中野でいちの「三才山先輩は生きづらい」の単行本がでました(電子版のみなので電子書籍のストアで探そう)。
中野でいちさんのアカウント名を確認するかぎり、三才山先輩は生きづらいの電子書籍の単行本が6/26に出るらしい。 pic.twitter.com/menMmo39ir
— ピエール手塚🍙 (@oskdgkmgkkk) 2020年6月16日
この漫画は、自意識過剰な三才山先輩が、色んなことを過剰に気にしては「悩乱しちゃう」と騒ぐ漫画です。悩乱というのは、例えば「ズボンのことをパンツと呼ぶのが恥ずかしい」というような、自分の行動が他人にどのように思われるのか?の意識に囚われた状態のことです。
ズボンのことは昔から呼んできたようにズボンと言えばいいのに、ファッション誌などではパンツと呼ばれているのを参考に言い方を変えたら、「あ、コイツ、ファッション誌なんかを参考に言い方を変えてきたな」と周囲に理解されてしまい、その意識の変化が理解されてしまう想像に気恥ずかしさを覚えてしまうというような感じです。
宇宙的に広い視野を持てば、別に気にせんでもええやろ…と思うようなことをどうしても気にしてしまい、そうしたいのにそうできないというような、あるいは、そうせざるを得ないのにそうしたくないというような、自分の行動に様々な制約を勝手につけてしまい、不自由で、あー!!!!ってなってしまうのです。
三才山先輩は、その悩乱を鬼怒川くんに話しては、鬼怒川くんがめんどくさそうに諭してくれるというのがこの漫画の基本的な構成です。
それぞれの話は一言で言えば「気にしすぎ」で終わる話ですが、それは分かっていてもその一言で終わらず、どうしても気にしてしまうのが人間の辛い話で、そして、そんな悩乱しちゃう三才山先輩を可愛いなと思って読むことになります。
僕がこう思えるのは、自意識過剰ね…生まれたときから感じてたぜ!って感じなので、自意識についてはもうとっくに2周目に入っていると思うからだと思います。なので三才山先輩に対しては、おいおい、お前、自意識初めてか?って思うので、初心者を優しく見守るポジション取りができるわけです。
とはいえ、今の自分がそういうのを全く感じなくなったか?というと、ずっと同じように感じてはいて、自分ひとりの中に三才山先輩だけでなく、鬼怒川くんもいることでコントロールしているのではないかと思うわけですが。
こういう自意識過剰さは人間に昔からあるのだと思いますが、僕の感覚では今30歳前後ぐらいの人が、自意識のハンドリングについて手慣れた手つきを見せることが多いように思います。これも適当なことを言っているんですが、その辺の世代は物心ついたときからネットが割とそばにある生活だったんだと思うんですよね。
自意識過剰というのは、つまり、他人からの目線を内面化してしまい、直接言われたわけではなかったとしても、自分の行動に影響を与えてしまう状態だと思います。そこにはまず内面化させるための他人の目線のインストールが必要なわけじゃないですか。インターネットには、他人の動向の細かい部分についてコメントする人がたくさんいるので、様々な種類の他人の目線をめちゃくちゃ収集できる環境だと思うわけです。
そこにどっぷりいると、こういうことをしたら他人がどういうコメントをするだろうか?という想像は、すぐにつくようになると思います。僕もその想像を内面化しているので、ネットに出す文章は、出す前にそういう引っかかりを減らすためのやすりがけをすることも多いです。でも、そのコメント予想にも、様々な角度のものがあって、お互いに打ち消し合うような方向性のものもあります。
つまり、他人の目線は、結局その人たち個人個人の偏りであって、絶対的に正しい何かではないという価値観の相対化です。その相対化が進むのも結構早いわけです。ネットから大量に摂取していれば。
そういう経験から、自意識過剰さを抱えていても、ああ、自分は今自意識過剰になってしまっているなと冷静に見ている自分もいるというのが自分にとってのリアルです。三才山先輩は生きづらいで描かれているのは、その部分をなかったことにせず追いかけていくことだなと思いました。自分の中の鬼怒川くんに打ち消されて、自分の表面には出てこなかったとしても、自分の中には三才山先輩が確実にいて、いないわけじゃない、ちゃんとまだいるじゃないかと自覚することがとても愛おしくなるわけです。
自意識過剰さ、実際、他人の目線の網目をかいくぐるようにして生きなければいけないのなら、それは本当に生きづらいと思います。でも、自分がすることについて、他人が何を考えているかを想像するということは、他人と上手くやっていく上では役立つ能力でもあるんだろうなとも思います。
その察しが正確でなければ誤解でトラブルも起きますし、察し過ぎて一歩も動けなくなってしまうと辛いですが、でも、自分がこうしたとき、相手がどう思うんだろうって考えるのは、優しさの一種でもあるなと思っていて、その過敏さを意図的に鈍麻させるテクニックを身につけながら、社会の中で上手く流れていく方法を得ていくのは、僕自身がやっていることでもあると思っているので、そう悪いことじゃないなと思っています。
ということで、三才山先輩に対しては自意識の先輩として、先輩面して見ているわけですが、今の自分も何年後かの自分からすると、まだまだ自意識過剰で、それにあまり気づいてないから助かっているだけかもしれないし、自意識はいったい何周目までやればいいのかは分かりません。
皆さんは今自意識何周目な感じですか?
あと、前作の「hなhとA子の呪い」についての感想も前に書いてるので、よかったら読んでください。