漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

親子の物語としてのドラゴンボール関連

 「ドラゴンボール超スーパーヒーロー」を観ましたか?僕は見ました。以下、ネタバレが含まれているので、ご了承の上で読んで下さい。

 

 さて、前作の「ブロリー」は顕著に親子の物語として描かれていました。バーダックと悟空、ベジータ王とベジータ、パラガスとブロリーの関係性は、それぞれが対比的に描かれており、また、対比的に描かれていたとはいえ、どれかの在り方が単純に一番いいということはなく、それぞれはそれぞれに良いところも悪いところもあって、色んな親子の関係性が、比較的並列的なものとして描かれていたのが良かったと思います。

 

 惑星ベジータフリーザに滅ぼす前に、バーダックに地球に逃された悟空は親に育てられた記憶があまりありません。それだけではなく、頭を打って性格も変わったらしいので、何も覚えていないようです。悟空の親に育てられた記憶は、父バーダックと母ギネからのものではなく孫悟飯おじいちゃんからのものです。悟空は実の親には育てられませんでしたが、のびのびと自由に育つことができました。

 ベジータは父であるベジータ王に多少過保護に育てられていたいようです。ベジータ王は、息子のベジータを脅かす可能性のあるブロリーを辺境の惑星に追放しました。子を思ってのことかもしれませんが、王という立場を利用して、他の家庭に干渉するのは良くないことです。ベジータは自分がサイヤ人の王子であることに誇りを感じています。一方で、父親であるベジータ王の死についてはあまり強い感情を見せたことがありません。

 これは親子の情の薄さと捉えることもできますが、一方で、上手い親子関係であったと解釈することもできます。過保護であるにも関わらず、子供が親に対して負い目を感じることがなく育ったということは、親から子に心を支配するタイプの押しつけがましさを発揮しなかったとも言えるからです。

 ベジータ王は、ベジータを自分の願いを叶えるための道具として扱わず、一人の人間として生きられるように、その周りの環境を構築するところに力を割いたようにも思えます。その結果、王子はいささか自由過ぎる(ワガママに)育ってしまったようですが。

 ブロリーとその親パラガスの関係性は、あまり良くないものであるように思います。パラガスにはブロリーに対する愛情は確かにあったと思われますが、一方で、自分の願いを叶えるための道具のように取り扱ってしまっている側面や、自分よりも明らかに強大な力を持つブロリーを制御するために、痛みを使ったりしてしまいます。

 それは西遊記孫悟空の頭にはめられた輪っかのようなものです。ドラゴンボール孫悟空が、輪っかによる制御を受けていないのに、ブロリーが受けているのはなんか可哀想さが増してしまいます。

 これはとても良くないことですが、そうでもしなければ自分より圧倒的に強大な力を持つブロリーをどうにもできなかったという部分には同情の余地はあります。

 また、ブロリーを助けるために辺境の星まで駆けつけたり、ブロリー側も父親の死に怒ったように、良くない部分はありつつも親子関係の互いの情も確かにあったのではないかと思います。

 

 話をスーパーヒーローに戻しますが、本作はピッコロと悟飯の2人が活躍する物語でした。悟空やベジータも話の中には登場はしますが、いつものように遅れて到着し、最後の戦いを担ってくれるわけではありません。これは原作をベースに考えると画期的な内容で、なぜなら原作では、結局最後は悟空が戦うことになりがちだったからです。数少ない例外が、セル編で、本作はセル編の展開になぞられている雰囲気もありました。

 さて、本作は、ブロリーでもそうであったように、過去の劇場公開作の要素を色々ピックアップして組み込んでいる内容でしたが、鳥山明が脚本を書いていながら、アニメオリジナルの内容も想起させる感じがあったのもおもしろかったです。アニメオリジナルであれば、悟空が不在のときに、残りのメンバーだけで敵を倒すケースも色々あったんですよね。

 

 本作のピッコロと悟飯は、その潜在能力を引き出すというような形でのパワーアップをします。これをご都合主義と捉えることもできますが、彼らにはそれだけの力がもともとあったと解釈することもできます。では、なぜこれまでそれが出てこなかったかというと、それは悟空がいたからではないでしょうか?

