漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

感想を書きにくい漫画がある関連

 面白い漫画なのに感想が書きにくいっていうことあると思っています。例えば、1話完結のオムニバス漫画の感想などはそれがどれだけ面白くても書きにくいです。なぜならば、ひとつひとつのお話が短いので、仮にその中のひとつの感想を書いたとしても、単行本や連載全体を言い表したことにならず、その漫画が持つ100の魅力のうちの1しか書いていないような気持ちになったりするからです。

 書き終わった感想文が、足りないものであるという気持ちになります。あんな魅力もこんな魅力も、この漫画は持っているのに、自分はその大半について書いていないということが疑問として残ってしまいます。

 

 僕がこう思ってしまうことには謎の前提があると思っていて、つまり、感想は、その1回の感想によってその漫画全体の魅力のできるだけ多くを語らなければいけないと思い込んでいるということです。別に100分の1だけでもいいじゃないですか。それを100回書いてもいいはずです。

 

 漫画に限らず、映画やテレビドラマや小説の話をするとき、ついついストーリーの話をしてしまうことがあります。なぜそうなってしまうかというと、その物語が何であるかということについて、できるだけ簡潔に多くの要素を語れる手段がストーリーについて語ることだからではないでしょうか?もしくは、それはテーマでもいいかもしれません。その物語全体の裏側に流れる共通する要素をテーマとするならば、テーマについて語れば、その物語の全てを語ったことと同じと考えることもできるからです。

 

 しかしながら、ストーリーやテーマなどは、漫画が完結しなければ完全に語ることが難しいエリアでもあります。「寄生獣」を序盤だけ読んで、「この物語のテーマは愚かな人間に対する警鐘だ!」と語ってみたとしても、その後を読み進めれば、違う意見となってしまうかもしれません。となれば、漫画の感想は完結するまでは十分には語ることができないことになってしまうじゃないですか。

 でも、本当はそんなことはないですよね?

 

 「あるページのあるコマに出てきた一言や、人間の表情なんかがめちゃくちゃ好き」だって立派な感想だと思うわけですよ。それがその漫画の持つ魅力のうち、0.01%しか語っていないとしても、それはきっと立派な感想です。あるキャラが好きとか、特定のギャグが好きとか、自分が読んでそう思ったのなら、そうだけをそう書けばいい話で、でも、いざ感想文という形でかしこまってしまうと、それだけのことを書きづらかったりもします。

 

 「ジョジョの奇妙な冒険」の魅力について語っている人が、「ジョジョ立ち面白いよね!ジョジョ立ち!!」とか作中に登場する特異なポーズのみを語っていたとしたら、君はジョジョの持つ沢山の魅力について、全然わかっていない!!なんて言ってしまいたい気持ちが湧いたりもするんじゃないでしょうか?

 でも、ジョジョ立ちが好きとかって別に全然悪くないわけですよ。それが沢山あるうちのたったひとつだったとしても、それを読んだ人が、それを面白いと感じ、それが良かったと表明することに対して、他人が言えることなんて、きっと何もないでしょう?

 

 そういう「感想たるもの、こうあるべし」、みたいな謎の規範意識が自分の中にもあり、それを守ろうとしてしまうことが結果的に筆を止めてしまったりします。この漫画は何の漫画だったのか?とか大上段に構えた立派な感想文だけが良いということもなくて、なんかよく分からないが自分はとてもよく感じたという事実だけを記録したっていいですし、それは十分意味があることだとも思うわけです。

 

 この前、「海獣の子供」の映画を観ましたが、五十嵐大介の絵をそのまま動かそうという試みの時点で、僕はもう観に行ってすごくよかったなという気持ちになりました。でも、ストーリーについて語ろうと思うと上手く語ることができません。そもそも原作漫画自体が、言葉では語り得ぬものを描こうとする試みであるからです。

