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批判的な批評がやりにくい時代関連

 「今は共感性が重視される風潮があるので、批判的な批評をすると叩かれるし、批判的な批評ができない時代になってしまった」みたいな嘆きを、ここのところたて続けに目にしたので、そのあたりについて思うところを書きます。

 

 「批判的な批評が叩かれる」というのは、色々な理由は考えられますが、基本的には、「その対象を肯定的に捉えている人たちから、自分たちが肯定的に感じているものを貶されたと感じたために、今度はその批評者への批判が届いてしまう」ということだと思います。他の理由としては、その批判対象そのものには大した興味はないが、批判している人がとにかく偉そうなので腹が立つ、みたいなこともありそうです。

 そして、批評者への大量の批判が発生した結果起こることは、「叩かれたくないので、批判的なことを言わないようにする」という処世術だと思います。そう考えると、この現象によって、自由な発言の機会が失われ、考え方の多様性が失われているように感じるので、良くないなと思います。良くないなと思うのは、僕の個人的な価値観で、人は基本的に自由であるのが良いと感じているからです。

 

 ただ一方で、これは自由と自由の衝突でもあると感じていて、つまり、批判的な批評に対しても、その批評に対して批判的であることを表明する自由が行使されているという話でもあると思います。なので、「批判的な批評を叩くな」というのもまた、人の自由な発言を阻害する行為であって、これも良くないなとも思うんですよね。

 

 また、こういう置き換えで言えば、「批判的な意見が集まると、それを避けるような批評しかされなくなる」というのは、批評対象となる何かの創作物に対しても同じ話だと思っていて、つまり、「批判的な批評が多くあると言うことは、その批判的批評を受けることを避けるために、創作物の多様性が失われてしまう」という危惧も同様にあるということです。

 

 なので、僕の「基本的に自由であるべき」だという考え方だけでは、批判的批評が存在することも、批判的批評がまた批判されることも自由の範疇であるので、整理ができない問題だなと思います。誰かの自由には、同時に、批判対象の在り方を制限する力も生じていて、それがまた自由を制限しているように見ることもできます。

 

 このように、創作者、創作物の批判的批評者、批判的批評の批判者の自由な活動は、それぞれが別の立場の自由を制限しようとする力を持ち得るものであり、それはときに、お互いが自分は自由でありたいが、自分とは異なる立場の人たちはその自由を制限すべきだと感じているというような状態になってしまうと解釈することができるなと思いました。

 

 つまり、どれかひとつの立場だけを肯定することが、同時に同じ考えのもとにその立場が否定されてしまい、矛盾が出てきてしまうということです。それは自由と自由の間の摩擦であり、単純な「自由であるべき」という考えだけでは調整がつかない領域です。

 

 ただし、この矛盾を解消する方法は簡単で、3つの立場が平等なものではなく、不平等なものであると規定しまえばすぐになくなります。

 不平等であれば、AからBに対する態度と、BからAに対する態度は別物として取り扱うことができるので、「自分は他人の自由を制限してもよいが、他人は自分の自由を制限してはいけない」という状況は普通に成り立ちます。

 

 揉め事はいつも、この辺りで発生していると感じています。つまり、皆自分は特権的な立場を得られるという根拠を感じており(何故なら自分にとっての自分は、他人より特別だから)、他人に対して不平等な態度をとる状況を暗黙の前提としてしまっているのではないかということです。

 

 もちろん、これらの異なる立場が暗黙の平等であるというのも、何にも保証されていません。例えば、創作者が一番自由であることが何かが生み出されやすくなるので良いという価値観もありますし、そういった自由に対して監視する立場こそが一番自由であるべきだという考え方もあるでしょう。あるいは、その創作物の受益者が一番数が多く、優遇されるべきだという意見も強くなるかもしれません。

 

 そう考えた場合に、「批判的な批評をできない」というのは、「批評者が特権的な立場を得るべきだ」という種類の偏りの話であると考えられ、その偏りは、異なる偏り方をしている立場の人に説明しても通らないだろうなという理解があります。

 

 じゃあ、今の状態がいいのか?と言えば、僕自身はそうは思っていません。批判的批評者と、その批評者に批判的な人はそれぞれ同じ種類の自由の行使をしているだけとはいえ、その人数に偏りがある場合があり、そこでの揉め事が、数の論理だけで決着がついてしまうことがあるからです。

 例えば、1の意見に対して100の批判が届いた場合、1の意見はその100人の一人一人に対して応対するリソースがありません。であるならば、その状況になることを回避しようとしてしまう可能性があり、それはつまり、数が多い方が少数意見を封殺する構図となります。

 それは良くないなと思うんですよね。

 

 つまり、少数派の意見を持ってしまった時点で負けているという状況になるからです。

 

 この辺りを考えていくと、冒頭に書いた「批判的批評をすると叩かれる」というのは不正確ではないかという認識が出てきます。つまり、批判的批評であったとしても、世間の大半が、その批評対象に批判的であるならば、容易に批判的な批評をできると思うからです。世間の風潮が、何かの作品を叩いているときには逆に、その対象に対する肯定的な批評がやり玉にあがることだってあります。

 

 この話は、正確には「大量の人のリアクションが瞬時に得られるようになった現代の課題として、世間の主流とは異なる意見を言ったときに、数の論理でその意見を曲げさせられるという状況がある」という話なのではないでしょうか?

 それは批評である必要はありませんし、批判的な批評に限定することもありません。皆が嫌いなものを好きだと表明したり、皆が好きなものを嫌いだと表明することは数の論理で封殺されるので、主流の意見に合わせたことを言わないといけない(と人が思い込んでしまう)ことに対するしんどさはあり、そこには何らかの手当てがあった方がいいのではないかと感じています。

 

 でもこれって、自分が少数派のときには問題だと感じても、自分が多数派のときには、人はこれを都合よく使ってしまったりもしているんですよね。ちょっと主流から外れたおかしなことを言っている人がいたときに、その人をネットで話題にするためのおもちゃのように取り扱ってしまったり、その人との意見の交換をするのではなく、一方的に馬鹿にするだけのような意見を送ってしまったりを、人はしてしまうことがあります。

 自分たちは正しく多数派なのだから、このような間違った少数派といちいち細かいコミュニケーションをとる必要はなく、相手の言うことを理解することも、考え方の落としどころやすり合わせもする必要もなく、とにかく多数の力で相手に不快感を与えてやればいいという態度で人が行動する様子については、ネットを見ていれば覚えがあるのではないでしょうか?

 

 そのような態度は、自分が主流と異なる意見を抱えたときに言えなくなるという不自由さと表裏一体の話であって、それを都合が良いときだけ肯定し、都合が悪くなると否定するというのは、先に述べたように、自分を特権的人間であると置かない限り説明がつかないことです。そのように、お互いがお互いに、自分だけが特権的な人間だと認識したコミュニケーションをとっていれば、それはきっと揉め事になるだろうなと思います。

 

 これは現時点で明確な解決方法があるわけではない話ですが、少なくともそれがフェアではないのではないか?という認識が僕にはあり、自分もまたそれを温存する側にいるかもしれないという自覚を持つことは、まずは解決に向けての課題の一歩目だと思っているので、思うことを書きました。

 どうしたもんでしょうね。