漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ディザインズ」に出てくる楽譜と音楽の喩え関連

 ディザインズはHA(ヒューマナイズドアニマル)という、その名の通り人間化された動物を巡る物語です。HAたちは体の一部が人間のようであったり、あるいは体の一部だけが動物のようであったりする見た目をしていますが、遺伝子上は紛れもなく人間ではなく別の動物です。つまり、蛙のHAなら、見た目がどれだけ人間に似ていたとしても、遺伝子的にはただの蛙なのです。

 

comic-days.com

 

 彼らを産みだした男、オクダは、動物の遺伝子から人間に似た存在を生み出すその行為を音楽に喩えました。遺伝子は楽譜、生命は音楽です。遺伝子にはその生命の設計図が描いてありますが、楽譜は音楽そのものではないように、その記載をどのように解釈して奏でるかによって無数の可能性を持ったものだと言うのです。そして、オクダはその楽譜を音楽としてとても上手に奏でることができるのでした。

 

 オクダは「病」が好きだと言いました。ある種の病は、生命の形を本来想定されているものとは異なるものにしてしまいます。普通の人間なら忌避すべきその病を、オクダは生命の持つ可能性だと表現しました。遺伝子の中には何にでもなれる可能性が眠っています。そしてそんな様々な可能性の中から、必要なもの以外を閉ざすことで、生命は今の形に収められています。

 そのような「病」が発現してしまうことは一個体としてみれば不幸なことでしょう。ただそれは見方を変えれば、今この場所ではなく、いつかのどこか別の場所に適応できる可能性の示唆かもしれません。生命は世代を重ねながら様々な環境に適応した者が生き残っていく力強い存在であることの示唆です。そして、やはり、その「病」は一個体としてはおぞましくも映ります。なぜなら、今この場所は、自分が適応できる場所ではないことが表現されてしまうからです。

 

 さて、遺伝子は楽譜、生命は音楽という捉え方は、ディザインズという漫画そのもののようだと僕は思いました。

 

 例えば、楽譜をストーリー、音楽を漫画をのものに置き換えてみます。この漫画がどのような漫画であったかをストーリーで語ることはできますが、その語りからは抜け落ちてしまう無数のものがあるでしょう。そのように情報が抜け落ちてしまうため、ディザインズのストーリーとして出来事を要約したものを元に、別の人が漫画を描いたとしたら、きっとそれは全く違う漫画になってしまうはずです。

 

 例えば、谷口ジロー版の「餓狼伝」と、板垣恵介版の「餓狼伝」は同じ小説を原作にしておきながら、読めば異なる漫画だと思うはずです(板垣恵介版はストーリーやキャラクターにも手が加わっているので、そもそも別だろという話もありますが)。他には、林信康の「毒狼」では、最後の2回分は原作者の猿渡哲也自らが作画も担当しているバージョンがあります。つまり、そこからストーリーは共通でも作画における演出の違いによって異なる体験が存在することなどを見て取ることができます。

 同じ場面の人の顔の絵でも、描いた人が異なれば、その絵から想像する描かれた人の内面は異なるかもしれません。同じセリフであっても、どのような間で、どのような動きで、どのように言うかで、印象は全く異なってしまうのではないでしょうか?

 

 ある漫画がどのようなものであるかについて語られるとき、どうしてもストーリーが出てくる頻度が多いと思っています。例えば、桃太郎がどのような話かを表現するときには、桃から生まれた子供が犬猿雉をお伴に鬼退治に行く話、などと言われがちなのではないでしょうか?

 ストーリーが選ばれる理由は、物語の構成要素の中でも言語化しやすい領域であるということが関係していると思っています。また、物語が持つ全体の情報量の中でも、ストーリーを語ることが抜け落ちる情報量が比較的少なくて済むという判断もあるかもしれません。つまり、ある映画のWikipediaに描かれたネタバレのあらすじを読めば、その映画を観たフリがしやすいというような話です。

 

 でも、実際は漫画のような物語の構成要素はストーリーだけではないわけです。特に五十嵐大介の漫画は、ストーリーという言語化しやすいものだけでは語れない領域が大きいことが多いと感じています。例えば、デビュー連載である「はなしっぱなし」は、そのタイトルの通り、前振りや謎の解明や明確なオチがあるとも限らない、不思議な場面を描いた、感覚的表現そのもののような漫画でしたし、少し前にアニメ映画化された「海獣の子供」も言葉では表せない体験そのものを映像として表現しようとしたものでした。

