漫画皇国

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軽い気持ちでえらいことが起こってしまう関連

 世の中で起こる重大なことのきっかけは、誰かの軽い気持ちでやってみたことであったりすることがある。軽い悪ふざけのつもりが、人の生死に関わるような事故を引き起こしてしまったりする事例も多々ある。そういう事故について、反省会のようなものに参加していて思うのは、それは軽いことではなく重いことなんだということを自覚しろというような論調が存在することで、それはそれで正しい認識だとは思うものの、やらかしてしまった当人の中では本当に軽い気持ちでしかなかったのだろうともまた思ってしまうことがある。

 

 それらの軽い気持ちで行われることについては、結果的に運よく事故に繋がらないことも多いからだ。むしろ、事故にならないことの方が多いだろう。本当はちゃんとすべきことをちゃんとしなくても何も問題がないということを繰り返すことによって、ちゃんとすることが馬鹿らしく見えてしまうかもしれない。そして、ちゃんとしていたって事故を確実に防げるとも限らない。ちゃんとしていたことで守られるのは、あらかじめ共有されていたルールを守っていたということによって、それらが個人の責任ではなく、集団のルールの責任であると転嫁され、個人がある程度免責されるということだけだ(なお、ちゃんとしていない組織では、たとえルールに準じた行動であっても個人の責任を強く追及されることもある)。

 

 前から時折書いていると思うけれど、世の中は保存則を適用すべきでないところにも保存則を見出しがちだ。「ああっ女神様っ」にも「幸運量保存の法則」というものが出てきた。幸運があれば、それに対応した不運が存在してしまう。「HUNTER×HUNTER」にも制約と誓約という能力の強さを縛るためにそういうのリスクを背負わされる仕組みが出てくる。何かを得るにはそれに対応した犠牲が必要と考えてしまうことがある。無から有は生まれないと考えてしまう。でもそれは何らかのルールによって閉じた系でなければ成り立たないことじゃないだろうか?

 世の中で起こる事実関係の認識は、それを認識する人間の解釈によって成り立つものであって、その中では辻褄があっていても、別の視点からすればそうでないものだと僕は感じているのだ。

 例えば、何か悪いことをしたとき、その後に何か悪いことも起こってしまうと、「バチがあたった」と考えてしまう。これは一見保存則のように思えるけれど、実際は人間の認識の問題でしかない。何か悪いことをしたという後ろめたさに対して、たまたま起こった不運を繋げて認識してしまっただけだ。そこに因果関係が存在しなくてもそう思ってしまう。悪いことをしたあとにたまたま幸運があっても、それらを繋げて捉えたりはしない。なぜなら、それらは釣り合わないからだ。

 

 つまり、「軽い気持ちで起こったこと」が、それらは実は「軽い気持ちで行っていいことではなく実際はとても重要で重大なことだったんだ」という認識は、実際に起こってしまった事故などの大きな不幸によって支えられているということだ。だから、実際はまだ一度も起こったことはないけれど、それはヤバいのではないか?というようなことをやっている人に対しては、その言葉はなかなか届かない。

 それらはヤバいことなのだけれど、軽い気持ちで行われてしまう。なぜなら、それによってまだヤバいことが起こったことがないからだ。起こってもないことを想像して危惧して、その重要さを説くことは、往々にして笑われてしまう。

 半面、一度でも何かが起こってしまった限りは、それが延々何かをする際のリスクとして繰り返し語られてしまう。世の中で一度失敗したものが通りににくくなってしまうのは、それがダメな理由が説明しやすいからだと思っていて、どれだけリスクへの対策を行っていると説明したところで、「でも実際事故は起こったじゃん」という現実の強さには抗いがたい。

 

 こういうことを書くと、「ぼかしているけどアレのことを言っているんだな」と思ってしまう事例が1つや2つは出てくるのではないだろうか?でも、僕はそんな話をしていなくて、もっと一般的な話をしている。それでも、そう認識してしまうのならば、まさにそれこそが僕が今書いていることで、「何か不幸が実際に起こってしまった」ということはそれだけ強い力を持つということだ。

 

 結局何が言いたいかというと、それが大きな不幸を生み出してしまったからといって、そのきっかけになったことは本当に軽い気持ちで行われてしまったことであって、そして、それらを本当は重要なことだと思って日々行動しろというのは、正しい意見だけれど、あまり強い力を持つことはできないんじゃないかということだ。

 それらが重要なことだと考えることができるのは、実際に何かしらの不幸が起きてしまったときだけで、それ以外ではそれが重要なことであると認識するのも難しい。起こってしまった時点から遡って、軽いことが重いことだと指摘され、断罪されたとしても、それを実際にしてしまった過去の時点ではやはり軽いことでしかなかったのだ。

 それでもそれによって重大な事故は起こりうるし、そうであったとしてもそれが起こることを防がなくてはいけないというのが、人間の安全に対する取り組み方なのではないかと思う。

 

