漫画皇国

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記録と記憶と人生の一貫性について

 人間が80年生きるとして、生まれてから死ぬまでに音を32kbpsぐらいで残したらどれぐらいになるのかな?と考えてみると、

 32kbps × 60(秒) × 60(分) × 24(時間) × 365(日) × 80(年)= 約10TB

 になります。今は10TBのHDDが5万円ぐらいあれば買えそうなので、意外と量的には簡単に残せるなと思いました。

 

 生まれてから今まで自分が聞いてきた音が全部残っている世界になったとしたら、生活はどうなるでしょう?記録が残っているということは便利な部分もあり、同時に、記録が残ってしまうということの辛い部分もあるんじゃないかなあと思います。

 機械に記録した情報は正確なまま残りますが、人間の記憶は時間の経過とともに劣化するものだと感じています。そして、思い出すたびにその劣化した部分を補うように修正されていき、そのうちテセウス船のように同じ船の形のまま全ての部品が置き換えられてしまうかもしれません。

 いや、テセウスの船の思考実験が想定しているようにその部品が全て正確に置き換えられるのではなく、その場その場の都合に合わせたいい加減な部品で補修され、いつの間にか全く見栄えの違う船になってしまっていることも多いのではないでしょうか?記憶は特にそんなところがあるように感じていて、自分の記憶を他の何らかの記録を照合したとき、全然違うものに変わっていたことが分かるというような経験もしばしばです。

 

 人は忘れることができます。それだけでなく、自分にとって都合がよく過去の記憶を置き換えることもできます。しかもそれは、記憶を置き換えた人自身が意識せぬままに行われることもあるのです。それが人間の良いところであり、悪いところでもあるのではないかと思います。

 

 自動車に搭載するドライブレコーダーは、最近では一般的なものになってきました。それは記録を残すということが重要なことだからでしょう。事故が起こったときに、その事故は何が原因で起こったことなのか。人間による曖昧な語りを元に事実を追い求めることよりも、記録を確認した方が正確で間違いがありません。

 音の記録が残ったとしてもそうではないでしょうか?あの時、誰が何を言ったのか?あるいは、例えば何か機械が故障する前に異音がしていたりはしなかったのか?それらは何かが起こったあとに記憶から引っ張り出して思うよりも、実際の記録を確認した方が間違いのない話でしょう。

 そして、記録が残ってしまうということに対する恐怖もあるのではないでしょうか?なぜなら、一度口から出てしまった言葉は記録に残り、それを消すことはできなくなってしまうかもしれないからです。自分の言葉に後悔することなんてままあるじゃないですか。ウケると思って言ってスベってしまうこともあります。何気なく言ったことが他人を傷つけてしまうこともあります。肝心の場面で全く上手く喋れなくて、いやもっとちゃんと上手く喋れたはずなのに…と頭の中をぐるぐるさせながらトボトボと家に帰ったことも何度もあるわけですよ。それらが全て、正確に記録に残っていることは恐怖です。記録を確認するたびにその体験と向き合わなければならないからです。

 そう考えれば、人は忘れることで前に進めるということもあるのではないでしょうか?忘れられなければ、歩けば歩くほどに体にへばりつくフジツボのような後悔がそのうち歩みを止めてしまうかもしれません。

 

 年齢を重ねれば考え方に変化も生まれます。そんなとき、過去の自分自身ほどに意見の合わない相手もいないでしょう?なぜならその過去は、今の自分がよくないと思って捨て去ったものだったりするからです。今では否定し、捨て去った過去が、記録の中から甦ってずっと自分を追いかけてくるということは生きにくいことなんじゃないかと思います。

 僕が思うに、人生の整合性なんておいそれととれるものではありません。ある立場のときに主張していたことが、別の立場になったときに真逆の主張に変わることだってよくあります。それは整合性がとれないことですが、人間は基本的にそんなもんじゃないですかって思います。そこを無理に整合性をとろうとすればするほど、自分を追い込んでいくはめになったりします。人生をそのように縛りプレイしたいのでないのならば、人間の生き方において整合性はとりにくいものだということを受け入れ、一生を一貫して生きるなんてことを本当にやれる人はごく限られたすごい人だけだと思っておいた方が楽な気がしています。

 

 そして、自分もまたそうであるということは、他人のそういう振る舞いに対しても寛容になりやすいということではないですか?僕はそういう人間関係が楽だと思って生活しています。

 人間の人生がゲームの逆転裁判と同じシステムであったなら、相手の矛盾を追及していればいずれ真実に到達します。しかし、人生はどうやらそうではないのではないのかな?というのが僕の認識で、逆転裁判こそが人生の仕組みだと思い込んだ先にあるのは、矛盾できないがゆえに本来とるべきだった自分が得できる選択肢を封じられてしまう、悲しく辛い人が増える世の中のように思えます。僕はそういうのを悲しいなあと思ったりするんですよ。

 

 記録が残らなければ、知らないふりをできますから、そういうごまかしがやりやすいですね。しかしながら、一方、今はインターネットに無数のログが残っていたりします。ある人が強く主張しているものと大きく矛盾する過去の発言が検索によって掘り出されてしまうかもしれません。自分も同じことをしていたのに、他人が同じことをすると怒るのかよ?という指摘はそこそこ正当だと思いますし、そこそこ正当だからこそ、人の発言を封じるための便利な道具として使われます。

