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意見の否定と人格の否定は本当に区別できるのか?関連

 「日本人は意見の否定と人格の否定を混同する」みたいな話をネットでたまに目にするんですけど、それはそうと、意見への反論のために人格だけを否定をする、みたいなのも目にするので、そこは実は繋がっているんじゃないかな?と思いました。

 

 感情的なムカつきは、感情的にしか解決できないのかもな?という想像はあって、誰かにムカついてしまったときに、その人がどれだけ社会的に正しいことを言っていようがムカつくものはムカつくじゃないですか。そこで、「あなたのムカつきには正当性がないのでムカつくのはおかしい」と指摘されたとしても、でも、もうこっちは既にムカついてしまっているわけで、自分のその感情はどう処理すればいいのよ??みたいな感じになります。

 

 まあ、大人なので、そういう気持ちは切り替えて適当に別のことをしているうちに感情が薄くなることも分かっていて、そういうやり過ごしをするわけですが。

 

 僕が感じているところでは、議題に上がっている話についてのみの話をする能力は、訓練をしなければ身につかないもので、実際には誰かが「意見の否定」のつもりで言っていることを、よくよく聞いてみると、その中に「人格の否定」の要素が含まれていることも多々あると感じています。

 具体的に言えば、「全然ダメ、こんなので今までどうやって生きてきたの?」みたいな発言を意見の否定と思い込んで発言する人はいます。

 

 そんな中で「日本人は意見の否定と人格の否定を混同する」という言葉が飛び出すのは、つまりは、自分はアナタに否定的なことを言うが、それはあくまで意見に対するものなのに、人格の否定として受け取り、傷ついたりそれを受け入れなかったりするのは間違っているという文脈だったりするんじゃないでしょうか?

 これはよくある話で、責任の所在を話者が他人に押し付けようとする技術です。要約すれば「俺は悪くない、悪いのはお前」となる言い回しですよ。そこから出てくるのは、だから労力を払うのはお前っていうご意向ですよ。結局そういうことしか言っておらず、議論と名のついた責任の押し付け合いというものが世の中にはよくあります。

 

 さて、ここにあるのは人と人との関係性の話だと思います。人は、人と人との関係性を常に気にしてしまいますし、自分が相手よりも優位な立場にいるかどうかを常に評価し、相手との力関係を有利に動かすためのことを沢山してしまいます。そして、建前としての「人は平等」とか「パワハラはいけない」とか「法を守らなければいけない」とかをクリアするために、適当な小理屈をつけてそれを覆い隠そうとしてしまったりします。

 僕だってそうですよ。他人事ではありません。でも、自分に最後に残った誠実さと思っているのが、それに自覚的であることです。

 

 ねえ人類のみなさん、ムカついてしまったらどうしますか?感情的なムカつきを解消したいと思った時、悲しいことに、相手の感情に対して仕返しをしてやることでざまあみろという気持ちになることを目指してしまったりします。なので、意見のレベルでの理屈なんて通っていなくてもよくて、ただただ相手が嫌な気持ちになればいいと思って、そういうことをするのはその意味で理にかなっているなとも思います。

 例えば、相手が何かの作品を作っている人ならば、そのときは特に関係のない作品をこきおろして見せたり、その親や子を馬鹿にしてみたり、相手が女の人ならば「ブス」と罵ってみたりするような方法が、ここでは選ばれたりします。相手が一番傷つくであろうと想像したことをして、相手が見事傷ついた様子を見れば、それによって人と人との間に存在するパワーバランスに変化が起き、何らか気持ちが解消されるのかもしれません。

 

 人は人を見て、自分より下と思ったり、上と思ったりします。あるいは、ある人に対する評価が、自分の中と外で異なることにも敏感です。自分の中の評価が高いものが、世間で評価が低ければ「もっと評価されるべき」と言い、自分の中で評価の低いものが、世間で評価が高ければ「調子に乗っている」とか言ってしまうわけです。

 自分の中の基準と世間の基準が異なるとき、世間が間違っているので自分に合わせてほしいと思ってしまいます。これは、人間の結構どうしようもない性質なんじゃないかという疑惑があります。

 

 このレベルの話は、気を抜くと人との会話の中ですごく出てきてしまうように思うんですよね。意見の否定だけをしたいときには、そうなり得る要素を注意深く排除しなければなりません。でも、それってメリットあるんですかね?という疑問もあって、本当にしたい話が個別の意見の話ではなく、人と人との関係性の話だったら、意見と人格を混同した方がむしろ目的に合致してしまいます。

 だから、この話はややこしくなるように思います。だって、本当に意見だけの話をしたいのであれば、話者が注意深く意見だけの話になるように労力を支払うのが一番近道だと思うんですが、そうはならないことも多いじゃないですか。実はしたいのは、人と人との関係性の話だったりしませんか?

