思います。社長もまた、アイドルという奉仕者として生きてきた人で、そして、その場所に意味があることを理解していたのではないかと思います。

 

 アイドルという場所は、時代時代にその象徴となり得る若者を喰らいながら維持されているように思いました。なぜなら、それを必要としている人がいるのだから。

 

 この新生少年ハリウッドという人生の一時期が、将来の彼らにとって良い時間になるかどうかは分かりません。この先、少年ハリウッドに青春の重要な時間を投入したことを後悔する人も出てくるかもしれません。その可能性もあることが描かれていたと思います。それでも、彼らはアイドルとして自分たちの意思で舞台に立ち、ファンとアイドルという輪を維持することを選びました。

 

 それは、良し悪しではないわけです。おそらくそういう話ではないわけです。ただ、そんな場所がここにあったという話なのではないかと思いました。アイドルとファンによる輪が存在しているという話で、そして、視聴者である自分自身も、その場所を構成する要素のひとつです。

 初めは外から眺めていたはずの物語を、気づけば内輪の中から見るようになっていました。見ているだけで気恥ずかしかった自己紹介のパフォーマンスも、今ではやってくれると嬉しく感じます。新生少年ハリウッドのメンバーがアイドルとして変化したように、視聴者である僕にも変化があったことを感じることができます。

 なので、僕自身にとっては良かったなと思いました。そして、そんな自分にしてもらえる少年ハリウッドはいいアニメだなと思いました。