 いつも最後は悟空が決めてくれるからこそ、他の人たちは自分の能力を限界以上まで引き出す必要がある状況までにはならなかったと思えます。

 

 これは別に悟空が悪いわけではなく、悟空自身もこの状態を良くないと感じていたはずです。原作の人造人間編で、自分の死後、仲間たちや息子が人造人間に無残に殺されてしまうという未来を知ってしまった悟空は、これまで自分が担ってきた役割を、次の世代に譲ろうとする動きを見せていました。

 それはきっと、自分がいなくなってしまったあとのことを、どうしても考えてしまうようになったからではないかと思います。

 

 悟空は息子の悟飯なら、その役割を担えると考え、その潜在能力は自分を大きく上回ることも感じていました。しかし、その試みは、周囲からの反発を受けてしまいます。なぜなら、悟飯は悟飯であって、悟空ではなかったからです。悟飯には悟飯の特性と人生があります。なので、悟空が手渡した、人類を守るための戦いのしんがりの役目を、悟飯は簡単に受け取ることができませんでした。

 そこで怒ったのはピッコロです。悟空は悟飯のことを分かっていないことを指摘します。悟空と違い、戦うことそのものが好きなわけではない悟飯のことを、ピッコロは代弁しようとします。それはもしかすると、マジュニアと呼ばれたピッコロ自身が、先代のピッコロ大魔王のコピーとして、悟空を抹殺するという使命を帯びて生きてきたことと重なるかもしれません。

 卵から生まれたピッコロは、使命だけを抱いてたった一人で生きてきました。悟空を倒すことをその目的としていたはずですが、しかし、ピッコロはいつの頃からかその使命を口にすることがなくなります。それはベジータ戦以後のことです。そこまでの中で、ピッコロは悟飯との出会いによって、初めて自分に人と人として接してくれる存在を得て、自らの人生を歩むことができたように見えました。

 

 このように、親から、そのコピーとして使命を手渡されることの苦しみと、そこから親とは異なる一人の人間としての生き方を得ることの喜びをピッコロは誰よりも知っていると考えることができます。

 だからこそ、悟飯が、悟空の担ってきた役割をそのまま担わされようとしていることに反発心が出たのかもしれません。その後の悟飯の言葉を参考にすれば、ピッコロの言ったこともまた、悟飯の本心とも異なるようでした。

 

 「今 悟飯がなにを思っているかわかるか!? 怒りなんかじゃない!!なぜ おとうさんはボクがこんなに苦しんで死にそうなのに助けてくれないんだろう…」

 

 この言葉が悟飯の心情をピッコロなりに類推しただけのものではなく、ピッコロ自身の先代のピッコロ大魔王から使命だけを手渡され、たった一人で生きてきた心情が反映されていたとしたらと考えると、とても悲しいことだったんだという理解になります。

 そういうことを考えると、今悟飯とビーデルとパンの家族に囲まれて日々生活している今のピッコロさんの日常があることが、本当によかったなと思うんですよね。

 

 また、この辺を考えていくと悟空とピッコロの境遇は似ていて、お互いに親に直接育てられることがなく、使命を帯びて一人で生きることを求められました。ただし、悟空はおじいさん方の悟飯に拾われつつ、頭を打ったことで、幼少期の時点でその使命を忘れ、愛情を受けて育つことができました。   

 ピッコロも子供の方の悟飯との出会いによって同じように使命を忘れることができましたが、幼少期の数年の差や、それぞれの性格の問題か、その捉え方は大きく異なっており、セル編の最後でついにそこにあった差が爆発したのではないかと思うんですよね。

 悟空は、自分の息子だからといって悟飯がその役割を担う必要がないし、そこにも向き不向きがあるという考えになったように思います。それでも、悟空は自分が解決するのではなく今の世代で解決してほしいと、ブウ編でも立ち回りますが(子供の頃に読んでいたときには悟空が戦えばいいのに、なんでそうしないんだろう?と思っていました)、結局最後を決めるのは悟空でした。

 

 そんな悟空は、ブウにとどめをさすときに、「よくがんばった、たったひとりで」という言葉を残します。それはもしかすると、自分の役割を、ついに誰にも手渡すことが悟空の心情が反映されていたのかもしれません。最終回でブウの生まれ変わりのウーブを悟空が鍛えようとして終わるのも、そういった解釈ができます。たったひとりで戦っていたウーブなら、悟空の役割を担えるかもしれないと。

 このあたりは、僕が勝手に思ったことなので、実際そう描かれているのかは分かりませんが。

 

 とにかく、スーパーヒーローは、「悟空が来なくても世界がきっと大丈夫だ」という、原作漫画の中にあった苦しい状況を打破する内容なので、画期的だなと個人的に感じました。それは実は、アニメオリジナルの中では既に何度か描かれていて、そこにあった要素を拾うような物語であったことにも、勝手に意味を感じてしまいました。

 

 悟飯の見せた姿、ビーストは、悟空の後を追うようなものではなく、悟飯独自のものでした。親から子へ、必ずしも役割が継承されなくたっていいということと、自分の担う役割を適切に次代に引き継ぐことができないという苦悩についての、両方の答えが示されていたように思って、それがとても良かったなと思いました。