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「辺獄のシュヴェスタ」に見る誠実さ関連

 辺獄のシュヴェスタ、めちゃくちゃよい漫画なんですけど、何がよいと感じるかというと、主人公エラの生き方です。

 

 彼女は幼い頃から、自分で考えた自分の正義に基づいて行動する子供でした。一方、世間では世間で共有された正義こそが正義であり、それに基づいて行動することが一般的です。であるがゆえに、自分たちとは異なる正義の原理に基づいて生きる人のことを、世間は狂人として扱ったりします。

 エラはその意味で狂っていたとも言えます。しかしながら、そのように自分の正義を執行するということ、その上でその正義にそぐわない他人をぞんざいに扱うということの暴力性を、義理の母親アンゲーリカが真剣に教えてくれ、社会との接点を獲得していきます。エラが義理の母に出会えたことは幸運です。実の母は、そんなエラの抱えるものを恐れるがゆえに、子を売りに出してしまいました。

 

 自分の目から見てどんなに憎むべき存在でも、その人の生を望む人が他にいるということ、それをないがしろにするということは、自分の大切にしているものを、他人に破壊されてしまう痛さと同じだということを学びます。粗末にしてよい命などない。それがエラが母から教わったことです。

 エラはそんな母を、人の命を粗末に扱う人々によって奪われてしまいます。

 

 魔女狩り、それは根拠がないものを根拠に仕立て上げるための正当化の手続きです。告発を受けた人は、どんなに弁明しようと、逃れられない手続きで魔女に仕立て上げられてしまいます。彼女は魔女である、なぜなら魔女であるから。バカバカしい同語反復によって、人間が魔女として殺されてしまいます。なぜ彼女たちは殺されてしまうことになったのか?それは彼女たちが何らかの意味で殺された方が都合がよいと考える人々がいたからでしょう。

 そしてそれは彼女たちが魔女だったからではありません。本当の理由は、もっともらしい理由に糊塗されて隠蔽されています。このように自分の都合を正義にすり替えることに躊躇がない、誠実ではない人々が優先的に利益を得ているのです。

 

 エラの母もまたその不誠実な流れに飲み込まれてしまいます。彼女は自分が魔女であると認めるのです。なぜなら、そうしなければエラが危険にさらされてしまうからです。彼女はまた、別の人物を魔女であると告発します。なぜなら、そうしなければエラが危険にさらされてしまうからです。彼女は魔女ではなかったし、別の人物も魔女ではありませんでした。それは嘘の話です。母にとっての本当の話は、エラに生きて欲しかったということでしょう?そのために彼女は嘘をつきました。自らを魔女と認め、罪なき他人を告発せざるを得なかった。

 この世は嘘にまみれ、自分の本心を丸裸で見せることがなかなかできません。それは悪いことでしょうか?そうせざるを得ないことは弱いことでしょうか?

 

 通称、「分水嶺」と呼ばれるその修道院には、親を魔女として殺された子供たちが集められ、過酷な生活を強いられます。エラもその中のひとりとなります。

 彼女の母を理不尽に殺した修道会の人々は、その少女たちを利用して、また別の人々を不幸に追い込もうとしています。それらは全て彼らの偉大で遠大なる目的のためです。彼らと同じ神への信仰によってこの世に安寧をもたらすため、一度人々に疫病という災厄をもたらし、そこからの自作自演の救済を演出しようとしているのです。

 

 その中で生きるエラの目的はただひとつ。修道会の実権をを握る総長、エーデルガルトを殺すこと。その目的のために彼女は様々な犠牲を払い、困難を乗り越えて行くのがこの物語です。

 

 辺獄のシュヴェスタが何を描いた物語かというと、僕の解釈では、「誠実であること」だと思っています。それはつまり、自分が成すことの意味を正しく捉え、ごまかさず、そのままに抱えて生きるということです。

 これは大変特異なことです。なぜなら、僕自身を含め、普通の人は自分の欲望をそのまま表には出さず、何かしら他人が受け入れやすくするための包み紙を用意した上で外に出すものだと思うからです。

 

 人と人との争いは、その大部分が「利害」の話だと思うのですが、語られるときはそれらがなぜか「正義」の話として表面上を塗り固められていると感じることが多々あります。それは誠実ではない話だと思うんですよ。ごまかしている話だと思うんですよ。そして、世の中は基本的にそういう感じなんだと思うんですよ。

 自分が利益を得るために主張していることを、社会的に正しい行為であるとすり替えて主張されるのは、その方が得だからだと思います。なぜなら、その正義が通るならば、他人に堂々と不利益を押し付けることが可能になるからです。

 ここで言う「正義」はとても狭い意味で、つまりは当人の中での辻褄です。どんなに客観的にわかる悪事をしている人でも、当人の中ではそれなりにそれを正当化する理屈が存在しているということです。つまり、多くの悪事は、正義の名のもとに行われます。例えば、それは法律違反かもしれない、例えばそれは、誰かを傷つけることかもしれない、だとしても、それをして十分と思える正しい理屈が当人の中にあるからするわけです。正しさは、行為を駆動するために焚きつける免罪符として機能します。

