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「進撃の巨人」と自由はそんなに自由じゃない関連

 「進撃の巨人」の最終巻も出たので、そろそろ最後まで読んで思ったことの話でも書こうかと思います。

 

 進撃の巨人って結局何の話だったのかな?と思うんですが、僕が思ったことのひとつは、人間と人間のコミュニケーションの物語なのではないかということです。

 

 主人公のエレンが住んでいた壁に囲まれた国において、壁というのは、人間と人間の間にある壁でもあったと思います。エヴァンゲリオンで言うところの人と人の心を隔てるATフィールドという話とも言えますが、個人間ではなく、異なる文化圏同士の間に作られた壁と捉えたほうがしっくりくるかもしれません。

 壁の外と壁の内側はコミュニケーションが断たれています。これは意図されたもので、過去発生した巨人大戦の終結させた王が、パラディ島へと渡り、壁を作るとともに、壁の内側の人々から壁の外の記憶を奪って作りあげた状況です。

 そこには、争いを止めるためにはコミュニケーションを断つことが重要であるという思想があったと思います。そうすれば、人と人の文化的摩擦を発生させることがなく、平和に過ごすことができます。僕自身、何かの集団に属することに消極的で、人間関係を最小限に留めることで日々心を平穏に保つようにしているので、その気持ちがよく分かります。

 

 しかし、その状態も永遠に続くわけではありません。エレンたちが壁の外に自由を求めたように、人には他者とのコミュニケーションを求める衝動があることも多いはずです。僕自身、誰ともコミュニケーションをとらずに生活をしているとどんどん具合が悪くなってきます(近年は世の情勢的に特にそうです)。他者を拒絶することは「心を平穏に保つこと」であると同時に、「心の枯渇も招いてしまうこと」という矛盾する状況があるように感じています。

 壁を作ることと壁をなくすことの両方への渇望が存在し、矛盾する状況の中で葛藤が存在することから、そこに人間を感じてしまいます。僕は葛藤が存在することに人間を感じてしまうからです。そして、壁の存在は何も内側からのみ感じるものではありません。外からも感じられ、そして外から破壊されることもあるはずです。いくら他人を拒絶して壁を作ったとしても、外から暴力的に乗り込まれることもあるでしょう。

 そう考えると、巨人とはそういう理解をすることができます。外からやってきて、こちらを傷つけてくる存在です。そして重要なことは、巨人とは話し合うことができないということです。少なくとも最初はそう思われていました。そうなると、こちらも相手を駆逐するしかありません。

 

 殺らなければ殺られるからです。

 

 話し合うことができなければ落としどころを見つけることができず、互いに境界線と認識した場所まで相手を押し戻すため、傷つけあうことしかできません。ならば話し合えばいいという話ですが、話し合えるということは当たり前でしょうか?話し合えないことは悪徳でしょうか?世の中には、どうしようもないことだってあるんじゃないでしょうか?

 

 進撃の巨人で描かれている大きなことのもうひとつは、どうしようもなさだと思います。壁の外も内も、大きな流れがあって、人々はその流れに飲み込まれるように進むしかありません。それは個人と個人でもそうですし、国と国だってそうです。そして、時間の流れもまたそうなっています。大きな流れの中では、一個人の意志のような小さなものはどうしようもありません。

 

 エレンは、かつて巨人となり、自分たちの生活をめちゃくちゃにしたライナーに、それは仕方がなかったよな?と確認します。そして、ライナーは、それは仕方なかったわけではなく自分が悪いのだと語ります。エレンはそう答えたライナーを認めます。自分がしでかしたことを他の何かのにするのではなく、その全ての責任を自分で受け止めようとするライナーの姿にです。

 それは大きな流れに流されてしまうということを、仕方ないこととして受け入れていない態度であったからではないでしょうか?

 

 後に、エレンが受け継いだ進撃の巨人の能力は、過去と未来を見通せるものであるということが分かります。この能力を得た時点で、エレンは過去と未来の流れを、変えられない一方通行ではなく、大きな形あるものとして認識してしまいました。その形の中で、自分が何をなすべきかが分かり、そのために何を果たすべきかが分かっています。自分は、この残酷な運命の歯車でしかないという事実を突きつけられてしまいます。

 壁の外に自由を求め、理不尽を変えられるほどの大きな力を手に入れたエレンに待ち受けていたのは、一切の自由のない、どうしようもないような運命です。その運命に屈するのは仕方ないことでしょう。そして、仕方ないと思っていいのか?ということです。

 

 誰よりも大きな流れに雁字搦めになってしまっているエレンだからこそ、それを仕方がないものとして受け入れないライナーの姿に理解できるものを見たのではないでしょうか?