 起承転結のような明確な何かが起こって、それがどうなって、どう変わって、どう終わるかという枠組みでは解釈することが難しく、それをわざわざ言葉に置き換えて表現するならば全て冗長になり、そのものを読んだ方がよほど簡潔になるような描かれ方がそこにあるわけです。

 

 このように言葉にしにくい領域では、言語化自体を最初から避けるという方法もあります。例えば、ある印象的な場面を挙げて「ここが良かった」と、しおりを挟むように共有する方法です。それだって立派な感想だと思います。ただし、それができるのは、複数の人がその場面を簡単に共有できるという前提で、それでなければ、上手く伝わらないかもしれません。

 つまり、テレビで放送しているものを同じ時間に見ているとか、ネットの配信とか、Web漫画の公開時間に一斉に読み始めるというような、対象そのものを共有できている状況が必要ということです。

 

 このように言語化が容易ではない領域では、とにかくそのものを共有することで伝えるということが、一旦自分の中で言語に置き換えて再配信するよりも早くて正確で伝わりやすいという認識があるのではないでしょうか?それが、最近のインターネットで求められている速度なのかもしれないなと思っているところがあります。

 Twitterなんかでは、作者が漫画そのものを貼っていったり、前提の共有が不要なぐらいに一コマで分かる印象的な面白い画像が広がっていったりするということについては、そういう解釈ができると思います。情報を反復する人々が、一旦自分の言葉に置き換えることをやめることによって、より効率よく広まっていくということです。

 

 さて、話を戻しますが、僕は自分が漫画を描くときにも前述の楽譜と音楽のようなことを考えています。どういう話を作ろうと最初に考えているとき、自分の中にあるのはまだ楽譜だなと思うからです。例えばプロットを作ったときに、それはまだ楽譜なので、最終的にお話として出力したいものとしての完成度は5%ぐらいなのではないかという印象があります(この割合は人によるでしょうが)。

 なので、こういう話を描こうというプロットができたという進捗だと、実質ほとんど何もできてないんですよね。ここからお話が出来上がっていくまでの距離がめちゃくちゃ遠くて、とにかくどうすればその間が埋まるのかで悩んでいるみたいな感じです。そして、出来上がったものは、そのプロットとは大体ことなるものになってしまいます。楽譜を無視して、その場その場で楽しく演奏した方が作ってて楽しいからでしょう。

 その楽譜と音楽の間を埋めるプロセスに創作の秘密があるような気がしているのですが、僕には今のところそこがどうなっているのかよく分かりません。同人誌を作っているときに、なぜそこが埋まって完成できるのかが本当によく分かっていません。ただ、一旦描いてみて、それを読者として読んでみたときに自分がどう思うかということだけが手がかりなので、とりあえず描いてみたあと、やすり掛けのように自分で何度もなぞりながら調整するということが有効なんだろうなと思っています。それを延々繰り返しているとそのプロセスを言語化できていませんが、経験的には出来上がることが知られています。

 

 ディザインズの物語では、その姿は人に似ていても、人とは決定的に異なる感覚器を持つ動物が、世界をどのように感じるかを想像することで、この世界の捉えなおしをする様子が描かれています。その裏側には作者が世界をどのように感じているかを描いているということがあると思っていて、作中のオクダがHAの感覚器を移植することで、新たな感じ方を得ていくように、読者の僕も、この漫画で描かれる世界の捉え方を取り込むことで、自分が感じていることを捉えなおすことができるように思いました。

 それが例えば、上記のようなことです。

 

 遺伝子と生命の関係性を楽譜と音楽のように捉えなおしたように、漫画の作り方も実は音楽的に捉えることができるのではないかと思うと、自分の中で曖昧になっていたことの少し理解が進んだように思いました。そういえば「魔女」に収録されている「うたぬすびと」という一作の中でも、音楽のように感じられる絵の話が出てきていましたね。

 

 読んだあとに、世界の見え方が少し変わるような漫画が好きです。そしてディザインズはそのような漫画のひとつだなと僕は感じています。