 軽い気持ちと、重大な事故を結び付け、それらは軽いことではないと認識するのは、責任追及のためのテクニックのひとつであって、それをそのまま世界に適用しようとすると、世の中には重要で重大なことが増えすぎてしまい、ルールで雁字搦めになってしまう。実際に経験のある人も多いのではないだろうか?100回あるうちの1回を防ぐために、残りの99回についても、面倒で厄介な手続きが増えることになる。にもかかわらず、その1回は依然として起こっているというようなことを。

 

 一度起こってしまった不幸には、それを防ぐためのルールが付きまとう。それを場当たり的にやっていると、無数のルールが生まれてしまう。ルールが厄介すぎて、ルール違反が常態化することもある。そしてルールを無視したことで、さらなる事故が起きてしまい、ルールがより強化されてしまうこともしばしばだ。

 何のために作られたルールであるかも、運用する人たちが忘れてしまったようなものもある。でも、そのルールを無視すると、何かしら起きてしまう可能性が高まるのではないか?と考えると、おいそれとそれをなくすことはできない。

 長く運用されているものはこのように複雑化し、それらをシンプルにするために、新しく作り直すとしても、無数の零れ落ちが生まれてしまう。それによって、なんだ新しく作ったものは、あれもこれもできないし、ボロボロで移行するに値しないじゃないかと評価されたりもする。かくして、その無数のルールで雁字搦めになった物の中に多くの人が留まり続けるのを目にしてはいないだろうか?

 

 いつか、自分たちが生み出した無数のルールの海の中で、窒息死してしまいそうになることを危惧しながらも、守ってくれるルールの乏しい新しい海に漕ぎ出すことができないでいる時間、それが苦しい(水中、それは苦しい)。

 

 これは、僕が2月11日に開催予定のコミティア123に申し込んでから、12月後半に漫画を描き始め、1月後半には50ページ分の漫画が大体できていた僕の反省の記録である。それは沢山のうっかりが重なりまくってしまったせいで、入稿の予約をしようとした2月2日の夜に元データが完全に消失してしまった漫画だ。

 それが完全に消失してしまったのには、沢山の理由を考えつくことができる。漫画を描き始めてから、一度もパソコンに繋いでバックアップをとらなかったこと。ネット上にも自動バックアップをとる設定を入れなかったこと。あの日は何となくBluetoothのキーボードを持ち歩いたこと。そして、その電源を切ったことを確かめずにカバンに放り込んだこと。Bluetoothのキーボードがカバンの中で勝手にiPadのパスコードを入力していたことに気づかなかったこと。パスコードは連続して間違うと、1時間の入力不可があるにも関わらず、それをカバンにいれたままで何時間も寄り道して家に帰ったこと。その間、一度もカバンの中を確認しなかったこと。パソコンのiTunesに接続すればパスコードは解除できるはずだったのに、パソコンが何をしてもiPadを認識してくれなかったこと。それはもしかすると、iPad側のOSをiPadのみでアップデートして使っていたからかもしれないこと。そして、もしかしたら、何とかすればまだ解除できる可能性はあったのかもしれないけれど、もういいやと諦めて、iPadをバックアップに復元し、自分の手で全てを消去してしまったこと。

 

 こまめにバックアップをとっていればよかった、それは皆が考える重要で真っ当な考え方だ。それをサボるのはよくないことだと皆が同意してくれるだろう。でも、用もないのに、パソコンに接続してバックアップをとるということが面倒だという軽い気持ちだったんです。それが悪い、重大な悪いことだと全てが消え去ってから言われても、そのときはそうは思わなかったし、実際それが一日遅れていれば、入稿のためにデータを取り出すためにパソコンに繋いでいたわけで、同時にバックアップが作成されるわけで、何も問題がなかったと認識できていたかもしれないということなんですよ。

 なあ、皆さん、僕がバックアップもとらずに漫画を50ページ描いていたことは、そんなに悪いことだったんだろうか?僕が思うに、悪くはない…悪くはないけれど、実際にデータはなくなってしまったし、新刊はでないということだけが事実だ。まあ別に、新刊を楽しみにしてくれていると言ってくれていたのは何人かだけだと思うので、期待してもらったのにすまんすまんで終わる話かもしれない。ただ、一か月かけて描いたものが、完全な形では誰の目にも触れぬまあ虚空に消え、もはや僕の思い出の中にしかその物語は存在しないということに何かしら思うところはある(不幸中の幸いは、進捗をネットに上げていたので、下描きは45ページ分Twitterに残っていることだ)。

 僕はこのうっかりな自分を責めないように、再発を防止する手立てを考えるということをしようと思う。また、アレは描きこみ過ぎたネームと認識することにして、そのうちまた原稿にします。

 

 ということで、2月11日のコミティア123に参加しますが、既刊と昨日描いた4ページの漫画をコピー用紙に印刷したもの(無料配布)があるのみなので、ろくにお渡しできるものがありませんが、暇してると思うので、僕の笑顔だけでも見に来てくれよな!!ということをお伝えしたい!スペース番号はC19bです。