漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

善人について

 漫画の描き方というものがよくわかっていないので、一旦描きたいことを文にしてみてから、それを物語に置き換えるようなことを毎回しています。それがいいやり方なのかどうかは分かりません。また、漫画を思い通りに描く能力が足りないので、文と同じような漫画を描こうとしたものの、結果的に違うものになったりしてしまいます。ただ、途中で自分が何を描こうとしていたのかができるだけずれないように照らし合わせる指針として今はまず文を書いています。

 以下の文は5月のコミティアに出した「千年幸福論」という漫画を描く前に書いたもので、結果的に完全に同じ話にはならなかったんですけど、漫画の方をうっかり読んでくださった人はどう変わってしまったのか比較してみてもいいかもしれません。

 漫画の方は途中まではpixivにもあげています(でも途中までなので、途中まで読んでも終わってないしもやもやするだけかも)。

www.pixiv.net

 

 誰からも善人と思われる人はいるだろうか?ということをたまに考える。

 世の中には多くの出来事があり、インターネットを見るとそれに対する様々な意見があるのが目に入る。思うのは、大きな出来事にはそれに釣り合う大きな理由がないと落ち着かない人がいるんだなということだ。何かが起こると、相応の原因を誰かに求めようとする人がいる。でも、多くの場合原因と結果のつながりは、それを認識する人がしっくりするからやっているだけなんじゃないだろうかと思う。本当にその原因がなければ、同じ結果に至らなかったとどうやったら断言できる?

 

 誰かに不幸が起こったとする。そうすると、その人が不幸になった原因を求めようとする人がいる。中には、その不幸になった人自身にその原因を求めることもある。だから、誰かの不幸ごとが知れ渡ると、「その不幸の原因はお前自身にあったのだ」という話が生まれてしまう。僕が思うにそれは、そのように説明がつくことが話者にとって都合がよいということだろう。ならば、言いたいことはつまり「だから、俺は悪くない」ということだ。

 自分には責任がないということが立脚点なら、他の誰かが悪いことになる。誰が悪いかが定まれば、その出来事に十分な理由がつくので安心する。その原因を自分に求められないので安心する。だから、何か不幸が起こると、その不幸に見舞われた人に対する「それはお前が悪かったからだ」と責める声が生まれてしまうんじゃないかと思う。

 僕はこれをとても悲しい光景だと思う。もちろん、自分の利益を追求することは別に悪いことじゃない。だけれど、皆が皆それをすることで、誰かが踏みにじられてしまったりする。皆が当たり前の何かを望むことが不幸を生み出すのなら、それはとても悲しいことだ。

 

 人は人に原因を求める。例えば台風が来て事故が起こっても、悪いのは台風だということにはならない。台風が来たのに十分な対策をできていなかった人が悪いことになったりする。それはきっと、自然は人間に対して責任をとってくれないからだ。人に原因を求めれば、その損害の補償がされるかもしれない。なら、人に原因を求めた方が得だろう。

 

 宇宙開闢がビッグバンであったという仮説が事実なら、この世のあらゆることの原因はビッグバンであったとも言える。傘を持たずに出かけたら、雨が降ってずぶぬれになってしまったとする。それもビッグバンのせいだ。なぜならビッグバンがなければ、雨に濡れてしまうという事象は起こらなかったのだから。だからあらゆることの原因をビッグバンとして説明してもいいはずだけど、そうはならない。

 注文した料理がなかなか届かないことに憤ったお客さんが、店員さんに対してどうなっているんだ!?と抗議し、店員さんは「ビッグバンのせいです」と答える。ビックバンがなければ注文がなかなか届かないという出来事はなかったし、それは立派な原因だけれど、おそらくそれは受け入れられない。なぜなら、ビッグバンは注文した料理が届かないという不満に対して何の責任もとってくれないからだ。だから、お店が悪いことになる。お店が悪いことになれば、お店にその賠償を求めて、自分の不満は解消されるはずだと思えるだろう。ある結果の原因は無数に考えられるけれど、その中から選ばれるひとつの原因は、問題視する人の都合によって決まる。

