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人格の大部分はリアクションで出来ているのかも関連

 人間が目で何かを見るとき、物そのものは見ていません。見ているのは物に当たった光の反射です。だから光がない場所では、人間は物を見ることができません。そして、それは物以外でもそういうところがあるのではないかと思ったりします。

 

 僕は人間の人格というものは、どれほど明確にあるのだろうか?と考えることがあります。

 

 人格というものについても、他人から見ることができるのは、実はあくまで反射でしかないのではないか?という疑念があるということです。反射とは、つまりリアクションです。何かに対してどのようなリアクションをとったかの積み重ねが、その人の人格の形を見えるようにしてくれているのではないかと思いました。

 そして、そう考えたときに、自分の発言もその多くがリアクションに分類されるものであることに気づきます。本を読んで感想を書けば本へのリアクションです。美味しいものを食べた報告をすれば美味しいものへのリアクションです。世の中で話題になっていることに言及すれば、話題になっていることへのリアクションです。誰かの発言に反応すればリアクションです。

 自分が自分の外に発する言葉を分類していくと、それは実は自分の中から出てきたものではなく、自分と自分以外の何か接したときの反応でしかなく、つまり、その大半がリアクションに分類できることであるかのように思えてきます。

 

 そう考えた場合、他人が僕を見て認識する人格は、そのリアクションをかき集めた総体のはずです。僕の人格そのものではありません。いや、僕自身にとってすらそうなのではないか?という疑念もあります。自分がどのような人間であるのかを、自分でちゃんと理解していない気がします。なんか、自分が何かに反応しているときに、初めて自分が思っていることが分かることがあるんですよね。

 

 そのように、自分の形というのは全然分からないことが多くて、自分が何にどのように反応するかを確かめることが、自分の形を確かめる手段になりやすいのかもしれません。

 だからこそ、自分以外の何かに言及するということを、人は好んでしてしまうのかもしれないなと思いました。なぜなら、それは、自分が何者であるかということを周囲に知らしめる行為であり、同時に、自分自身が何者であるかを自覚することができる行為だと言えるからです。

 

 自分自身ですら、自分の姿を何かに対する反射でしか認識できないのだとしたら、何に対して自分の姿を映すかが重要なのかもしれません。

 

 実際、何かのシチュエーションで、事前に自分がもしそうなったらそうするだろうなと思っていた行動を自分が全然しないことがあって、そんなときに、自分ってこんな感じの人間なんだなと気づくこともあります。あるいは、人と喋っている中で、それまで思っていなかったようなことを、さも前から思っていたかのように喋ってしまったりすることもあります。そんなふうに、自分で自分を発見しています。

 そのように考えていくと、自分は自分だけで自分になるのではなく、周囲の人に対するリアクションとしての自分が、自分の中の多くを占めているような気がします。何にリアクションをとるかということが自分自身を規定することもあります。

 

 「自分探し」という言葉が流行ったとき、「ここではないどこかに自分がいると思うのか?」という疑問も数多く言われていたと思います。でも、それは実は、「環境探し」だったのかもしれないなと思います。自分がどの環境に接したときに、自分にとって好ましいリアクションをとれるのかということです。

 自分の存在の多くの部分が、周囲と接したときのリアクションで作られてしまうのだとしたら、自分がこうあって欲しいと思う姿になるためには、どのような環境に身を置けばいいのかという話になってきます。自分にとって最良な環境とは何かを知るために、色んなところを探すことには意味があるのではないかと思います。

 

 自分というものを掘っていって、自分の人格の色んなものを解体していくと、その先には何かしら人格の核のようなものはあるのかもしれませんが、実は解体する際にはがしたものの方が皆の思う自分なのかもしれません。その先に何かしらの核があったとしても、結局他人の目には見えないし、それよりも見えるガワの部分の方がよほど具体的だからです。

 

 昨日読んだ、「ここは今から倫理です」の最新話が、自分の心が言葉に引っ張られてしまうというような話で、すごくいい話だったので、詳細は雑誌を読むかそのうち出る単行本で読んでほしいのですが、そういうことはあるよなと思います。心の中にあるものは曖昧な形で、それに意味を与える言葉がどのように出るかで、形が変わってしまうようなことがあるように思います。だから、意図的にどのような言葉を口に出すかに意味があるような気がします。

 

 僕は自分はなんか虚ろだなと、ひとりでいるときにはよく思うのですが、一方で、他人と一緒にいるときには、いくぶんかはっきりしてくるように思っていて、それが嘘の姿というよりは、他人を写し鏡にすることで、そこにおける自分の姿がはっきりしているだけなんじゃないかなと思ったりします。

 そして、何に映すかによって自分の形は変わってしまうものなんじゃないかなと思います。だから、何に映すかに自覚的であった方がよく、どういうものに映しているときの自分の姿を好ましく思うかというところに、注意を向けるといいのかなと思っています。

 

 もともと仕事以外では人にろくに会わない生活なのですが、コロナ禍でそれが加速し、ここ半年以上、仕事関係以外の人と会ったのは1回きりです。そんな状態だと、なんだか自分の姿がどんどん曖昧になってきた気がしていて、あんまり良くないかもなと思っていたりします。

 ただ、来月久しぶりに開催されるコミティアのスペースがとれたので、久々に人に会えるなと思って今からウキウキしています。コミティアで僕のスペースまで本を買いに来てくれる人と喋るのは、ほんと好きですね。

 自分の姿は、そういうところに映しておきたいなと思っています。