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ジョジョの一巡前後の世界の共通点から考える運命の奴隷関連

 「ジョジョの奇妙な冒険」は第六部にて一度世界の終焉を迎えます。

 その後に始まった第七部は世界が一巡した別の歴史となりました。ジョジョの奇妙な冒険は名前にジョジョ という言葉が入った血統の人間を各部の主人公とした物語です。第六部の最後、空条徐倫はアイリーンという名前に変わり、ジョジョという名前の呪縛から解放され、ひとつの終焉を迎えたようにも思えました。

 しかしながら、第七部スティールボールランには、やはりジョジョという名前を持った男が登場します。時代は遡り、1890年、彼の名はジョナサン・ジョースター(通称ジョニィ)、第一部の主人公と同じ名前を持った男です。ジョニィは、第一部のジョナサンと顔も違えば性格も違い、生まれた国も違います。これは一巡する前の世界と似た部分はあるものの、全く新しい世界であると言われます。

 

 しかしながら、第一部と第七部には以下のような共通点があります。

  • 主人公の名前がジョナサン・ジョースター
  • 主人公に戦う技術を教えるツェペリという男が登場
  • 敵としてディエゴ・ブランドー(通称ディオ)が登場
  • ツェペリはジョナサン(ジョニィ)に力を託して死亡
  • 最後はジョナサン(ジョニィ)とディオ(ディエゴ)の戦い
  • エンディングでは船に乗って旅立つ

 歴史が変わったように見えて、多くの共通点が残っていることは意図的でしょう。ただし、ジョナサン(ジョニィ)とディオ(ディエゴ)の戦いについては大きな相違点もまたあります。

  • 第一部ではジョナサンが勝利、第七部ではディオが勝利
  • 第一部ではジョナサンは死ぬ、第七部ではディオが死ぬ
  • 第一部ではディオは首だけで生き残る、第七部ではディオの首が消失して死ぬ

 つまり、起こったのは真逆の結末です。

 

 この結果、ジョジョ の第三部にはジョナサンの首から下を奪ったディオが登場しますが、第八部以降にはディオが登場することはできないのではないかと思います。

 このように、一巡した世界では、前の世界との共通点を残しつつも異なる結果が生まれ、蝶の羽ばたきがいつか地球の裏側で竜巻を起こすように、世界が書き換わっていきます。

 

 第八部ジョジョリオンでは、そんな変わってしまった後の世界が描かれます。

 

 ジョジョリオンの主人公、東方定助はジョースターの血統を受け継ぐ痣を持つものの記憶を失った謎の男です。名前も引き取られた先でつけられたものでした。しかし、彼には重大な秘密があることが後にわかります。それは壁の目という特殊な土地の力と、ロカカカという特殊な果実の力によって、2人の人間が体の一部を等価交換することで生まれた人間であったということです。

 その2人とは、空条仗世文と吉良吉影です。

 

 空条仗世文の出自については、謎が残っています。作並カレラが見せた過去の写真には、ジョースター家の血筋を示す星形の痣がありますが、彼がジョースター家とどのような関係にあるのかは分かっていません。彼の名字が空条であることから、一巡前の世界では空条承太郎の父親となった血筋と関係があるのだと思います。

 

 吉良吉影は、第四部のラスボスであった男です。しかし、第八部ではジョースター家の血筋になりました。ジョニィ・ジョースターアメリカで行われたスティールボールランのレースで東方憲助と出会い、その娘の理那と結婚します。ちなみに、理那の名前は第一部でジョナサン・ジョースターと結婚したエリナ・ペンドルトンと共通点があります。

 ジョニィと理那の間には前の歴史と同じように息子のジョージが生まれ、ジョージのジョセフ、ジョセフの子はホリー(ホリィ)・ジョースターです。ここまでは前の歴史と同じですが、ホリーが結婚したのは空条貞夫ではなく、吉良吉輝、その子が吉良吉影です。

 つまり、第三部で空条承太郎がいたポジションにいるのが吉良吉影ということになります。ちなみに吉良吉影には虹村京と名乗る妹がいて、その帽子から空条承太郎の要素を見てとることもできます。かつての歴史の中にいた空条承太郎という男の要素は、変化した歴史の中で拡散し、その要素を受け継ぐ空条仗世文、吉良吉影、虹村京の3人に分散したと考えることもできます。

 

 そして、その中の2人が融合することになったのが東方定助ということになります。

 

 第八部の主人公である東方定助は、第四部の主人公である東方仗助と同じ発音の名前を持ち、吉良吉影を経由することで東方の血とジョースターの血を同じように受け継いでいます。そして、第三部の主人公である空条承太郎と同じ、空条の血も受け継いでいるのです。

