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「君たちはどう生きるか」を観た関連

 アニメ映画「君たちはどう生きるか」を公開当日に観ました。

 どんな映画であるかが隠されていた状態で観たため、作中のリアリティラインも分かりませんし、何がこの先起こるのかも分からないままでドキドキしながら観ました。面白かったです。そして、観てよかったです。

 

 観終わって思ったこの映画が何の映画であるかと思ったかというと、人生と、そして人間社会の映画だなと思いました。最後に大叔父は、主人公である眞人くんに、13個の綺麗な積み木を託そうとします。しかし、眞人くんはその綺麗な積み木を積む役割を拒否します。「自分は悪意を持っているから」と。

 

 そこを観ながら思ったのは、汚い大人と綺麗な子供、汚い社会と綺麗な個人のような対比は、まやかしだろうということで、大人が子供に対して、勝手に無垢を期待して何かを託すのではなく、誰だって汚い悪意を持っているが、それでもそのまま生きて行くことを選択することが人生だということじゃないかと思いました。

 というか、それは僕が思っていることを映画の中に見出しただけだなとも思います。

 

 あとから思ったのは、これは漫画版の「風の谷のナウシカ」のラストと同じことかもしれないなということです。瘴気で汚れた世界を生きるための存在であったナウシカたちは、浄化された正常な世界で生きる新人類の未来を拒絶し、生命というものは「闇の中でまたたく光」だと表現します。

 誰かが与えてくれる正常で清浄な理想郷などまやかしで、たとえ汚れていたとしても、そこに苦しみや悲しみがあったとしても、今の自分が今の世界を生きて行くということを選び取ったのがナウシカで、そして眞人くんなのかなと思いました。

 

 眞人くんは旅先から積み木をひとつ持ち帰ります。彼は美しい積み木を積むことは拒否しましたが、そこから持ち帰ったものがあり、何かを受け継ぎながらその先を生きて行くということが良い話だなと思いました。

 

 映画を見て30分後にはWebラジオ人生思考囲いの収録があり、そこで中野でいちさんとあらばきさんと映画どうだった?という話をしたのですが、そこで中野さんが「これはフィクションと人の関係性の映画」だと話をしていたのを聞いて、ああそう観れるなと思いました。

 フィクションの中にあるのは、現実のなんらかの写像です。そしてそこでは現実から写し取る際に綺麗なものだけを抽出して理想的な世界を組み上げることもできます。また、フィクションは時代を超えます。塔の中に入る前に眞人くんはお母さんから贈られた「君たちはどう生きるか」という本を読みます。そして塔の中には、子供の頃のお母さんがいます。

 それはつまり、フィクションというものが時代を超えて人と人を繋ぐ存在だということを象徴しているように思えます。お母さんは眞人くんに「君たちはどう生きるか」という本を贈りました。それはもしかすると、お母さんが子供の頃に同じ本を読んだからかもしれません。だとすれば、その本を読んだお母さんが子供の姿で出てくることは必然で、本を通して、子供の頃の眞人くんとお母さんは同じ場所に立つことができます。

 

 人はフィクションを求めますが、フィクションは経由地であって目的地ではありません。誰しもがフィクションの外で、自分の人生を生きることからは逃れられないからです。そこを訪れた人たちはそのうち去り、また戻ってきてもいつかは去り、自分の人生を生きる中で、かつて耽溺したフィクションのことなんて忘れてしまうかもしれません。

 しかし、欠片は残っているはずです。それが積み木で、積み木と呼ばれつつも木で作られてすらいない偽物だとしても、それを人生に持ち帰ることができます。人によっては、自身も創作者として自分なりの積み木を見つけてそこに加え、積んだりするのでしょう。

 

 この物語の大きな筋はシンプルかつ王道的なものです。母の死を受け止めきれず、それゆえに新しい母との生活も受け入れられず、父親は優しく、ただしこちらのことを考えてくれはするものの上手く理解はしてくれず、現実と上手く折り合いをつけられなかった少年が、自分の人生を生きることを選択する物語です。

 これまでの宮崎アニメにはあまり出てこなかった内向的で抱え込むタイプの眞人くんは、その鬱屈を外に出すことも上手くできませんでしたが、塔の中の世界に入って出てきたことで少し変わります。

 

 その変化の大きな部分は、新しい母親との関係性を受け入れたことでしょう。眞人くんと上手くやろうとしていた新しい母親のことを彼はやんわりと拒否していました。自分の母の妹であり、母親とそっくりの存在である新しい母親の存在は、母親の存在を忘れさせてしまうものとしての拒否感もあったのかもしれません。

 塔の中の奥底で、ようやく見つけた新しい母親のことを、彼は彼女を「お母さん」と呼びます。それは彼が発揮した社会性であるように思いました。そうすることが必要だと思ったということです。その前段として、新しい母親は眞人くんのことを拒絶する言葉を発します。塔の外では決して口にしなかったその言葉には、彼女の本音もあったように思いました。互いに心の底から求め合っているわけではないということです。それでも互いに上手くやっていこうという態度に至り、それが、この社会を生きて行くことではないかと思いました。

 綺麗なことばかりではないけれど、この世界を生きていくということは、世界が綺麗ではないと拒絶するのではなく、その中での営みを前向きにやっていくことだと思っている自分の気持ちと重なったということです。

 

 塔の中というフィクションの世界を通じて、人と人が時間を超えて繋がり、決して本物ではないその世界の中で得た経験を通じて、人が自分の人生を、たとえそれが綺麗なものばかりではなくとも生きていくということ、そういう気分を感じたことが、自分にとてもマッチしていたので、良い映画だったなと思いました。

 

 余談ですが、この映画はエヴァンゲリオンに対する返歌と捉えることもできるかと思いました。

 自分に対する理解の不足する父親と、失われてしまった母親という状況の中で、父親の愛情が向けられる母親そっくりのしかし決して母親そのものではない存在がいて、その中で内向的な少年が生き方を上手くつかめずに思い悩むという構図はエヴァンゲリオンと重ねることができます。そして、かつて宇宙から飛来した何かによって引き起こされた現象の中で、やがで少年は自分の生き方を掴んでいきます。

 

 外の世界に自分を上手く合わせることができず、内に入り込んでしまうような少年と、その外の世界の間に存在する不和に目を向け、その折り合いをつけていく物語として捉えたとき、その仲立ちをする存在としてフィクションがあるということは僕自身の経験と一致することがあります。

 そう考えると「君たちはどう生きるか?」と「君たち」には自分が入っているような感じがしてきました。

 

 僕はあまり生きることが得意ではありませんでした。だから自分の人生よりもフィクションに耽溺して目を逸らすことでやり過ごしてきたような少年時代を過ごしました。でも、今はそれなりに自分の人生をやっています。フィクションがあって良かったと思っていますし、今はフィクションを作る仕事も少ししています。

 僕は今こんな感じに生きているなと思いました。