 

 進撃の巨人の作品としての特徴は、作中の登場人物たちが、自分たちの抱える加害性から目を背けないところだと思います。

 多くの物語の中には多くの「仕方がない」が存在していたりします。例えば、「暴力はいけないことだ」と言えば同意を得られると思いますが、だとすれば物語の中で、正義と悪が互いに暴力で戦っている場合、それは両方間違っていることになります。それでも物語は正義の暴力は正しく、悪の暴力は間違っているという認識をできる作りになっているでしょう?なぜなら、正義の側には、暴力を振るっていいだけの仕方ない理由があるからです。

 代表的なもので言えば、悪の暴力に傷つけられたなら、その反撃や報復や予防としての暴力は、良い暴力ということになるということです。暴力は悪いことだが、これは例外的に良い暴力であるということを示すことで、読者に不協和による不快感が発生しないように作られています。

 しかし、それはあくまで主人公側の視点においてのことでしょう。逆の視点からすれば、それはまた許されざる悪い暴力であって、そちら側にはそちら側の自分たちの暴力が許される理由を抱えているかもしれません。

 

 悪には悪の理由があるということを描く物語は多くあると思います。しかしながら、主人公側がどうしても擁護ができないような理不尽な暴力を自覚をもって行使するという物語はあまり多くはありません。その暴力に蹂躙される側の感じる理不尽が描かれた場合、それを痛快として感じることは難しいからです。

 しかし、進撃の巨人ではそれが描かれます。そしてそれはお互い様なものとして描かれます。そうやって傷つき傷つけられた者同士が、終盤になって一つの輪を囲むシーンがとても良かったです。

 

 相手をどうしても許すことはできないという気持ちと、相手の事情を理解しようとしてしまう気持ち、自分たちもまた犯した罪の話、すんなりとは整理できない葛藤を抱えた人間が、互いを許すことはできなくとも、同じ目的のために動き出すことになります。

 その向かう先は、一番大きな理不尽です。それはエレンであり、今の巨人の力の源である始祖ユミルです。

 

 最初に書いたように、僕はこの物語は、人間と人間、そしてそれらがそれぞれ寄り集まって作る文化と文化はなおさら、接すれば摩擦が起きる話として捉えました。だからこそそれを隔てる壁が作られ、しかし、壁で隔てて引きこもっておけばいいという話でもないという葛藤の物語です。

 壁を取っ払った先にある自由は、それほど自由ではありませんでした。そこでは、誰かの自由と誰かの自由がぶつかり合い互いに傷つけあうために、傷つかないための争いが起こり、結果的により一層、不自由でどうしようもない世界でもあるように思いました。

 最終巻で追加されたエピローグで、結局この問題は根本的には解決していないことが示唆されます。それは誠実さだなと僕は思いました。誠実さであり、そしてどうしようもなさだと思います。

 

 この物語で最後描かれたのは、長く続いたひとつの理不尽の連鎖が断ち切られた様子だと思います。ただし、その後も同じものは何度も生まれてくることが示唆されます。しかしだからといって、それをどうしようもない仕方のないものとして巻かれることを良しとしない物語です。今を生きる人が、それをおかしいものとして断ち切るという、この終わりのない苦しみの中でのひとつの希望の物語だと思います。

 その希望すら、一番大きなどうしようもなさに取り込まれたエレンが、それを断ち切る唯一の方法として、大きな罪を犯さざるを得なくなるという形で描かれました。

 

 エレンは自由を求めました。しかしながら、壁の外に出たエレンは不自由になったようにも思えます。なぜならば、その壁の先には自由と自由が衝突する場所があったからです。巨人が訪れず、壁の中にずっと引きこもっていることができていれば、その中で、他者とぶつかり合わずに済む、壁によって制限されてはいても、ましな自由があったかもしれません。

 しかしそれはいつまでもそうあることができなかったという話です。そして、壁の外には、人の自由と人の自由が衝突し、結果的に誰もが雁字搦めになる苦しく不自由な世界が広がっていました。

 

 物語の最期、エレンは自由になれたのでしょうか?少なくともエレンが囚えていたもののいくつかは断ち切られたと思います。しかし、それでよかったのかどうかはよく分かりません。

 人が生きていくということは、相反する自由と自由の闘争から逃げることができないものなのかもしれません。多くの物語では偏った視点が持ち込まれることで、勝った方の自由が正しいものとされることで、話のやるせなさを軽減しようとします。

 しかし、進撃の巨人では、どちらかが絶対的に正しいというような偏った視点を可能な限り排除するように、平等に誠実であろうとしました。そして、だからこそ悲惨になってしまう世界を結末までを描き切ったように思いました。

 

 それこそが進撃の巨人という物語のすごさであるように、僕は思いました。