 

 そもそも、意見の良し悪しというのは価値観を巡る闘争であることも多いです。対立する2つの意見がある場合に、そのどちらを選ぶべきかは、どちらが目的により合致しているかということを根拠にするはずです。ただ、その目的が、最初に前提として共有されていないこともあって、となれば、どの価値観で目的を選ぶべきかという話をしなければなりません。そして、その価値観、人格と結びついてしまっている場合もあるんですよ。

 こんな場合に、意見だけを上手く否定するのは、相手の発言を丁寧に糸をほぐすようにより分けて、必要なものだけを選んで話すというような丁寧な仕事が必要です。

 

 で、それが意外とできてないって話です。

 

 そもそも「日本人は意見の否定をすぐに人格否定と混同するから議論ができない」っていう話自体が、その想定してる日本人に対する人格否定の要素が読み取れますからね。目の前の人がそうなってしまうなら、何がきっかけになっていて、どのようにすればそうならなくて済むのかに対する洞察がなく、ただ、「こいつは意見の否定を人格の否定を混同する議論もできない劣ったやつだ」と言いたいだけじゃないですか。分かっていますよ。僕が今書いているのも同じですよ。同じ、同じ、ぜーんぶ同じですよ。バカバカしい。

 

 そうやって、自分は人格攻撃をしながら、これはあくまで意見の否定であると上っ面だけ塗り固めて、自分は有能でお前は馬鹿だというパワーゲームをしかけて、自分の言うことを聞かないお前は劣ったやつだとのレッテル貼りをし続けることが、一番有効な相手を自分の思い通りに動かす方法だと思い込んでいるんでしょう?

 

 それはもうやめようって話ですよ。そういう願いの話ですよ。それで、じゃあ、どうするんだ?って話じゃないですか。

 

 この話は僕の中でホットなので何度も書く話なんですけど、人間は普通は自分と他人を等価値と思っちゃいないんですよ。それは自尊心の問題もあるので、等価値と思っていたら偉いって話でもないですよ。でも、自分の考えが他人のそれよりも優れていると思ったとき、他人が自分の思う優れた意見に沿わないでいるということに腹が立ってしまったりします。それって傲慢ですよね。

 そういうときに、相手に自分の言うことを聞かせるための強制力を働かせたいと思ってしまうでしょう。そしてそのとき、どのような方法をとるかというところに僕は結構目が行ってしまいます。

 

 これは平和的な方法もあるわけです。代表的なものが「お金を払う」です。私があなたにやってほしいことは、あなたの考えには沿わないかもしれないが、そこはこう、お金を払うので、ちょっとやってくれよ頼むぜってなるのはそんなに悪くはないですよね?あるいは、お互いに持ちつ持たれつで、引くところは引いて、引けないところは引けないでどうにか上手くやっていくのが社会みたいなところがあるわけじゃないですか。

 恐ろしいのは、暴力ですよ。それは、相手に拒否権を与えないやり方で、損得の損を押し付けるようなやり方です。

 

 自分の言うことを聞かなければ殴るなんて直接的なものもあれば、言うことを聞かないとひどいことになるよって脅すなんてのもあります。あるいは、精一杯傷ついて見せて、自分の言うことを聞いてくれないなんてあなたはなんて悪いやつなんだって主張するなんて方法もあります。そして、自分の言うことを聞かないだなんてお前は劣ったやつなんだな?劣ってないと言ってほしければ言うことを聞けよって圧力をかけたりなんかもあるわけです。

 

 最初に挙げた割と平和的なのと比べて、後者は暴力ですが、損得で言うと実は暴力の方が得ですよね?相手に何も支払わなくても自分の言うことを聞かせられるんですから。そういうのが流行っているわけですよ。そんで、僕は他人からそういうことをされるとめちゃくちゃ敏感に、そういうやつじゃん!!って思ってしまうんですよ。

 

 だからも金を払おう、みたいな気持ちになったり、とりあえず与えられるものを与えて、相互に上手くやる関係性を作ろうって話になるわけですよ。そして、その態度は、言うことを聞かすために人格を否定してくる人たちとは相性が悪いので、結局直接戦っても損をするし、距離をね、こう、距離をずずっととっていくわけですよ。

 そうして、僕にはごく少数のお友達と、距離感の遠い他の人たちという関係性が残っているわけですが、そんなだから孤独なんだよって言われたとしても、でも、そうじゃなきゃ辛いんで、仕方ないじゃないですか。

 

 まあ、もう、なんの話だったのか分からなくなってきました。

 

 最近読んだ漫画で、物語上の「正解」を知っているセンセイが、若者たちに問いかけをするという場面があるものがあって、それは物語上の必然として若者たちはまず「不正解」を選ばされるわけですが、その後、お前たちは間違っている、俺が正解を教えてやるみたいな感じに話が進んでいくんですよね。そういうのが何度も繰り返されるわけです。それがもう、ウワーッ自分がされたらめちゃくちゃムカつくやつだな!!って思ったわけなんですけど、なぜなら、最初に正しい自分と間違ったお前らという、俺が上、お前は下という格付けをやってから自分の意見を相手に流し込むタイプのやり方じゃないですか。これ、めちゃくちゃ卑怯ですよね。

 人格否定をまずしてから意見を流し込むタイプのそれですよ。忌避すべきやつじゃないですか。そして、それが物事を主張し、受け入れさせるための効果的な方法となってしまっていることがとても悲しい。これは悲しい話ですよ。

 

 僕の見識としては、意見の否定のために人格を否定しておくのは、相手に自分の主張を受け入れさせるためには効果的な手段なので、カジュアルに人格否定を使って自分の意見を通そうとする暴力的な人が世の中にはいて、そういうのが蔓延していれば、人は相手が人格の否定をしてきていないかに過敏になるじゃないですか。それでも、相手を自分の言うことを聞かせようとするときに出てくる防御を解かせるための言葉が「お前は意見の否定と人格の否定が区別できない」だったりしませんか?それは邪悪なのではないですか?

 だから、意見の否定だけをしたければ、それなりに気を遣って話をする必要があって、でも、それは地道で広がりにくくて、困難なやり方だなと思いますが、でも、自分が嫌なものを嫌と思い続けるためには、自分はそれをやるしかないんだよなーという感じのことを思っています。

 大事なことは大体地味。