 そういうとき、記録が残っていなければよかったですね。なぜなら、記録が残ってさえいなければ、誰もそれを指摘できないからです。逆転裁判でも証拠がひとつもなければ、それを発言につきつけることはできません。

 

 記録は便利ですが、人間から矛盾を禁じる用途に使われがちで、窮屈でもあるんじゃないかと思います。そしてまた、記録が残ることで、自分の過去発言の統計もとれるかもしれません。つまり、自分が同じ話を何度しているのか?ということで、そして、もしかすると話すたびに細かい部分の言い方が変わってたりするのも可視化されてしまいます。

 これは音声が残れば、すべて正確に記録され数え上げられてしまうものです。厄介ですね。しかし、今既に文字情報でも個人的に可視化されてつつあって、弱った気持ちになったりします。

 

 例えば、Twitterです。僕は10年ぐらいやっている気がしますが、自分の人生で他人に話しても大丈夫なエピソードって増える量より、話す量の方が早い気がするので、一度も話したことのない話の量ってだんだん減ってくるのではないかと思います。となると、同じ話を何度もしてしまうわけですよ。自分の発言を特定のキーワードで検索すると、自分が定期的に同じ話を何度もしているのが目に入ります。そういうとき、この人は既にボケているのでは?と感じたりします。

 おかげで、最近ではもう一度書かずに、過去の発言を自分でRTして再掲するみたいなことをしたりもします。これが極まってくれば、人生において言うべきことは全て過去に発言済みで、それを再掲だけすればあらゆるコミュニケーションが終わってしまう可能性がありますね。人生が完成してしまいます。

 

 あらゆる音声が記録に残っていれば、一度言われたことは二度言ってもらう必要はありません。なぜなら、記録を聞き返せばいいのだから。でも、二度言いたいんですよね~。自分の好きな話は三回も四回も、無限にしたいみたいな気持ちがあり、ああ、こいつ同じ話をその自覚もなく何度もしまくってるな!という残念な気持ちになりつつも、でも、したかったんだよね~わかるわかるよって自分に思うわけですよ。

 この矛盾を避けるためには、記録は残っているわけですが、別の過去を振り返って検索とかしなければいいなって思うんですけど、つまり、あらゆる記録が残っていたとしても、結局そういうところに収束していくのかもしれませんね。何か特殊な目的があるときでない限り、過去の記録を全部振り替えるほど人生はあまり長くないのではないかということです。

 

 そういえば、僕はインターネットで自分の喋った音声を配信するという遊びを続けているので、過去11年分ぐらいの自分が喋った音声が残っているという特殊な状況です。この期間は僕の人生の三分の一近い長さわけです。でも、これはもう聞き返す気持ちが本当にないです。分量としては数百時間分はあると思うので、下手すると寝ずに聞き返しても一ヶ月とかかかる量なわけですが、そんな時間が人生にありますか?そして、前述のように過去の自分の発言なんて、下手すると最も嫌なものだったりするわけですよ。そんな記録が残ってしまっています。

 多分昔の自分は今の感覚で考えたら良くないこともたくさん言っているんだろうなあという気もするんですけど、幸い音声は検索対象にまだあまりなっていないので助かっているという気持ちがあり、僕が何かを発言するたびに、矛盾する音声を検索して抜き出してつきつけられたら、きっと完全に負けてしまいます。

 

 ああ、人生が逆転裁判ではなくてよかった(ゲームとしてはめちゃ好きですが)。

 

 さて、インターネットでは、ときおり上述の僕の音声を全部聞ききったという人と出会うことがあり、量を考えると結構びっくりしてしまうという気持ちと、たぶん初対面だが既に色々知られてしまっているというもう隠し事のしようがないという感じが生まれてしまい、なんか不思議な気持ちになるんですよね。

 でも、ありがたいというか、それを全部聞ききれた時点で、かなり僕という問題をたくさん抱えた人間を受け入れられる素養があるので、稀有だし、仲良くしてもらいたいというような気持ちも生まれますね。

 

 こういう経験を通じて、もし、あらゆる人が、自分の人生の記録を残すような世の中になったとしたら、自分が大切に思った人との思い出の記録の交換などをするのかもしれないなと思いました。相手がどんな音の中で生きてきたのかの追体験です。

 何も隠し事をせずそれを実際にできるのだとしたら、そこに全てを見せ合える、見せ合っても問題がないというような健全性があるような気がしていて、そして一方、そのため過去に不健全であったということが許されないのでは?記録さえ残っていなければ適当にごまかして上手い具合に隠蔽しているはずのものを、隠す余地がなくなるのでは?という恐ろしさも同時に感じてしまいます。

 それは良いことなんでしょうか?とはいえ、おそらく世の中は沢山の記録を残すように動いていくような気がします。最近流行りのAIスピーカーも、以前なら家庭の中で閉じて消えていたはずの音を、少なくとも遠くのサーバまで届けているわけじゃないですか。

 

 インターネットに情報を載せることで、皆さんの多くも何かしら情報を残してしまっているでしょう?その辺どう感じているでしょうか?