 注意しておくべきなのは、これは「だから正義が悪い」という話ではないんですよ。なぜなら、皆に利益をもたらす多くの善行だって、正義の名のもとに行われたりするからです。正義があるということは、ただの自己肯定であり、特にその行為の客観的な評価を意味しないということです。

 

 辺獄とは、洗礼を受けずに死んだ者が辿り着く場所です。洗礼を受けないということは人が原罪を抱えたままということです。エラは辺獄のシュヴェスタです。シュヴェスタ(女性修道士)でありながら、辺獄に辿り着く者です。それはつまり、神の御名のもとで罪を洗い流さず、そのまま罪として抱え続けているということではないでしょうか?そこにあるのは、自身が抱えた罪を、どのように取り扱うべきかを探求し続ける姿です。

 

 エラは総長エーデルガルトを殺すことを、何の正当化もしません。それは、ただの自分自身の「暴力」でしかないと結論します。その暴力は罪であり、彼女には自分自身が罪人であるということを受け入れる覚悟があります。エラはその場所に辿り着くまでに、いくつもの罪を犯します。それは、上手く理屈をつければ十分に正当化だってできるはずのものなのに、彼女は、それらを悪いことだと捉えます。それによって他人から憎まれ、恨まれても当然のことであると。

 その行為がたまたま価値あるものとして解釈できたとしても、それは自分の栄光ではなく、そのために犠牲になった人にせめてもの償いとして与えられてほしいと。

 

 この物語が洗い出しているのは、罪を犯さずに生きていくことなどほとんどできようがないということではないかと思います。生きている限り少なからず、誰かを傷つけ、誰かをないがしろにし、誰かを犠牲にしてしまうものではないでしょうか?果たして、それを完全に避けて生きることできるでしょうか?普通はそれを適当にごまかして生きているんじゃないでしょうか?

 それらはある種の洗礼と言えるかもしれません。誰しも、自分の抱えるはずの罪を洗い流してくれる便利な理屈を、生きてきた中でいくつも身に着けてきたているんじゃないでしょうか?

 

 便利な理屈の代表的なもので言えば「自業自得」という概念です。この言葉は自責の言葉に見えて、他人に対して使われるときには真逆に機能し、他責を強調する言葉になります。あなたが困難に陥るはめになったのは、あなたのこれまでの行いが原因であるという説明です。つまりそれは、「だから自分には全く責任がない」という意味になるのではないでしょうか?これにより、自業自得という言葉は、困難に直面する他人を助けないことを正当化する理屈として機能するようになりました。

 差別は悪いことだ、イジメは悪いことだ、当たり前です。みんな知っているでしょう?でも、差別やイジメに当たるかもしれない行為を全くせずに生きて来られた人がいるでしょうか?自分は全くしてこなかったという人は、別の人から見れば差別やイジメに見える行為に何らかの解釈を適用し、「だからこれは差別でもイジメでもない」と例外として正当化しているだけだったりしないでしょうか?

 

 自分が決定的な間違いを抱えた悪者として生きていくことは辛いことです。だからせめて、何らかの理屈をまとうことで、自分たちの行う行為をなんらか正当化し、罪を抱えることを避けるのが、気楽に人生をやっていくコツです。

 

 そしてそれは作中の修道会側の理屈でもあります。自分たちの崇高な目的が、そのために犯した罪を正当化してくれるという話です。そして、エラはそれをしようとしません。自分の正義のために犯した罪でも、罪は罪です。それは決して許されるものではないと抱えて生きる選択をします。これはそういう価値観の闘争だと思いました。

 この物語はエラの勝利で閉じますが、それは別にエラの考えが全てにおいて正しかったということは意味しないのではないかと思います。修道会の野望は潰えましたが、似たようなものは今後も生まれてくるでしょう。そして、誰しもがエラになれるわけではないのですから。

 

 この物語の救いは、罪を抱えるからといって、エラがその罪に相応なものとして自分の命を差し出すというようなことは全く考えないということでしょう。誰しも多かれ少なかれ罪を抱えているものだと思います。しかし、それを抱えたまま生きています(中には死を選ぶ人もいます)。ここにあるのは自分の抱えた罪をごまかして生きるか、認識して生きるかという違いです。

 死ぬか生きるかという選択では、僕は生きる以外が選べません。僕もたくさんの間違いを抱えて今までやってきたと思います。それでもやっていくわけじゃないですか。ただ、自分が何かを決断するとき、それを後押しする理屈は、自分の罪をごまかすものではないのか?を考えて、辺獄に片足だけでも踏み入れておくのもいいのではないかと思います。

 それがエラの生き方に感じ入ることがあった僕の心への誠実さだと思うからです。