漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

petからイムリ、そしてfishへの流れ関連

 三宅乱丈先生の「fish」が今月発売の6巻で完結しました。本作は「pet」の続編で、petは20年ぐらい前にスピリッツで連載していた漫画です。petはその後、ファミ通コミッククリア(Web媒体)での追加エピソードの掲載を経てコミックビームのレーベルからリマスターエディションが発売されました。リマスターエディションのあとがきで書かれていたのは、petは3部作の構成で、その2部に当たるという話です。第一部はpetの中に一部エピソードが組み込まれ、そしてその先の構想があったということでした。

 

 その後しばらくして、謎のタイミングでpetのアニメ化があり、その最終回で続編「fish」の開始がアナウンスされます。つまり20年待った万感の最終回で、いろいろな気持ちが溢れました。謎のタイミングでアニメ化されたのは、この傑作漫画をいつかアニメ化してやろうという思いを抱えていた人たちがいたということだと思います。その気持ちに間違いはありません!!

 

 さて、petからfishに至る途中には、コミックビームでのイムリの連載があります。僕はイムリが始まったとき、petで描き残した部分をこのお話の中でやるのかなと思ったところがあって、なぜならpetとイムリ異なる舞台で描かれる漫画であるものの、物語の構造の中には多くの共通点があったからです。

 

 petは、強い精神感応能力を持った人々を中心とした物語です。彼らはその能力により、他人の思考が頭の中に流れ込んで来てしまうため、自分の思考と他人の思考を区別できず、記憶も入り交ざり、自我を確立することができません。しかし、そんな能力者の中に林という男がいました。彼はそんな能力を持ちながらも独自の手法で自分の記憶を整理し、他人と自分の区別をつけ、自我を獲得したのです。

 その方法とは、自分のとって一番大切な記憶をヤマと呼んで確保し、その記憶の周辺を自分にとって忌避すべき記憶をタニと読んで囲むことで、不可侵の領域を作るという区別の方法です。

 彼は自分と同じ境遇の子たちにヤマを分け与えながら、記憶を整理する方法を教え、自我のある人間としての生活をできるようにしてあげます。彼らは自我を抱えながらも他人の記憶にアクセスする能力を持つため、記憶を改ざんする能力者として悪い会社の中で生きることになります。普通の人間ならば太刀打ちできない能力を持つ彼らはペットと呼ばれ、能力を持たない人々の策略によって不自由に生きています。

 

 一方、イムリは侵犯術という他人の自我をコントロールする術を使う者たちを中心とした物語です。この物語はカーマとイコル、そしてイムリという3つの種族の戦争のお話で、カーマはイコルを侵犯術によって奴隷化して使役しています。彼らはかつてイムリとの間で大きな戦争を起こしました。カーマはその科学力と侵犯術を駆使し、栄華を誇っています。主人公のデュルクはそんなカーマの中で生まれ育ったイムリです。デュルクは自分がイムリであることを知りませんでした。

 

 petとイムリは、ともに他人の精神を支配することができる能力を持つ人々を中心とした物語です。しかしながら、強大な能力を持つはずの人々が、能力としては劣る人々によっていいようにやられて生きています。そこで利用されたのはペット同士、イムリ同士の信頼関係で、彼らは何らかを人質にとられたことにより、自分たちが思う通りに生きることができません。

 そして彼らを支配している会社やカーマには恐怖があります。自分たちが敵わない存在への恐怖です。会社の中心人物である社長と、カーマの中核を担う術師のデュガロには、それぞれ傷ついた過去があり、それゆえに支配する側に立つことへの執着があります。

 

 この、恐怖を背後に、持たざる者が持つものを支配することで安心を得ようとする構造が、petとイムリに共通する要素です。そこには人の心を支配するための手段があり、そして、がんじがらめになった中で生きる道を見出そうとする人々がいます。

 

 ペットやイムリを支配しようとする人々が求めているのは安心です。つまり、他人を信用することができないという気持ちがそこにあります。侵犯術により本音を喋らせたり、記憶を改ざんすることで自分を裏切らないようにしたてた人間、あるいは血のつながった身内以外をそばにおくことができません。

 

 ここから見出せるのは、「なぜ人と人は手を取り合うことができないのか?」という課題でしょう。そうなってしまう理由としては、人の心にかつて裏切られたという傷が存在するからです。その傷が深い者が、人を信頼するのではなく支配するための仕組みを作り、維持しています。

 

 ペットはそこから逃げ出すことができた人たちの物語です。そして、向こうに残してきてしまった人たちへの強い気持ちが描かれたところまでで物語の幕を閉じます。そして、イムリではその先、分かり合うことが難しい人々の戦争の中で、巻き起こる衝突と悲劇、その中で相手を殺したり支配したりする以外の選択肢がないのか?ということが丁寧に描かれます。それは争いの物語であり、差別を巡る物語です。世の中に、争いも差別もある以上、それを簡単に解決するようなお話にはなりません。もし、この争いの先に希望があるのならば、それはどの道の先にあるのか?が描かれます。それは希望の物語です。

 

 さて、僕はイムリを読みながら、petのその先が描かれたなと思いました。であるならば、その続編のfishではそれ以外の何が描かれるのか?ということを考えることになります。

 

 fishの最終巻を読んで僕が思ったのは、再生の物語です。奪われたものがあり傷ついた人がいる世界の中で、欠けたものを抱えた人たちが、生きることを選ぶ物語です。物語の中ではジンの姿がじっくりと描かれます。

 彼女は社長の肉親という敵の立場でありながらpetの物語の中で、主人公であるペットたちの行動によって大切なものを奪われた女性です。彼女は自分の手で父親を殺してしまいました。その心についた傷はとても大きく、決して完全に癒えるものではないかもしれませんが、それでも彼女は奪った者たちに復讐をすることではなく、手を取り合う未来を選択するようになります。

 ジンは誰かの記憶が失われること、人が死ぬこと、誰かの自由を奪うこと、自分が苦しみとして感じるそれががまた、自分たちがしてきたことと罪としてつながることを理解し、実感していきます。決してもう失われてはならないということを思うようになります。描かれたのは、傷付けあい憎みあった人たちが、自分たちそれぞれの罪に向き合い、手を取り合おうと思う物語であったように思いました。

 

 奪われた傷を抱えていた人たちが、fishの物語の中で再生し、生きていく希望が描かれたように思えて、この続編を読めてよかったです。

 

 先日、三宅乱丈先生とご飯を食べたときに、リマスターエディションの最後で3部作って書かれてたのにびっくりして!と鼻息を荒く言ったら、当時は描くことになるとは思わなかったけどという話をしてくれました。コミックビームでリマスターされ、アニメもあり、連載があり、最後まで読めたということが、もう本当によかったですよ。

 

 なんでこんな文章を書いているかというと、今petもイムリもfishもめちゃくちゃ安くなるセールをやっていて、一冊ほぼ99円になっているので、これを機にまとめ買いをして欲しいと思っています。絶対買って読んだ方がいい。

 僕が今日伝えたいのはそれだけです。

 

 

 

 あとこれは余談で完全な自慢なのですが、fishのあとがきに三宅乱丈先生が僕のことを少し書いてくれています。そればかりか僕の絵を真似た絵も描いてくれています。petが終わってしまったときにもっと読みたかったと嘆いていた当時大学生のピエテヅくんは、20年後にこんないいことがあると想像できたかな?できるわけがない。