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綾波レイとしろがねと、他者とのつながりとしての笑顔関連

 「シンエヴァンゲリオン劇場版」のネタバレと、「からくりサーカス」のネタバレが含まれているのでご注意。

 

 「からくりサーカス」のしろがねは、綾波レイの影響を受けているキャラクターなのではないかと思っているのですが(特に証拠はなく、僕が勝手に共通点を見いだして思っているだけです!)、2人には、似ているところとか違うところとかがあるなと思ったので、その辺の話をします。

 

 綾波レイは、無垢な少女だと思います。それは別に良い意味として言っているわけではなく、普通の人ならば持っているものを、持たないままに生きている少女という意味です。普通の人は、他人に向かい合う界面の数だけの自分を持っています。例えば、親に接するときと、先生に接するとき、友達に接するときには違う自分を作るはずです。しかし、綾波レイは、それがとても少ない人です。

 それは言うなれば小さい子供に近いかもしれません。他者と接するときに、自分の行動がどのように他人に影響を与え、他人の行動が自分にどのように影響を与えるかを、あまり意識することがなく生きています。

 

 ここにはひょっとすると、彼女を作り出した碇ゲンドウの意志が介在しているのかもしれません。なぜなら、テレビ版で最初に生まれた綾波レイには、幼いながらにして、他人にその人が嫌だと思っていることを、あえて伝えるような意地悪な人格があったからです。

 

 2番目の綾波レイは他人に対してどのように接すればいいのかをまだ知りません。だから、それをひとつひとつ学んでいきます。でも、それは実際に他人と関わらなければ学べないことです。

 そして、彼女は学校で孤立しており、所属するネルフでも、パイロットとしての役割が大きく同年代の人間との接触が乏しい状況です。だから、彼女には他人に接するときの自己を学ぶ機会がなかなか訪れません。

 

 だから、彼女は碇シンジと出会い、そこを中心にアスカや他の同級生たちとの接点を持つことで変わっていくのだと思います。他人と接するという、人が当たり前にやることを、彼女はゆっくりと知っていきます。

 

 一方で、しろがねは笑い方を忘れた女です。彼女の本名はエレオノールと言います。エレオノールは、ある男にかけられた呪いによって、自分は笑い方を忘れたかわいそうなお人形であると思い込まされてきました。

 そしてそこには、彼女に、ある2人の女性の記憶が混ざっていることも影響しました。一人はフランシーヌ、貧乏で不幸な身の上でありながら明るい笑顔で生きた女性です。そして、もう一人がフランシーヌ人形、フランシーヌをモデルにした自動人形です。そして、その2人の顔はしろがねにそっくりなのです。

 

 錬金術師の白銀(バイイン)と恋仲になったフランシーヌは、直後、白銀の弟である白金(バイジン)に攫われてしまいます。なぜならば、白金は白銀よりも先にフランシーヌのことを好きだったからです。だから、兄とフランシーヌが結婚することを許せなかったのです。

 攫われた先での生活では、フランシーヌはかつてのような笑顔を失ってしまいました。それは、白金が自身の欲望のためにさらったはずのフランシーヌと接することを、その目で見られることを怖がってしまったからともリンクしているかもしれません。彼女はその笑顔を、他者への表現手段として持つ意味を失ってしまったということです。

 フランシーヌが亡くなったあと、白金は、その代替物としてフランシーヌ人形を作ります。しかし、フランシーヌ人形は笑えません。人ではないからです。笑顔の意味を知らないからです。

 

 からくりサーカスは笑顔を巡る物語です。笑えない女だったしろがねが笑顔を手に入れる物語です。笑顔を失ったフランシーヌが、死の間際にとびきりの笑顔を取り戻す物語です。人ではなく笑顔の意味を知らなかったフランシーヌ人形が、最期に笑顔を獲得する物語です。

 

「笑えばいいと思うよ」

 

 碇シンジは、感情表現が分からないと言う綾波レイにそう伝えました。それはまさに、他人と接すると言うことに対して自覚的になったレイの、歩み出しの場面でしょう。それを伝えるのが、他人と接することを怖がっていたシンジであることにも意味があると思います。

 

