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「キャッチャーインザライム」と言葉による自己表現関連

 「キャッチャーインザライム」はスピリッツで連載している女子高生のラップバトル部のお話です。最近1巻が出ました。僕はラップのバトルについて全然詳しくないので、上手い具合に韻(ライム)の踏み方を脳内再生できず、ぎこちなく読んでいるところもあるんですけど、読み進めていると、おっ、踏んでるなというのが最初よりはわかるようになってきました。この漫画では、韻を踏んでいるところを太字で表現してくれているので、それも分かりやすいですね。

 

 さて、主人公の眼鏡の女の子、皐月ちゃんは、自己表現が苦手なタイプで、僕もまたそういう感じなので、思っていることが分かるような気がすごくしています。僕は自己表現が苦手なんですけど、そういうことを言うと、僕のお喋りなところを知っている人は、そんなことないだろうと言うこともあり、一方、あんまり喋らないところを見ている人は、そうだろうなと思うかもしれません。

 僕は地の部分は喋りたいことをたくさん抱え込んでいて、お喋りな人間なような気がするんですけど、喋りたいことはあっても全然喋れなくなるときがあるんですよね。それは、コミュニケーションにおいて、場に「正解」が規定されているときです。厳密には、本当に正解を言わないといけないかどうかは関係なく、僕自身がそう感じてしまい自縄自縛に陥ってしまっているときです。

 

 相手が求めている言葉を返さなければならないと思うとき、自分が今から発しようとする言葉が、その流れにおいて正しいかどうかを考えてしまいます。それによってどうしても頭の中で余分な一手が増えてしまいますから、それによって喋るタイミングを逸してしまったりして、上手くいきませんし、上手くいかないことを重ねると喋るのが不得手だなと思ってしまいます。

 文字ならまだいいんですよ。読む相手との間にタイムラグがありますから、十分に検討して返すこともできます。それが即時性を求められる声でのやりとりになるとき、どうしても自分の遅さが気になってしまいます。この少しの重さが会話のテンポを崩しますし、それが円滑なコミュニケーションを阻害します。

 

 実際のラップバトルの映像とかを見ていて想像してしまうのは、僕が同じ場所に立ったとしたら、何も喋れなくて黙りこくってしまうだろうということです。あるいは、喋ることをあらかじめ決めてきたことをなぞるだけになり、無視してしまったり、相手の言ったことに上手く返せず、ぱにくってしまうかもしれません。

 自分が今から発する言葉が正解かどうかを過剰に気にしてしまうために、それを発することができなかったり、それを発したとしても反応を見て、失敗したなと思うと、その巻き返し方が分からなくて困ってしまったり、もはや相手の反応など関係なく喋り続けたりしてしまいます(そして後で襲い来る強い後悔)。

 

 自意識過剰なだけかもしれません。でも、そうだったとしても、それは簡単に直るものじゃないじゃないですか。

 

 キャッチャーインザライムはそういう性質を女の子が、自分も声で言葉を発したいと思うような始まり方をしています。黙っているということは、自分の中の正解よりも、他人の中の正解を優先するということです。また、それらがぶつかることを避けているということです。僕もそんな感じに生きていますから、それだってひとつの選択だろうと自己肯定的に思うんですけど、そう思っているからこそ、つまり、逃げててもそれでいいやという自分と付き合っているからこそ、自分にない部分に対する憧憬もあるわけじゃないですか。そう、言葉のキャッチボールを上手にやれるということにです。

 

 ラップバトルは双方向でこそ生きるものなんじゃないかと思います。なんか偉そうなことを言っていますが、僕はよくわかってないので、よくわかってない僕から見て、ラップバトルに対して憧れを抱く部分がそうだということです。自分が言いたいことを自分勝手に言うだけではダメで、目の前の相手が言うことを汲み、それを踏まえて上回ることに意味があるわけでしょう?違いますか?違ったらごめんなさい。

 

 「何でも2回言ったらウケますよ」

 

 これはあらびき団におけるライト東野の言葉です。同じことを2回言ってスベるネタをやるガリガリガリクソンが、「あれ?吉本の養成所で何でも2回言ったらウケるって習ったのに!」と言ったときにライト東野がしたコメントです。

 そう、何でも2回言えばウケるわけです。僕もそう思います。そういう意味で言えば、韻を踏むということは同じ事を2回言うみたいなことじゃないですか。そして、相手の言ったことを受けて、それを踏まえた言葉を返すのだって2回言うことですよ。ウケたいなら2回言うしかないじゃないですか。それは自分自身とのキャッチボールと、目の前の相手とのキャッチボールの複合技ですよ。上手くやれるなら絶対ウケるやつじゃないですか。僕はそれが上手くできない。上手くできたい。

 

 自分の言葉が正解じゃないんじゃないかという恐怖は、他人とのコミュニケーションに対するモチベーションを阻害する要因です。でも、他人とのやり取りが少ない分、自分とのやり取りは多いはずです。今書いてるこれだってそうで、僕が読んで思ったことをだらりと書きなぐっているわけですが、これは自分と対話をしているわけです。根暗で陰湿な人間であるからこそ、ひとりでいる時間で、人と喋るとき用の話を大量に考えておくことができます。

 そんでもって、このように自分の中で対話を済ませておくことが、僕にとってのコミュニケーションを楽にする方法なんですよ。なぜなら、必要に応じて、既に考えたことのあることを返せるようになるからです。その場その場のインスピレーションで上手く話ができないような人間は、あらかじめ大量に話すことを考えておいて、必要なときにそこに合致するものを引き出してくるしかないと思っていて、そういうことをしています。

 

 キャッチャーインザライムの中でも、韻を踏める言葉を毎日考えている描写がたくさんでてきます。家でも、授業中でも、放課後でも。1巻に収録されているものでは、それを物量で見せられる見開きがあるんですけど、それがめっちゃくちゃいいんですよね。

 その場その場で観念的に反射神経でよい言葉を生み出せる人もいるのかもしれないですけれど、そうでない人だって言葉を発します。それは実は人に聞かせるまでのあいだに無数に一人で繰り返し考え続けていたものかもしれません。とっさにいい返し方ができない人が、無数のパターンをあらかじめ考えておいて、ようやく辿り着ける適切な一言です。

 それだって発するのは怖いわけですよ。だって、実際に発してみるまで、それが適切かどうかなんてわからないじゃないですか。それでも発しようと思ったのがこの物語だと思っていて、そこがとにかくよいなと思うわけなんです。

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 人と喋るとき、自分が正解を喋っているかどうかが気になってしまう人は、人とちょっと喋るだけでほんとしんどい気持ちを抱えてしまい、異様に疲れながら人と接してしまったり、それに疲れ切ってしまってひとりで過ごしたりします。というか僕がそうなりがちって話なんですけど、それでも、人と上手く話したいじゃないですか。自分が喋るだけでなく、相手の喋ることも上手く受け取って、キャッチボールをしたいわけですよ。じゃあそれはどうやったらできるようになるのか??

 わかりません。

 ただ、それは諦めたらゼロになってしまう話だと思うので、そこを繋げようとする漫画の中の皐月ちゃんの姿勢を見て、なんだかすごく勇気づけられるような気分になるんです。