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「弱虫ペダル」の御堂筋くんが好きすぎる関連

 弱虫ペダルで一番好きな登場人物は誰?と聞かれたら断然御堂筋くんなんですけど、どこが好きかというと、セリフひとつに集約されます。

 

 「お前らには絶対分からん」

 

 この言葉が出てくる時点で、絶対に嫌いにはなれないという気持ちになります。

 これは運動も人付き合いも苦手な小学生時代の御堂筋くんが、初めて見つけた夢中になれるもの、自転車についての夢を授業で絵に描いたときの言葉です。そして、自転車の選手になりたいという小さな夢は、同級生たちに馬鹿にされてしまうのです。運動が苦手でひ弱な御堂筋くんが、そんなものになれるはずがないと。

 自転車の選手といっても競輪ぐらいしか知らない同級生たちが、自分の憧れるロードレースについて知りもしない同級生たちが、そんなものにお前のような運動が苦手な人間がなれるはずがないと侮辱してきます。そして、少年の抱える憧れに満ちた夢の絵の上に落書きをされてしまうのです。

 怒った御堂筋くんは体の大きな同級生を押します。でも、その同級生はびくとも動かない。代わりに押したはずの自分の方がこけてしまいます。力のない少年です。力がなくて、自分の意志を相手に追いとおすことすらできません。見下されているわけですよ。むかつくわけですよ。しかし、御堂筋くんは、自分の夢を侮辱した失礼で横暴な同級生に対して、その目をまっすぐ見返すことすらできません。そんな御堂筋くんが、吐き捨てるように言ったのがこの言葉です。

 

 「お前らには絶対分からん」

 

 それは自分と他人の決定的な断絶を意識せざるを得なかった子供の言葉です。それはこの世に誰一人として味方がいなかったとしても、ひとりで戦うことを決意した子供の言葉でしょう?

 そんな御堂筋少年にもたったひとりの理解者がいました。それはお母さんです。自分の気持ちをはっきりと表現することもできない内気な少年を、能動的に理解しようとしてくれた数少ない存在です。御堂筋くんはお母さんにだけは素直です。自分の夢を、望みを、決意を口にします。言葉だけじゃない、態度で、行動でそれを表現します。

 それは、病気のお母さんが入院する遠くの病院に、毎日のように自転車をこいで通い続けた日々の話です。

 

 そして、そんな御堂筋くんは、唯一の理解者であるお母さんすら失ってしまうのです。病気です。不幸です。何もすることができませんでした。お前らには絶対分からんことは、もはや、自分以外のこの世の誰にも絶対分からんことになってしまいました。御堂筋くんの背骨はその孤独でしょう。誰にも理解されなかったとしても、この世で唯一自分だけが自分を肯定するということ、その強烈なエゴイズムこそが、御堂筋くんのペダルを回す駆動力なのだと思います。

 

 弱虫ペダルにおける御堂筋くんの登場は、今泉くんのライバルとしてのものです。主人公の小野田くんを自転車に引き込むきっかけとなった今泉くんは、卑怯なやりくちで自分を負かした御堂筋くんを敵視しています。そして、作中に登場した御堂筋くんの第一印象は「嫌なやつ」です。いや、第一印象ではなく、登場時から今に至るまで、御堂筋くんは一貫して嫌なやつでしょう。

 そしてそれは、自分の目的を果たすためには、誰にどう思われてもかまわないという孤独の現れです。誰になんと思われようとも、「勝つ」という誰の目にも疑いようのない純然たる結果だけが、辿り着くべき場所となってしまっている、強さと悲しさの同居した人間性の発露です。

 

 誰に何と思われようと、自分の中にある一個の宝石が揺るぎなくあるわけでしょう?それを曇らせるぐらいなら、周囲の理解なんて全く無視してもいいということですよ。それが世間一般で正しいというわけではありません。ただ、御堂筋くんがそういう人間だということです。自分の中の大切なものを守り抜くことと、周囲の人々に理解されることが全く釣り合わないような価値観を獲得してしまった人間であるということです。そういう人生を歩んできたということです。

 お話を読み進めていけばいくほどに、御堂筋くんというこの嫌な男が、何にこだわってくるかが分かったような気持ちになってきます。すると、過去の嫌な発言も、嫌な行動も、その全てが理解できたような気持に変化してきます。あんなに嫌なやつだったのに、いつの間にか理解したような気持ちになるのです。

 御堂筋くんにとっては、勝つことこそが全てなのだと。

 その方法にこだわれるほど濁ってはいないわけです。方法にこだわってしまったからこそ、勝利を逃すことの方が恐ろしい話です。だから、勝てる確率を1%でもあげるために何でもします。それが、他人に卑怯と罵られることだとしても、正しくやって負けるより、卑怯でも勝つことの方が御堂筋くんには重要だからです。

 

 普通はこうはなり切れないわけですよ。レースには一握りの勝者と、それ以外の無数の敗者がいるだけです。勝つためには勝たなければいけません。それがどんなに他人に非難されるようなやり方だったとしても、それをやらずに、正しく負けるより、それをやって間違ってでも勝つことを望むことはそんなに悪いことでしょうか?

 それは見方を変えれば、決して諦めないということです。格好よく負けるよりも、無様でも勝とうとすること、それは笑われてしまうことでしょうか?ひょっとしたら、そんな御堂筋くんを笑うことは、小学生の御堂筋くんの夢を笑った同級生たちと同じことをしているのではないでしょうか?