 綾波レイもしろがねも、笑えない女です。綾波レイは笑顔を知らず、しろがねは笑い方を忘れていました。ただ、綾波レイが近いのはフランシーヌ人形の方かもしれません。2人とも、その後、笑顔を知っていくからです。

 

 シンエヴァンゲリオン劇場版では、綾波レイのコピーの一人である少女、「そっくりさん」が、農村の生活の中で、共同生活を初めて知っていく場面があります。そして、人がどのように生まれ育っていくのかを学びます。

 これは、他の自動人形たちとともに笑うことを模索し続けることに疲れたフランシーヌ人形が、日本の黒賀村にやってきたときの光景と共通する部分があります。

 

 自分を捨てた造物主(白金)に求められた、「笑う」という願いを果たすために、世界に災厄をばらまく一助を担ってしまったフランシーヌ人形が、ここで初めて人間と接することになります。人間と接して、コミュニケーションを学んでいきます。そして、後にしろがねとなる少女、エレオノールが生まれる場面に立ち合い、人が生まれること、生きて行くこと、その意味を知りました。

 フランシーヌ人形は、黒賀村で死ぬ直前、最初で最後の笑顔を見せます。それは、エレオノールを、泣く赤ちゃんをあやすために生まれた笑顔です。

 フランシーヌ人形は、最期の最期で笑顔の意味を知りました。それは他人に向けられるものとしての笑顔した。フランシーヌ人形が知ったのは、人間と人間のコミュニケーションでしょう。だから、それまでのフランシーヌ人形は笑えなかったのです。誰も人間がいない場所では、それを学ぶすべがなかったからです。

 

 無人島で一人で暮らすのでもなければ、人はコミュニケーションから完全に逃げることはできません。そして悲しいことに、対人コミュニケーションは嬉しいことばかりではありません。

 他人の目に自分がどう映るかを意識することで、どのように映るかを想定した振る舞いに縛られてしまうこともあります。その他人の目に映って欲しい自分の姿が、それ以外の自分と大きく乖離している場合、コミュニケーションは苦痛の連続と感じてしまうかもしれません。

 それでも、ほとんどの人は、人の中で生きて行くしかないのです。

 

 からくりサーカスでは、人が他人と接する中で笑顔を獲得していく素晴らしさが描かれ、一方で、誰とも上手くコミュニケーションをとれなかった全ての元凶の白金が、ついに他人に向き合うまでの姿が描かれています。

 エヴァンゲリオンの旧劇場版では、人と人との傷つく可能性のある界面が失われ、融和した世界を拒絶しながらも、それでもやはり、他人と接することは苦しいという吐露が描かれました。そして、シンエヴァンゲリオン劇場版では、それらを乗り越え、やはり人の中で生きて行くしかないことを背中を押すように描いているように感じました。

 

 からくりサーカスエヴァンゲリオンという2つの作品が影響を受け合っているのか自体は分かりません。しかし、取り組んでいるのは同じ問題なんじゃないかと僕は思いました。人と人とのコミュニケーションの話です。

 そこで、同じ問題に別のアプローチで取り組む様子がそれぞれの作品に現れていて、それが作家性的な部分なのかなと思いました。

 

 なんでこういうことを考えたかというと、シンエヴァの序盤の村のシーンを見ながら、黒賀村のフランシーヌ人形やなーと思ったのがきっかけであるのですが、もうひとつ、新劇場版Qとシンエヴァ劇場版の間に、からくりサーカスがアニメ化されていて、そこでフランシーヌ人形の声を演じているのが林原めぐみだからです。

 

 しろがねやフランシーヌ人形の林原めぐみの演技には、綾波レイを経たものが反映されているかもしれません。そして、そっくりさん(仮称アヤナミレイ)の演技にはフランシーヌ人形を経たものが反映されているんじゃないかとも思ったんですよね。

 そう思えば、さらばと言われた「すべてのエヴァンゲリオン」の中には、エヴァンゲリオンだけでなく、エヴァンゲリオンと関係のある、他の作品も含められているという解釈も可能です。

 エヴァンゲリオンを作品単体でなく、社会現象として捉えるということです。

 

 これは別に正しいと思って書いた文ではありませんが、そのような仮定を置いて考えてみたときに、なんとなくそれっぽく思えたりするのがなんだか面白いですね。