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「児玉まりあ文学集成」と魔法としての言葉関連

 手塚治虫文化賞の候補に「児玉まりあ文学集成」がノミネートされているっていうじゃないですか!これは選んだ人たちはなかなかええセンスしとるやんけ!!と思わざるを得ません。ここで言う「ええセンス」とは何か??それはつまり「僕のセンスと同じ」ということです。僕は僕の世界にとって唯一無二のモノサシだからです。

 

 児玉まりあ文学集成はめちゃくちゃすごい漫画なので、皆さんも読んだ方がいいと思うのですが、ここで言う「すごい漫画」とは何か?というと、「読む前と読んだ後で、物事の捉え方が変わってしまう」という意味です。どうしても強く影響を受けてしまいます。

 

 児玉まりあ文学集成が何の漫画であるのかと言えば、文学の漫画であり、言葉の漫画です。

 言葉とは何か?それは、物質ではないものであり、エネルギーではないものです。それはつまり、この世のあらゆる物理法則から、本来自由であるもののはずです。しかしながら、我々の使っている言葉は、ときにとても不自由です。児玉まりあ文学集成は、その不自由な言葉を自由に解き放ってくれる鍵のような漫画です。

 

 第一話の冒頭、「木星のような葉っぱ」という言葉が出てきます。その意味を問われても、そこに意味はありません。葉っぱのどこに木星の要素があるのか?と問われたら答えることができません。ならば、「木星のような葉っぱ」という言葉は存在し得ないのでしょうか?つまり、それが不自由です。言葉が存在するには、そこにはそう表現するに足る十分な理由があるべきだと思うということが、本来言葉の持っている可能性を制限しています。

 「木星のような葉っぱ」という言葉は、本来結びつきのあるはずのなかった二つの存在の間に関係性を生み出します。言葉の上でだけ。

 

「それが文学よ」

 

 児玉さんは言いました。

 このように、第一話の冒頭の数ページだけで、「文学とは何か?」という問いにとてもとてもシンプルかつ明瞭な答え方が提示されています。言葉は物質でなければエネルギーでもありません。であるならば、因果関係にも囚われませんし、ゼロサムになるような保存則も存在しません。融通無碍、全てであり、全てでなくあることができる何にも束縛されない可能性です。

 しかしながら、僕たちはその無限の可能性のある言葉を、そのような文学として利用することを、ときに忘れてしまいます。児玉さんは、それを教えてくれ、あるいは思い出させてくれる少女なのです。

 

 僕は魔法という概念が好きです。現実にはありえるはずのないと思われることが起こり得ることが魔法だからです。それは、現実の外側に踏み出せるための足場だからです。しかしながら一方で、物語に登場する魔法は、ときに疑似科学のようなものに巻き取られがちでもあります。魔法の原理が詳細に設定され解説されるとき、そこには理屈があり、理屈がある以上はできることとできないことが生まれてしまいます。

 もちろん疑似科学だって面白いですよ!それでも、魔法が疑似科学となることで削られてしまう領域と言うものがあるわけです。

 だから、僕はドラえもんひみつ道具に惹かれてしまいます。あれらは科学の成果物と言われながらもとても魔法的、つまり、原理という過程を必要とせずいきなり結果を実現できる存在であるからです。もちろん制約はゼロではありませんし、理屈の必要な科学と理屈の不要な魔法を繋ぐグラデーションの中にあるものでもあるのですが。

 ジョジョの奇妙な冒険スタンド能力も、ハンターハンターの念能力も、過程を必要とせず、結果を得られる概念です。しかしながら、それらは完璧な魔法ではなく、疑似科学的な制約のグラデーションの中にそれぞれのポジションがあります。

 

 人は理屈に取り込まれてしまいやすいのではないかと思います。絵を描く場合でも、人は割とすぐに禁則を作ってしまいます。僕自身で言えば例えば「人の目を描くときに、黒目を点だけで描く」ということをできるだけしないなどの謎の縛りを抱えています。それは、「だって人間の黒目は点みたいに小さくないでしょ…」っていう理屈からなんですが、本当はそんな縛りがない方が多様な表現ができるんじゃないかという悩みを抱えているわけです。

 あるいは、デッサンは重要なことですが、デッサンに強く囚われてしまうと、デッサンのとれていない絵を間違っていると思ってしまったりするんじゃないでしょうか?絵だって本当はもっと自由にできるものでしょう?それをいつの間にか勝手な理屈で狭めてしまい、気づけばその中に入り込んで出てこれなくなったりしてしまうわけです。

 

 言葉には質量やエネルギーがないおかげでそこでは何もかもが可能です。世界の支配者に実際になることはなかなか難しいことですが、「自分が世界の支配者である」と名乗ることは今この瞬間からでもできます。無から有を作り出すことができます。無限をゼロにしてしまうこともできます。

 

 詩や文学の存在は、あるいは人が自由であることそのものなのかもしれません。そう、言葉の上でだけならば。

 

 「児玉まりあ文学集成」を読んでない人は、読むことで、自分が思ったよりも自由であることに気づきましょう。この世には魔法があることを知りましょう。

 願わくば、手塚治虫文化賞が多くの人にとってのそのきっかけになりますことを。

 

(2020/03/08追記 以下で読めます)

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