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何かを選択することにストレスがあるの分かります関連

 インターネットを見てたら、「最近の若者は何かを選ぶこと自体がストレスなので、選ばないで済む方法を提供した方がいい」という話題を目にしました。

 これは別に最近の若者に限った話ではなく、時代や年齢に関わらずずっと言われている話だとも思うのですが、特に最近は無料やサブスクで無数の漫画やアニメやゲームや映画などなどに接する機会があり、その大量の中から選ぶという機会に遭遇しがちなので、意識することが増えているのかもしれません。

 

 僕自身、選ぶことのストレスを感じることはあります。それは、自分が馴染みのない分野で何かを選ばないといけないときです。例えば電動ドリルが必要なときにホームセンターに買いに行ったとして、そこに100種類の電動ドリルあったとしたら、どれを選んだらいいのか分かりません。そういうときには、そこから選ぶのが辛いし、自分がやりたいことに一番最適なものをひとつだけ向こうが提示してくれよと思ったりもするでしょう。

 一方で、漫画を選ぶことについては個人的にはあまりそれがありません。どれだけ無数の漫画があったとしても、僕は自分が読める量の中でどれを読むかを明確に選択していますし、そこに苦痛もありません。電動ドリルとの違いは、自分が欲しいものを見つけるためのだいたいの方法論が既にあるということだと思います。

 そしてもうひとつは、何かの漫画を読むことを選ぶということにあまり大きな意味を見出していないからでしょう。

 

 選ぶことの困難さは、基本的に、何を手掛かりに選んだらいいかが分からないということだと思います。つまり、優先順位がつけられないということです。例えば、一番大事なのが値段だとしたら迷う要素がありません。選ぶ必要がなく、一番安いものを選べばいいからです。そして、同じ値段で一番安いものが複数あったときに、また、どれを選んだらいいか分からなくなります。

 そういえば、僕はここ半年ぐらいゲーミングPCが欲しいなと思っていたのですが、色んな販売サイトで構成を変えて値段を眺めては、そのまま閉じるということを繰り返していました。これも選択できなかったから先延ばししていた事例です。

 それはつまり、どういうスペックのゲーミングPCが自分にとっていいのかが分からなかったということです。そこには、何か特定のゲームが欲しくて、それを遊ぶためのゲーミングPCが欲しかったわけではなく、なんとなくゲーミングPCがあれば欲しいゲームができたときにすぐに遊べて便利かも?と思っただけだったことが関係しているでしょう。

 そしてもうひとつの問題は、ゲーミングPCが高くてデカくて捨てにくいということです。つまり一回選択をしたら、取り返しがつきにくいということが関係しています。何かを選ぶ基準があいまいなのに、失敗したと思っても、家にその失敗したものがあり続けるということは厳しい気持ちになるので、一回の選択をするということに責任を感じてしまいます。

 なので、その責任を引き受けれるぐらいの気持ちになれるかという問題と、その気持ちになれるほどに何かを選ぶための基準が自分の中で明確に定まることが必要なのではないかと思います。

 

 で、結局この前注文したのですが、にもかかわらずそれは上記のことが定まったわけではありません。ちなみに注文したのは「GPD WIN Max」という独立したGPUも積んでいない小さなゲーミングノートPCです。

 

 結局、選ぶ基準は決まってないわけです。そして、選択の責任をとる覚悟ができたわけでもありません。ただ、「GPD WIN Max」は比較的安く、小さく、捨てなくてもそんなに邪魔にならないという、選択の責任が小さいものだったので頼むことができました。とりあえず買ってみて、それで動くゲームを遊んでみて、それで動かないゲームがやりたければ、改めてゴツいゲーミングPCを買えばいいかなと思ったわけです。

 つまり、失敗してもいいと思える範囲で一旦買ってみることで、自分の中に選択の基準を作ることから始めようと思ったのでした。

 

 言いたいこととしては、選ぶことが困難な場合、「最適解を提示してもらうことで選ばないで済ます」という解決方法の他に、「選ぶことの意味を軽くすることで、とりあえず選んでみることができる」という解決方法もあるということです。

 つまり、漫画であればとりあえず読んでみるということが気楽であれば、読んでみてから考えればいいと思うという話です。でも、それが簡単じゃないから困るという話なんでしょうね。

 

 そこには、何を手掛かりにして絞り込んだらいいのか分からないという話もあるでしょうが、僕が思うに、そこでは「選択する」ということには意味が見いだされ過ぎているのではないでしょうか?

 何かを選ぶということは、別の何かを選ばなかったということを意味するかもしれませんし、何かを選んだということは、それを意志をもって選んだのだろう?と逆引きされて何かを背負わされる可能性があります。

 例えば「自業自得」という言葉が世の中では便利に使われ過ぎている気がしていて、自分で選んだことについては、救済が不要という理屈が引き出されることも多々あるじゃないですか。例えば、詐欺にあったとしても、そこにお金を出すと選択したのは自分なのだから、貴方にも責任の一端はあるという論法が使われたりします。

 

 何かを自分の意志で選んだ人と、選ぶことがなかった人が同じ不幸に遭遇したとして、選んだ人が救済されにくい風潮があるのであれば、選ぶということそのものを拒否した方が得ということになります。世間的に、なんかぼんやりとそういう風潮があって、それが色んなところに反映されているのかもしれないなという気もしていますが、めちゃくちゃ雑な話だな。これは。

 

 いや、言いたかったのは、「選択をすることにストレスがある」ということは分かると思っていて、誰にでもあることだと思っていて、それは現時点で選択するための手がかりが足りないということと、選択をしたことによる責任が重くてできればしたくないという気持ちがあるんじゃないかと思うということです。

 そこを解消するための方法は、「ストレスがあるのだから選択をしなくて済むという方法を提供する」ことだけではなくて、「選択するために必要な価値観を得られる環境を提供する」とか、「選択そのものを気楽にさせる」という方法もあるよなと思っているということです。

 

 自分が好きなものに自分で辿り着けたときというのは、すごくいい気持ちになると僕は思っていて、その選択するということそのものを最初から拒否してしまうのは、なんか悲しいなあと思うんですよね。

 だから今はストレスがあっても、上手いこと選べる手段を提供できるようなのがあると方がストレスそのものを単純に切り離すより、結果的に良いんじゃないかなと思っているんですけど、それは自分が好きな分野だからそう思うだけであって、一般的に言うとしたらそうでもないのかもしれない…。