漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ミッドサマー」vs「かんかん橋をわたって」

 映画の「ミッドサマー」と漫画の「かんかん橋をわたって」を戦わせたらどちらが勝つのか?誰でも一度は考えたことがあると思います。なぜならこの2つには強い共通点があり、その比較を考えてしまいやすいからです。

 

ミッドサマー

  • スウェーデンに独特の文化を持つホルガ村がある
  • 主人公はそこの祝祭に招かれる
  • 独特の文化との間に困惑が起こる
  • その中で恋人への不信感が発生
  • 主人公はそこに居場所を見つける
  • 9という数字の持つ意味が最後に分かる

 

かんかん橋をわたって

  • 日本に独特の文化を持つ川東という地域がある
  • 主人公はそこの家に嫁入りする
  • 独特の文化との間に困惑が起こる
  • その中で夫への不信感が発生
  • 主人公はそこに居場所を見つける
  • 9という数字が持つ意味が最後に分かる

 

 どうでしょうか?このように都合よく単純化するとおどろくほど似ていますね?

 そして、この2つの作品には大きな違いがあります。ミッドサマーでは主人公は文化側に取り込まれてしまいますが、かんかん橋をわたっては、その文化を一度飲み込んだ上で新しい文化を地域にもたらすことになるということです。

 

 どちらがいいという話ではないかもしれませんが、ミッドサマーはこのあとに主人公にとってあまり良くないことが起こるのではないか?という予感が示唆されていたように思ったので、主人公にとっての頂点はあのラストまでだったのではないか?と思ってしまいました。

 ミッドサマーとかんかん橋をわたって、どこで差がついたのか?慢心、環境の違い、そういうことを考えていきたいと思います。

 

 かんかん橋をわたっての主人公、渋沢萌は「姑が嫁をいびる」という文化の中で、姑の不二子のいびりと戦いながら、ときに勝ち、ときに負け、徐々に強い嫁として成長していきます。川東いちのおこんじょうと呼ばれる不二子に嫁として鍛え上げられた萌は、徐々に地域の虐げられた嫁たちをまとめ上げて連帯し、ついには、この地に嫁姑の確執の文化を作り上げた真の敵との戦いに向かっていきます。

 

 一方で、ミッドサマーのダニーは傷ついた女性です。家族の自殺によって受けた強いショックを抱えたままで、恋人たちとともにホルガ村の祝祭に参加し、その文化を最初は受け入れ、そしてその詳細が徐々に明らかになっていく過程で、それを受け入れていいものかという困惑が生まれます。そこで広がっていくのは恋人への不信、それは心の中に薄々ありながら否定しようと努めていた感情かもしれません。そして、その心の隙にやってくるのがホルガ村からの彼女への受容の態度なのです。

 

 萌とダニーの大きな違いは「独自の連帯」ではないかと思います。

 異なる文化を持つ人々同士が出会ったとき、人がとれる行動は4つです。つまり、「相手の文化を受け入れる」「自分の文化を受け入れさせる」「そのどちらも拒否して去る」、そして「互いに共有できる新しい文化を作り上げる」です。

 ダニーはホルガ村の文化を受け入れる形で連帯を得ましたが、萌は川東に新しい文化をもたらすという独自の連帯を作り上げました。

 

 例えば、ダニーがホルガ村の住人達と、ホルガ村の文化とは異なった形で独自の連帯を築くことができていれば、おそらくあの物語は違った結末を迎えたはずです。ホルガ村の住人達は、村の文化を受け入れて暮らしていますが、しかしながら、必ずしもその文化を受け入れることが完全な幸福ではないということも示唆されていたように思います(ラストの建物の内部などで)。

 ダニーがそこにつけこめば良かったのかもしれません。しかし、ダニーにはそれができなかった。ダニーにはそれができなかったんですよ。いや、ダニーではなくても、そんなことは簡単にできることではないのかもしれません。

 

 では、なぜ萌にはそれができたのか?

