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宗教に対する色々な気持ち関連2019

 「宗教」という言葉には日本ではあまり良いイメージがないかもしません。

 僕自身特定の宗教には入っていません。ただし、自分なりの信仰というか、あらゆるルールの前に守るべき規範というようなものは設定して生きています。それが人によっては宗教と同質のものなのかもしれないという認識があります。

 

 例えば、考えすぎて前に進めないときに、「これはこういうものだ」と信じることで前に進めることだってあるじゃないですか。そこで限界まで悩むことが誠実さだろ?って話も分かります。でも、時間も労力も有限で、悩んでばかりもいられないじゃないですか。だから、そのように最初から答えが決まっている信仰を獲得していることが、とにかく先に進むための言い訳として機能することもあるわけです。信仰があるおかげで、かろうじて前に進めているような状態ですよ。事実、僕自身もそうしているわけで。

 そもそもあらゆることに誠実なだけの考える時間と納得のいく答えを得て、それを周囲と共有していくということをひとりひとりがやっていくことは、現実的には難しいと思っていて、だから、どこかで誰かが考えたものを正しいものとして信じていくということが必要とされがちなのではないでしょうか?

 それが宗教という存在が担う領域のひとつなのではないかと僕は感じています。そこが宗教と呼ばれるものじゃなくても、別の何かで普通は埋められているものだったりしないでしょうか?それは、法律かもしれません、道徳かもしれません、マナーやルールかもしれません、あるいは世間の空気かもしれません。

 あらゆることに自分でじっくり答えを出せるほどにはゆったりとしていない世の中では、「とにかく答えを獲得するためのショートカット」として、「何かを信じる」ということが求められがちです。

 

 日本の文化には、様々な宗教の様々な様式が入り混じっていて、もはや明確に区別することに意味を成さない独特なものとして息づいているように思います。ただ、それらの多くはただの形式の模倣であって、その宗教の核のような部分がその中にあまり含まれていないんじゃないかとも思います。それを無宗教と呼んでいるのかもしれません。

 でも今挙げたように、特定の宗教ではなくとも、何かを信じるということで世の中を生きやすくすることはきっと誰しもあるはずです。

 

 「信仰とは信じるために信じることである」

 

 僕のこの宗教観はグレッグ・イーガンの「順列都市」に登場するマリアとその母のやり取りに強く影響を受けています。マリアの母は、新興宗教である「何も変えない神の教会」の信者です。この新興宗教の教義はシンプルで、「神は存在し、そして人には何一つ影響を与えません」。つまり、信仰することによる利得は何一つなく、ただ神を信じることのみがその意味です。

 ここで説かれるのは、信じるために信じるということ、つまり、定義が入れ子になった同語反復(トートロジー)です。論理的には全く無意味なそれが、人が生きる上での手がかりになることを母は説き、信仰を築くならばファンタジィよりもトートロジーの上の方がましだと言うのです。マリアにはそんな母がまるで理解できません。マリアは肉体の死が近い母にスキャン(人格のコピーをコンピュータの中に作ること)を受けるように求めますが、母はそれを拒絶します。

 物事を考えるとどこかで答えが出せないところが出てきます。いくら考えても答えがでないことを考え続けることに疲れてしまった僕は、一部の考えを、理由のあるものではなく、トートロジーとしての信仰のように受け入れることにしました。そう考えると、物事への取り組み方がシンプルに整理できたんですよね。

 

 僕が抱えている信仰の一つを例示してみると「あらゆる人間は平等である」などがあります。これが信仰となったのは、いくら考えても自分が納得できる理由を得ることができなかったからです。

 「そんなことはない、人は平等じゃないか」と思ったりするかもしれませんが、僕もそう思いたいですが、でも、他人を別の誰かと比べて価値がないなどと思ったことはないでしょうか?僕はあるんですよ。悲しいことに。人は平等だなんてうそぶきながら、何かしらの条件を付けて、価値のある人間と価値のない人間に分けようとしてしまったりします。自分のその性質に気づいてしまったので、そこを信仰で塗りつぶすことにしました。

 理由はなく人は平等です。それは信仰だからそれでかまいません。信仰によって提示される「人は平等である」という前提から、色々なことを解釈することで様々な物事に相対するときの思考をシンプルにしました。