 また、仗世文の名前からは第二部の主人公であるジョセフ・ジョースターとの関連を見てとることができます。ただし、ジョセフはジョセフで存在しているので、あくまで名前だけですが。

 第八部における第二部との共通点で言うなら、岩人間の存在でしょう。彼らは体を岩に変える人間とは異なった種族です。これは第二部に登場した柱の男たちに類似しています。第八部のジョセフがどのような人間であったのかは語られていないので不明ですが、前の歴史ではジョセフが担っていた役割を、仗世文を経由して定助が担っていると考えることができます。ここでは「エイジャの赤石(第二部)」と「ロカカカ(第八部)」を巡る戦いという物語構造的な類似もあります。

 エイジャの赤石は石仮面と組み合わせることで、柱の男を究極生命体へと押し上げる力を発揮しました。ロカカカは生命に等価交換をもたらし、何かを修復する代わりに何かを代償として破壊する不思議な果実です。ロカカカと壁の目という物の中身を入れ替えてしまうという不思議な場所との組み合わせは、死にかけていた空条仗世文と吉良吉影を、東方定助として生まれ変わらせました。

 つまり、「エイジャの赤石」と「石仮面」の組み合わせを、「ロカカカ」と「壁の目」の組み合わせに読み替えて理解することもできるかもしれません。第二部ではその組み合わせが究極生命体を生み出すところがラストですが、第八部ではその組み合わせが東方定助を生み出すところが始まりになります。

 

 ここで、2人の人間が1人になるということは、ジョジョの奇妙な冒険シリーズでは既に一回あったことであることにも気づくことができます。つまり、ジョナサンとディオです。

 首だけとなった吸血鬼のディオは、ジョナサンの首からしたを奪い生き延びました。第三部で登場するディオは、ジョナサンとディオが融合した姿なのです。そして、ジョナサンとディオが首を切断線とした横の融合なら、東方定助の融合方法は縦です。よく見れば目や舌、歯の隙間などから、彼が真っ二つに分かれた2人が組みあわされたことが分かります。睾丸は4つあります。

 第七部でのディエゴ(ディオ)は死んでしまい、ジョニィ(ジョナサン)との融合は起こりえませんでしたが、その歪みを埋めるような存在として東方定助が登場していると考えることはできないでしょうか?

 

 このような一巡前の歴史と、一巡後の歴史の整合性を巡る綱引きのような動きは、そこかしこに見つけることができます。ジョニィは第一部の歴史とは異なり生き延びましたが、第八部ではその後のジョニィの死が描かれます。それは妻と子を助けるための自己犠牲であり、首から上を失うことで決着がつきます。第八部におけるジョニィの死に様は、結局のところ第一部のジョナサンと酷似するものとなってしまいました。

 

 もしかするとジョジョの歴史にはホメオスタシス(恒常性)のようなものが存在するのかもしれません。ホメオスタシスは内部を一定に保とうとする力です。これはゴーストスイーパー美神にも登場した考え方ですが、過去を改変し、歴史を変えようとしても、なんらかの力によって歴史が元あったものに復元しようとし、修正するような力です。そう考えると、第七部以降のジョジョ は血統ではなく歴史を巡る物語と考えることもできます。

 

 一巡後の世界は、第一部の歴史を第七部に書き換えました。そして第八部は、第二部から第四部を書き換えたものだと考えられるのではないかと思います。なぜならば、東方定助は第二部から第四部の各主人公が抱えていたものを全て取り込んでいると捉えることができるからです。

 第一部と第七部の共通点を踏まえると、第八部の結末も、第二部から第四部で起こったことに共通点のある結末になるのかもしれません。第二部では究極生命体は宇宙に追放され、第三部では空条承太郎が仇敵ディオを倒し、第四部では杜王町という街が殺人鬼の吉良吉影が倒すという結末でした。

 そう考えると、ジョセフ・ジョースター空条承太郎東方仗助の3人が東方定助に集約されていると同時に、前述のように敵側であった究極生命体とディオと吉良吉影の3人もまた東方定助であると捉えることができるんですよね。つまり、その結末では、東方定助の生と死が同じように重なり合った状態にあるように思えます。何も分かりません。何も分からないということだけが分かります(こんだけ書いておいてその結論はどうなのか…)。

 

 第七部の大統領のスタンド能力であるD4Cは並行世界を渡る能力でした。この能力が存在したことが、第三部のときとは異なる能力を身につけていたディエゴを、第三部と同じザ・ワールドを身につけた並行世界のディエゴと入れ替えて、最後の結末に向かううねりと化していきます。

