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「児玉まりあ文学集成」について

 コミティア123で三島芳治さんの「児玉まりあ文学集成」という本を入手したのですが、めちゃくちゃ良かったので、読んだあとスペースに再度来訪し、他の既刊も全部ゲットしてきました。全部で7冊入手しましたが、全部よかったです。

 

 「児玉まりあ文学集成」はたった2人の文学部のお話です。より正確には、たったひとりの部員である児玉まりあさんと、入部希望者である笛田くんの2人のやりとりで物語が進行します。

 物語の冒頭、児玉さんは「木星のような葉っぱね」と、何の変哲もない葉っぱを木星に喩えました。その喩えの意味を笛田くんが問うと「意味はなかった。でも今私が喩えたから、この宇宙に今まで存在しなかった葉っぱと木星の間の関係が生まれたの。これが文学よ」と答えるのです。

 

 この台詞がばばーんと心に響いて、一気にのめり込んでしまいました。

 

 現実には存在し得ない関係性を、文学は生み出すことができます。それは言葉の上のことだけかもしれませんが、人間の心は認識はそのような言葉に影響を受けてしまうじゃあないですか。例えば人間の愛を物理現象として計測することは困難ですが、人は愛を認識し、愛を語ることができます。これも文学なのではないでしょうか?言葉が関係性を作り出し、認識し、語ることは、人間の営みにおいて重要な位置を占めていることなのではないかと思います。

 

 喩えるということにはとても強い力があります。何を何に喩えるかによって、仮に無からでも関係性を創出することができるからです。それによって、あるものに何かしらの認識を付与することが可能になります。でもだからこそ、何かを何かに喩えるということには、注意深さが必要なのでしょう。なぜなら、大いなる力を振るうことには、大いなる責任が伴うからです。

 

 児玉さんは笛田くんに「喩え」に関する例示とレクチャーをし、最後に文学部への入部試験としてあるものを喩えさせようとします。それはつまり、その対象と別の何かの間に関係性を生み出させるということです。そして同時に、それを喩えて生み出そうとする笛田くんとその対象の関係性を認識することでもあるのではないでしょうか?

 喩えることは愛情の表明にもなれば、強烈な呪いにもなり得ます。人が何かを何かに喩えるということ、そこにはその人間における人間の部分が表れてしまうのかもしれません。

 

 また、「児玉ありあ文学集成」は2冊あり、もう一方の方でも笛田くんと児玉さんの別のお話が書かれています。そこでは、児玉さんの姿は、実は目の悪い笛田くんが想像したものであるということが語られています。ロングヘアーの美少女の姿は児玉さんの客観的な姿そのものではなく、目が悪く児玉さんの姿をよく見ることができない笛田くんの心が投影された形であることが分かります。

 つまり、笛田くんが児玉さんを綺麗に見るということは、笛田くんが児玉さんを綺麗と思っているということの表明であり、その美しさの源泉は笛田くん自身の心であるということが分かるわけです。

 それは、他人を自分に都合がよく見るという身勝手な行為でもあると言えるかもしれません。でも、世界を美しく見る能力というものには、現実に囚われ過ぎないということも大切なのではないでしょうか?笛田くんは現実をくっきりと見ることができないがゆえにそこにはないものを生み出す文学的な素養を持ち得るのかもしれません。

 

 三島芳治さんの漫画は人間の思う力と現実の関係性における繊細な繋がりが強く描かれているように思えて、例えば「原子爆弾ノーツ」では、架空の世界における原子爆弾の誕生の秘密が描かれています。それは、原子爆弾が実際に生まれるよりずっと前に、スイスに原子爆弾という存在を想像した少女がいたというお話です。何かが世の中に生まれる前には、その前にそれを想像した人がいるということ、それ自体には、科学的に因果関係を見いだすことが困難でしょう。しかしながら、この本の中ではそれが事実として語られます。つまり、これもきっと文学だということです。

 

 文学によって、なかったはずのものがあるようになりました。

 

 僕も人の認識やそれを他人に伝わる形に表現する言葉に力はあると感じて生きています。しかし、その力は人間の認識の範囲に影響を及ぼす力でしかなく、直接その外の世界に影響を与えられるものではないとも感じてしまっています。いかに強く思い、願ったとしても、それをどれだけ言葉にしたとしても、無力であることも多いじゃないですか。思いによって人間の肉体からは無限の力は湧き出てはきません。どんなに強い願いも、綿ぼこりひとつ舞い上げることもできません。それは息を軽く吹けばくるくると飛んでいくようなものなのに。

 物語の中で量子力学が取り上げられやすいことは、人間が認識するということそのものが物質に影響するということを描くきっかけになりやすいからではないでしょうか?他にも例えば、赤ちゃんの手に、熱した火箸と思い込ませた鉄の棒を押し付けると、火ぶくれのようなものが浮き上がったという話が漫画などの中でよく引用されています。僕は明治期のオカルト本でもこのエピソードを読んだことがあり、つまりこれは百年使われているお話なのです。これも「思う」ということが「現実に影響を与える」という内容だからではないでしょうか?

 人間の精神は、とてつもない力を秘めているのに、それが現実に影響を及ぼさないなんて我慢がならないと感じる人間の思いが、それらを物語の中に取り込み、そこには科学的には証明されていない部類の関係性を生み出していきます。

 物語が現実に負けてなるものかという感じです。

 

 はじめに言葉ありきだそうです。人間の見る世界は、もしかすると素の世界そのものではなく、何らかの文学を通した世界かもしれません。であるならば、言葉の在り方は人間の営みと密接に関わります。文学を読むということは、そのような誰かが作った人間の営みを、自分の頭の中で再生するであるとも言えるかもしれません。

 というか、僕が言いたいことは、この本を読んで、自分の頭の中でそれを再生させてみてくださいよということで、とにかくそれが心地よく感じるということです。

 

 ここでゲットできます(児玉まりあ文学集成は2つありますが、最初に取り上げたのは2の方です)。

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