 

 しかしながら、1年生のインターハイの最後、御堂筋くんは負けてしまいます。少しでも空気抵抗を減らすため、シャツもレーサーパンツもまくり上げ、異様に小さな自転車を使って奇妙な姿勢で必死で絞り出すように自転車を漕ぎ続けます。その姿を見た観客たちは、御堂筋くんを気持ち悪いと表現します。でも、それが何でしょうか?どんなに気持ち悪く見えたとしても、それをやらずして諦めなかったわけじゃないですか。最後の一滴を絞り出すまで、いや、それを絞り出し切ったとしても、それでもまだ勝とうとした姿じゃないですか。

 御堂筋くんは、他の選手に対して「キモい」という言葉を使って罵倒します。ひょっとしたら、それは自分自身が気持ち悪いと言われ続けてきたことの裏返しではないでしょうか?自分が言われた罵倒を、自分が他人に使ってしまう悲しみです。周囲の人々は御堂筋くんを気持ち悪いと思うかもしれません。でも、御堂筋くんからすれば、そうではない他の人々こそが気持ち悪いという話です。なぜ勝とうとしないのかと。

 

 かつて御堂筋くんが今泉くんに対して伝えた「お母さんが危篤である」という嘘は、今泉くんにショックを与えてしまいました。それで今泉くんは負け、御堂筋くんは勝ちました。それは卑怯でしょうか?卑怯かもしれません。いや卑怯ですよ。でも、御堂筋くんはそれでも走ったわけですよ。自分のお母さんが、それは嘘ではなく本当の話で、自分の唯一の理解者であったお母さんを失ったとしても、ペダルを漕ぐ力を緩めることなく勝ってきた過去があるわけじゃないですか。

 自分はお前たちとは違うということを御堂筋くんは全存在をかけて主張し続けます。その孤独と孤立こそが、御堂筋くんという存在そのものであるかのように思えます。

 

 御堂筋くんは京都伏見高校の自転車競技部を1年生でありながら乗っ取りました。他の部員を自分が優勝するための道具として使い、使い終わったらポイ捨てして、それでも勝利を目指します。そんな御堂筋くんと最後まで走ったのが3年生の石垣くんです。彼は自分たちがやってきた部活を乗っ取った御堂筋くんに思うところがあるでしょう。代々受け継がれてきた部活を、たったひとりの男の野心のために台無しにされてしまったからです。

 しかし、そんな石垣くんは、御堂筋くんと走りながらこう思うようになります。

 

 「お前は純粋やな」

 

 それは、誰よりも勝ちたいと願った御堂筋くんを理解した言葉です。ただ勝つということ、それだけのために動く穢れのない存在です。仲間と仲良くやりたいだとか、格好よく思われたいだとか、そういった穢れを何一つ持たず、ただ一心、勝つという目的のためだけに行動する御堂筋くんのことを、お母さんの次に理解した存在じゃないですか。

 石垣くんは自分たちの勝利への願いを、御堂筋くんに託します。そんな御堂筋くんの返答は「いややキモい」です。そう、それでこそ御堂筋くんです。誰かの思いを継ぐことが、勝つために役に立つのならやるかもしれません。でも、そうではなく、それは余分なものです。それらを全て捨て去って、最後に残る純粋な勝つという欲動こそが御堂筋くんの全存在じゃないですか。

 

 その、この世でたったひとりの我が存在していることこそが、この世の中では最も尊いと思うわけですよ。

 

 誰に何をどう思われてもいい、ただ勝とうとしたということは、実際なかなかできません。世の中に少数の勝者と多数の敗者がいるなら、多くの人が考えるのは、もしかしたら、いかに格好よく負けるかじゃないですか?無様でも勝ちに行こうとすることができる人はそうそういないんじゃないかと思います。そして、そんな必死な人を、多くの人は嘲笑うじゃないですか。

 そんな世の中で、御堂筋くんの無様な敗北にはとても価値があるものですよ。勝とうとしたんですよ。そして、2年目のインターハイでは、その日の完全勝利もやってのけますからね。観客たちは現金なものです。どんなに口が悪く、どんなに横暴に見えても、その勝ったということ、勝つために何でもしたということを、勝ったという事実が肯定していきます。その心情の変化は1年目の御堂筋くんを見ていた、読者のものに重なるはずです。

 

 別にそれが正しくはないわけですよ。でも、御堂筋くんがそうやって御堂筋くんであり続けるということで、僕はとても救われたような気持になります。それはきっと、御堂筋くんほどにはそうは成り切れない自分を自覚するからでしょう。

 自分の大切なものを理解してもらえなかったとき、それでも、それを自分だけは一生大事にすると思いたくて思いきれない自分がいます。だからこそ、どう思われようが自分の中の大切なものを守り切る御堂筋くんの姿勢に憧れてしまうことは仕方がない話だなと思ってしまいます。

 2年目のインターハイも最終局面、先週のチャンピオンの最後のページでは、箱根学園と総北高校の一騎打ちのように見えたレースにとうとう御堂筋くんの京都伏見が追いつきました。でも御堂筋くんは主人公じゃないんですよ。でも、でも、もしかしたら勝つかもしれないじゃないですか。だって御堂筋くんは勝つために走っているんですから。

 くそう勝ってほしいな!そう思いながらお話を追います。