 つまり、D4Cの能力は単純なひとりの人間の能力ではなく、第七部の世界の存在そのものと密接に関係しているように思えました。

 

 一方、第八部は今終盤だと思うのですが、今定助たちが対峙しているのは「因果応報」の能力です。敵に近づこうとすること、それが物理的な意味でも情報的な意味でも、それを脅かす可能性がある近づく行為に対して、突き放すように応報的な何かがぶつかって来るような能力であると推察されます。ちなみに、これは第四部で吉良吉影が使ったバイツァダストの能力とも似ています。バイツァダストは、吉良吉影について知ろうとする者を爆発させ、時間を巻き戻すという吉良を脅かすことのない、安心を提供する能力でした。

 この能力もまた、この第八部の世界を象徴する能力であるのかもしれません。

 

 因果応報、等価交換、保存則、このようなゼロサム的な考え方が第八部には満ちています。無から有は生まれず。何かを手にするには何かの代償が必要です。

 聖なる遺体の力で不幸を誰かに押し付けようとしたジョニィは、それが別の大切な何かに不幸をもたらすことを理解し、自身がその不幸を受け止めて死にました。ロカカカは何かを治すために、何かの代償を要求します。そういえば、そこには無条件に他人を治すことができる、仗助のクレイジーダイヤモンドの能力との対比も見てとることができるかもしれません。

 これはジョジョの歴史そのものにも適用できるかもしれません。何かを変えようとしても、そこには必ず反動があり、変わらない運命が存在してしまうということです。これは第五部でも眠れる奴隷として描かれた概念です。

 「運命というものが戦うことで変えられてしまう程度のものならば、そんなものは運命と呼べるほどではないものかもしれない」という考え方です。運命は変えられない。自分たちは運命の奴隷かもしれない。それでも、目覚めることで何かを切り拓いていける眠れる奴隷であるということです。

 

 第六部でプッチ神父は、全ての人々に自分たちが運命の奴隷であることを理解させようとしました。運命を受け入れ、それを覚悟するからこそ、人は幸福に生きていけるのだと。この考え方が最初僕はイマイチ分からなかったのですが、それを「物語の再読」として考えれば実感をベースに理解できるという考えに至りました。

 一度読んで面白かった物語を二度目以降読むとき、初読時のドキドキやハラハラはありませんが、安心して読むことができます。面白い場面では、予め面白がる準備をして、全力でそれを面白がることができます。辛い場面では、予め受け止める準備をして、耐えることができるようになります。物語は、おっかなびっくりの初読時の面白さの先に、全力で受け止めにいきやすい再読時の面白さがあります。プッチ神父の考えはこれに近いのだなと思って、実感を伴った受け止め方ができるようになりました(これも再読の結果思ったことです)。

 

 変えようとしたものが変わらない、なぜならば、この世に存在するものには運命があるからです。第八部の物語では、その変えようとする行為そのものに代償が求められたり、反発の力が発生したりしています。作品全体に流れている運命の捉え方からすると、結局のところ今回も大きな流れは変えられないのかもしれません。

 しかし、どのように目覚め切り開くのか?そこにこそ生きる意味が生まれるのではないかと思います。第七部においては、ジョナサンとディオの関係も、大きな流れは変わらなかったかもしれませんが、変わったこともあります。また、ジョジョリオンの最新23巻では、定助はホリーに対して、時代と場所が違っても自分はあなたの息子であると言いました。変わらないことの強さもあるということです。

 

 この物語を繰り返しとして考えるならば、次の第九部、あるいはその次の第十部は、第五部と第六部の時代の語り直しとなるはずです。そしてそれは、プッチ神父の生み出した特異点に再び到達する可能性があるのではないでしょうか?

 

 第五部の主人公であるジョルノ・ジョバーナはディオの息子でした。ジョナサンの首から下を持ったディオの息子ということは、ジョナサンの息子でもあります。そして、東方定助は吉良吉影と空条仗世文が融合したことで、4つの睾丸を持つ男です。

 となれば、第九部の主人公は一巡後の世界のジョルノで、吉良吉影と空条仗世文の2人を引き継いだ東方定助の子になるのかもしれませんね。そこには空条承太郎の子であり、第六部の主人公である空条徐倫の要素も入ることになります。

 

 ジョジョの奇妙な冒険の根底に流れている「運命」という概念の捉え方について、第六部の最後、そして、一巡後の第七部以降はより物語の中に取り込まれ自覚的に語られるようになっているのではないかと思います。

 我々は既にその結末を知っているのかもしれません。そして、結末は変わらないものなのかもしれません。しかし、我々が眠れる読者であることを祈りましょう。目覚めることで何か意味あるものを読むことができる眠れる読者であることを。