 「星の、星々の、海は産み親、人は乳房、天は遊び場」、海獣の子供で描かれているストーリーは、作中で語られる言葉で言い表せられるこれだけのことだと思います。この言葉だけでストーリーは語り切っていると言ってもいいかもしれません。だから、他の多くの漫画のように、ストーリーを基軸として、何があって何があってどうなったということを語ること自体に特に大きな意味がないと僕は思っています。

 そして、ストーリーを上記の言葉で語り切ったとしても、語られていない残りの無数があるわけでしょう?ストーリーではなく、言葉で語ることも難しい領域がそこにはあって、だから、それを他人に伝えることも難しいですけど、それに価値があることは読んだり観たりした自分には確証があるわけです。

 

 バレエ漫画の「昴」において、主人公の昴と、作中バレエ界の頂点にいるプリシラロバーツが、同じボレロという演目で同じ時期に舞台立ち、対決するという下りがあります。

 プリシラロバーツのボレロは、人間の動きの中に音の要素を取り込むことで、徐々にオーケストラの音が小さくなっても、人の耳には音が認識されるという内容でした。そのボレロは当初上手く行かず、帰宅後の人々の脳の中で、延々と聞こえていないはずの音楽を流し始めます。

 この実験とも言える体験を批評家が否定的と賞賛を入り混じるように語った内容が評判となり、プリシラロバーツの舞台は連日超満員となりました。

 一方、昴の舞台は違います。それは自身が踊る中で到達するゾーンの精神性に、観客全員を引き込むというような内容です。才能あふれるトップダンサーが、ようやく到達できるゾーンに、ただ見ているだけの観客を引き上げ到達させることができるのです。ある観客は、その体験を麻薬に喩えました。

 昴の舞台にも沢山のお客さんが入ります。しかし、舞台自体は世間でそれほど話題にはなりません。席を埋めるのはリピーターです。彼ら彼女らは、その体験を他人に十分に語ることができず、その必要性も感じておらず、ただ、再び体験したいと思って何度も足を運びました。

 

 この2つの舞台は、両方とも特異な魅力を持つものですが、前者は語れるがゆえに多くの他人を巻き込むことができ、後者は語りにくいがゆえにリピーターは増えても広がりは狭くなってしまいます。どちらに優劣があるという話ではありませんが、商売としての切り口で考えるなら、前者の方が儲かるものになりやすいかもしれません。

 

 昨今のSNS等で目にする何かの作品を語る方法では、後者のような「感想を体系立てて語りにくいもの」に対して「良いものであるという体験的な確信」だけを得た人が言及するものを目にすることが増えてきたように思います。それはある程度定型的な文言だったりもしますが、上手く語れない確信だけの話をする上でのジレンマを乗り越えるための方法としては、意味がある行動のように思います。

 だって、語れないのだからと沈黙していては、そのような作品が続かないかもしれないじゃないですか。

 

 もうひとつ、そのような定型句による褒めが発生する要因としては、少しでもネタバレをしてしまうとその体験を棄損してしまう可能性があるので何も言うことはできないが、とにかく見てくれという気持ちだけを伝えたいというものもあるかもしれません。

 

 オタクは自分が良いと思ったものをとにかく他人に伝えたいという気持ちを持ちがちじゃないかと思うわけですが、その中でも上手く伝えやすいものと、上手く伝えにくいものがあると思います。だからと言って、上手く伝えやすい内容の作品ばかりが知られ、そうでないものが知られないということは悲しいし、それゆえに、知られるものだけに世の中が特化してしまうのも悲しく感じてしまいます。

 とりわけ漫画は、複数人で同時に読むということが基本的にできないメディアですし、言葉以外の共時的な体験で他人と繋がるのが、難しい前提があるようにも思います。その中で、どのように伝えればいいのかということを、たぶん沢山のオタクたちが模索しているのではないかと思っていて、その結果、受容のされ方や広まり方はこれからも変わっていくのではないかと期待していたりもします。