漫画皇国

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私の頭の中の傑作について

 何か作品を作る上で、「頭の中にあるうちは傑作」というような考えがあります。最初にこれを何で読んだか聞いたかは思い出せないんですが、子供の頃に既に聞いたことがあった気がするので、きっと昔からある考え方ではないかと思います。そして、それはもしかすると、最初思いついたときには「傑作ができるぞ!」と思って作ったものが、実際に作ってみたらそうでもなかったというようなことを感じる人が昔から多かったからではないでしょうか?実際、僕自身が何かを作ってみたときにも、最初に思いついたときはこれは絶対面白いぞ!と思って作り始めるものの、途中で、何が面白いんだか分からなくなってしまったり、出来上がったものを見て、僕は本当にこれを作りたかったんだろうか?と思ったりすることもあります。

 

 そういう実感があることはいいんですけど、僕が気になるのは、果たして頭の中にあった頃のそれは本当に傑作であったかどうかです。

 

 僕はそれはやっぱり傑作だったんじゃないかなあと思っています。つまり、頭の中にあったそれは確かに傑作なんですけど、それに誰にでも分かるような具体的な形を与えるということには、とても高度な技術が必要なことで、普通はその変換を上手くやることができないんじゃないでしょうか?

 

 ちなみに、なぜ僕が頭の中にある傑作を本当に傑作であると考えるに至ったかというと、それは「なんとなく」という理由です。

 

 今、2月のコミティアに出るぞと思って、そのために漫画でも描くかと思っているんですけど、描きたいことはあるものの、それを上手く形にするにはどうすればいいのかなと思って、具体的な作業がまだ全然進んでいません。完成させたいなら、過去何回かと同じように、四の五の言わずに描き始めてしまえばいいということも分かっているんですけど、自分の頭の中にある傑作を、どうすればよりよい形にできるのかということはちゃんと考えてみてもいいんじゃないかと思うんですよ。

 

 例えば、「おいしい」という感覚があったとして、それは自分の中だけでいいなら確実な正義じゃないですか。だっておいしいんですから。でも、おいしいという感覚を他人に正確に伝えるのは至難のわざです。僕はうどんが大好きなので、「うどんぐらい美味しい!」って言えば伝わるかもしれません。でも、それは僕がうどんが好きだからであって、もしうどんが好きじゃない人がいたとしたら、その人にはそれは伝わらないわけです。そのときに選ばれる例示は、その対象である人がおいしいと思う何かでなければなりません。自分だけが分かればいいわけではないものについては、適切な手段が選ばれる必要があるわけです。

 頭の中にある状態というのは、自分が自分のためだけにでいいということなんだと思うんですよ。あらゆる前提が最初から当たり前に共有されている状態で、ツーと言えばカーと伝わります。文脈がなく、いきなり結果があれば十分です。でも、それを他人にも見えるような具体的な形を与えようとするときに、解釈の主導権は作った自分ではなく、それを見る人側になってしまうでしょう?それが特定の誰かであればまだ分かりやすいかもしれませんが、不特定多数を対象にした場合、それぞれの人のためだけに丁寧にカスタマイズして作ることもできなくなってしまいます。

 ならば、その傑作をより多くの、知らない誰かに傑作として伝えるにはどうすればいいんでしょうね?

 

 もしかすると、誰もが認める傑作を作った人の頭の中にあったものと、同じぐらいの素晴らしい傑作が、その辺にいる人たちの頭の中にもあるのかもしれません。でも、ほとんどの人はそれを上手く外に出すことができないままに一生を終えてしまうのではないでしょうか?

 ただ、自分では上手く形にすることができなくても、それがあるのだとしたら、他の人が上手く形にしたものを見せられれば、それを使って傑作を感じることができると考えることができます。もしかすると、だからこそ人は、誰かが作った作品を見て感動してしまうのかしれません。そうだとすれば、何かの作品に対しての個々人の感動はひとりひとりの頭の中にある傑作の再現であって、厳密には実は人それぞれの別々の体験です。

 

 そう考えると、自分が何かの漫画を描く場合には、読んでくれる人の頭の中にある形のない傑作に期待するしかないのかもなあと思います。ただし、それを刺激するための適切なアプローチが必要なわけですが、技術が拙いので、取りうる選択肢が限られてしまいます。僕が作れるものは、僕に今できることのつぎはぎであって、本当は必要だと分かっている表現なんかも技術が拙いためにそこに再現できなかったりします。技術だけでなく根気なんかも足りないかもしれません。足りないものばかりですよ。だから十分に形にすることができません。ああ、頭の中にある傑作はこんなにも傑作なのに。

 

 僕が作るものは、きっと僕の頭の中にある傑作の不完全な再現です。もしかすると、僕が読んできた他の人が作った傑作についても、本当はその人たちの頭の中ではもっともっとさらにめちゃくちゃ傑作であったのかもしれません。そういうことを考えると、何かを作るということは結局ある種のコミュニケーションなのであって、伝える相手が不特定多数の知らない人であったり、特定の知っている人であったり、あるいは自分から自分へだったりと様々かもしれませんが、その頭の中にある傑作というか、言い換えれば霊感とかクオリアとか環世界(ウムヴェルト)とか、はたまたゴーストとか言ってもいいのかもしれませんけど、どこかとどこかにあるそれら同士を繋ぐための何らかのアプローチだったりするのかなと思ったりしました。

 そういえば僕自身が非常にコミュ障であったりすることを思いだしたりしました。そういうのがへたくそだ、へたっぴだ。

 

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