 つまり、何を問題の原因として取り扱うかは、それをどのようにしたいかに影響されるものだろう。不思議なことに、世の中のあらゆる「原因」は、「結果」より後に生まれる。原因があって結果があるんじゃない。結果があって初めて何が原因であるかが定まる。そしてそれは人の都合だろう。何かを原因として考えることは、その後どうなって欲しいかに根ざした意志の話だろう。

 

 だから、何かを訴えかけるあらゆる人に向けられる、「それはお前の自業自得だろう」という言葉はきっと無くすことはできない。自業自得であるとなることになれば、その人を助けなくて済むということになるからだ。その方が都合がいい人がいるからだ。これは誰かを責めている話ではない。だって僕自身だってそうだから。

 僕が親切心から誰かの手助けをしたとして、その助けをその後も何度も何度も求められたとすれば、もういいだろうという気持ちになることもある。なぜなら割に合わないと思うから。「これまで散々手助けしただろう?」という自分の中に沸いた感情が、「だから、もう助けなくても十分だろう」という感情と釣り合ってしまう瞬間がある。

 

 そのようにして、色んな人が助けるべき人の枠から除外されていく。もっともらしい理由をつけて除外される。人を助けることは誰かに負担になってしまうから避けられる。困っている善良な人を助けようという話は、何度も繰り返し、大きくなってしまうと、どこかのタイミングで諦めに行き着く。そのとき、善良だったはずの人は善良ではないとされるようになる。だからその人は助けなくていいということになる。だって善良でない人なんて助ける理由はないだろう?

 原因はいつも結果が決まってから都合よく選ばれる。

 

 人が誰からも疑いようがなく善人として扱ってもらうためには、誰にも助けを求めてはならない。

 

 ここにいい方法がある。善人と思われたままでいたければ、誰にも助けを求めずにそのまま死ぬことだ。そうすれば沢山の人が同情してくれる。こんなにも善良な人なのに、なんて不幸にも亡くなってしまったんだろうという話になる。なぜその人が善良であるとみなされるかと言えば、死者はもう自分たちに何にも求めないからだろう。どれだけ同情したとしても、自分はその人に何も支払う必要がない。だから安心して善を認められる。だから、死者の善性はとても強固だ。

 手遅れだった。助けたかった。そんな言葉は人の死の後で沢山生まれるかもしれない。でも、その善良な死者が、もし生きていて自分に助けを求めてきたとき、本当に助けるだろうか?それは一回だけの話でなく何度も何度も繰り返されることだったとしても?

 僕にはそれが信用できない。自分が助けて貰えなかった経験があるからだ。そして、他人を助けなかったことだってあるからだ。

 

 助けられたはずのものを助けなかった経験なんて山ほどある。その経験が、自分を善人ではないだろうなという結論に至らせる。別にそれでいい。僕は悪人だし、自分が悪人であるとちゃんと認識することが、崖っぷちに残った誠実さだろう。

 目の前にいる全員を助けられないとき、誰を助けて誰を助けないかの取捨選択が生まれる。誰かを見捨てる選択をすることもある。平等なはずの人に差をつけて取り扱う。そのような悪をして生きている。目の前にいる全ての人を平等に助けられればそれは善かもしれない。だとすれば善なんて存在しない。人は全能ではないから。

 

 ただ、助ける側の人間が、「ひょっとしたら自分は善人なんじゃないか?」なんて思うことができる方法もあると思う。それは、最初から誰も助けようなんて思わないことだ。調子のいい優しいことだけ言っておいて、実際は一切手を貸さなければ、そのまま調子のいいことを言い続けられる。なぜなら自分は何一つ減らないから。

 お金に困っている人がいれば、なぜ彼らに金を与えないのだと言えばいい。自分の財布は一切開かないのに。他人の財布に手を突っ込んだときだけ気前よく振る舞って善人面すればいい。

 善であろうとすればするほどに、自分の悪に気づいてしまう。そんな悪に気づかないように振る舞う善はもっと邪悪なように思えてしまう。他人に悪だと思われたくなければ口を紡いでいなくなるしかない。なら善なんてどこにあるのだろう。

 

 じゃあもう悪にでもなるしかないじゃないか。

 

 という話を最初は描こうとしていたわけです。