 

 それは好敵手であり、ある種の師匠でもあった姑の不二子の存在があったからに他なりません。

 不二子の目的は、かんかん橋をわたっての真の敵、この川東という土地を支配する文化の象徴であるご新造さまを打ち倒すことでした。しかし、そこには「倒すとは何か?」という疑問があります。不二子は強い女です。たったひとりでもご新造さまを打ち倒すこともできたかもしれません。しかし、不二子はそれをしませんでした。

 

 何故か?

 

 それは結局のところ自分ひとりだけのちっぽけな勝利でしかないからです。ご新造さまによって呪いと言ってもいい姑が嫁をいびる文化を植え付けられた川東という土地で、強い女が強い女を倒したとしても、支配されていた人々自身は何も変わりません。勝った自分をその代替品として、再び支配されようとしてしまうかもしれません。だって、支配される人間は、支配されていることが一番ましに見えるから支配されているのです。

 そして、自分が去ったあとはどうでしょうか?そこに残るものは何になるのでしょうか?

 

 だから、不二子は萌を鍛えました。いびっていびっていびり続け、それでもなお、いびられたままではない強い女に萌は成長しました。萌は仲間を増やします。それは決して支配されない心を持った、嫁たちです。

 ご新造さまの支配が一番強かった旧街道沿いの嫁たち、彼女たちは全員嫁姑番付9位の女たちでした。でも、それをただ受け入れていたわけではありません。密かに反旗を翻す準備を進め、萌と連帯して、ご新造さまを打ち倒してみせるのです。

 かんかん橋をわたってでは、こうやって人々が9の呪いから解放され、その前には自由な未来が広がりました。

 

 その一方で、ダニーはホルガ村に伝わる9人の生贄を必要とする儀式に協力することの方を選んでしまうのに。

 

 つまり、ミッドサマーのダニーがホルガ村に取り込まれることになったのは、そこに不二子がいなかったためだと考えることができます。不二子…その名の通り不二の人材…(今回一番書きたかったダジャレがでたので、この先はもう読まなくてもいいです)。

 

 でも、想像してみてくださいよ。ホルガ村にやってきたのが不二子と萌だったとしたら、ミッドサマーがどのような映画になっていたかを。不二子は姑です。姑とは嫁に背負わされた「家」という重荷を「古のものよ」とあわざらい解き放たれた存在なのだと、不二子は言います。

 不二子は古いものに囚われません。古くから続いてきた因習には、もちろん意味もあったりするでしょう。その因習があったからこそ、その集団は生き延びてきたのかもしれません。しかし、それらの因習をただ無批判に受け入れ、その中で生きていくということは果たして良いことなのでしょうか?

 本当に必要なのは、その意味を知り、必要なものと必要ではないものを時代時代により分け、再定義していくということなのではないでしょうか?

 

 僕には見えます。そのおこんじょうを武器にホルガ村の人々をもてあそび、自分の支配下においてしまう様子が。あるいは、萌が、そのきっぷの良さと強い心でどんどん仲間を増やしていく様子が。

 今こそがこの世の最先端です。今の良さは、より新しいものと沢山の古いものの両方を知ることができるということです。今に生きる我々は、その中から、何が今必要で何が今必要ではないのかを、より分けて受け入れる権利が昔よりもより多く与えられていると考えることもできます。そして、未来では今以上に。

 

 古いものに意味がないわけではありません。しかしながら、古いからこそ続けていくべきとも限りません。萌という名前には、芽吹くという意味があります。新しく生まれてくるものです。しかし、ただ新しいだけでも意味があるかはわかりません。萌が不二子との戦いの中で成長したように、人は古いものと新しいものを含めて、今とそして未来を生きるために、常に今受け入れるべきものを再定義していかなければならないのではないでしょうか??

 

 そういう個人的な偏った気持ちを込めて、ミッドサマーとかんかん橋をわたってを戦わせたとき、勝つのはかんかん橋をわたってとしたいと思います。決まり手は「おこんじょう」。

 

 以下はおまけで、以前それぞれについて書いた感想です。

 

mgkkk.hatenablog.com

mgkkk.hatenablog.com