 

 僕はこのような感じに、まったく理屈で説明できないことを恒真な信仰として取り込むことで物事を考えています。その信仰を共有していない人から見れば、イカレていると見えるでしょう。無から結論を得ているからです。

 信仰の強いところは、ロジックに負けないことです。なぜなら最初に確信があるからです。組み上げられたパズルはバラバラにして組み替えられますが、一枚の岩ではそれはできません。どのような理屈を並べ立てても、そこが真であることを崩すことができません。信仰の厄介な部分もまたそれです。受け入れるか、破壊するしかないのです。

 

 僕はこのように信仰とか、宗教とかを捉えていて、一般的に名前のついていないものでも、このように信じるために信じるという領域に入っていれば宗教の範疇に入ると思っていますし、そのような信仰同士が対立し、争う場合には、宗教闘争だなと思ったりします。でもって、僕も自身の信仰をバリバリに自覚しているので、ここで出てくる宗教という言葉には特にネガティブな意味はないんですよ。

 自分自身の信仰を確かめる方法は簡単で、何かの考えがあったとき、「それはなぜ」を5~7回ぐらい繰り返せば、「だってそういうものだから」みたいな野蛮な決めつけが登場するでしょう。それです。

 

 例えば、何かの少年漫画が素晴らしいと感じたとして、その理由を「少年の成長を描いているから」と答えたとします。一見理屈っぽいですが、なぜ少年の成長を描いていれば素晴らしいのかの説明がありません。なぜ老人の死を雑然と描いた漫画ではダメなのでしょうか?読者として想定している少年に対してはそれが重要なことだからでしょうか?でも、それは本当でしょうか?

 なぜ?なぜ?を続けれていけば、結局それはそういうものなんだよ!で済ますしかない領域に到達します。もしくは理屈ではない強烈な体験が、そのもの根拠に成り代わることもあります。そして、それらを信仰として受け入れてしまうか、さらに理由を考え続けるかの選択肢が人にはあるわけです。

 

 このように、人は普通は何かを信じて生きていて、何を信じるかは人によって違うということです。同じものを信じている人が集まり、互いにそれを強め合うならばきっと宗教や類似する何かになります。何も信じないでやっていける人は異常に強いか、悩み過ぎて心を病みがちな印象があります。

 

 僕はこのような考えなので、宗教を信仰するということに対しては、それが自分に必要だと思ったならすればいいんじゃん?って思います。僕自身が似たようなもので心を固めている以上、それは自分を許すための判断となるからです。

 

 世の中には、宗教を信じている人を、宗教を信じているからという理由で馬鹿にしている人がいます。それはつまり、誰かがくれた答えを疑うこともなく信じている人に対して、自分はそれを信じていないということに何か意味を見いだしているのではないかと思うのですが、だからといって、信じていない人が身の回りにあるひとつひとつの問題について、自分で根拠を持って答えを出しているかというと、別にそんなことはないようにも思います。

 科学とかはその典型例で、科学とはおおざっぱに言えば「疑うこと」ですが、科学を信じてしまう人もいます。

 でも、それも仕方がないわけですよ。これまでの歴史で無数の人々が踏み固めてきた科学について、自分でひとつひとつ検証するには時間も手間も環境もお金も足りないのですから。だから信じることにしたわけでしょう?でも、それって宗教を信じていることとどれぐらい違うんでしょうかね?結構違うと思います。ただ、そこにいざとなれば自分で徹底的に疑い、反証するという態度がないのであれば、何を信じるかを選択したに過ぎないようにも思えます。

 海外に出た何とかという論文にこういうことが書いてあった、という話題のときに、元の論文を読んでみる人は少ないように見えますし、自分でも再現実験をしてみようとする人はもっと少ないでしょう。でも、そんなふうに、それを信じるか信じないかというところにしか足場がないなら、それも結局、信仰の問題となってしまうのではないでしょうか?

 なぜ信じるのでしょうか?なぜ信じないのでしょうか?信じた方が都合がいいからでしょうか?自分が信じている人が、信じていると言ったからでしょうか?もしくはその逆でしょうか。

 

 何もかもを疑い続けることができなかった僕は信仰に走りましたが、みなさんは疑っていますか?いつまで疑い続けることができますか?