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「しょうもないのうりょく」と先天的才能と後天的能力関連

 「しょうもないのうりょく」は、まんがライフオリジナルで連載されている漫画で、この世界の中では「異能」と呼ばれる特殊能力が当たり前に認知されています。ただし、異能は「食べ物の旬が分かる」とか「紙を崩さずに積める」などの、ちょっとした役には立ちますが、ちょっとした役にしか立たない能力が大半です。この漫画では、主人公は「他人の異能が分かる能力」を持ち、色んな人の色んな異能がある中での毎日が描かれています。

 

 ここ最近のしょうもないのうりょくでは、主人公の働く会社の身売りの話があり、そのためにコンサルタントが会社の査定に来るわけですが、そこで見られるのが、社員の異能と職務のマッチングです。適切な異能を持った人が適切な職務に割り当てられているかどうかで仕事の効率性を見られるわけですが、主人公の働く会社ではそうはなっていないんですよね。

 それを非効率と思う人がいます。そして、異能という先天的なものだけによって仕事を割り振るのではなく、後天的なものだっていいじゃないかと思う人もいます。後者の考えを持つ人物とは社長。だから、この会社はこんな感じなのですが、それはいいなと僕は思ったりするんですよね。

 

 三十路に差し掛かったあたりに友達とした会話で、「僕らにももしかすると運動能力的な才能が眠っていたかもしれないけれど、おそらくそれに気づかない間に全盛期が過ぎてしまったな…」というものがありました。歳をとることは悪くないですが、それでも色んな能力が衰えてきます。体力も記憶力も衰えてきたなという自覚が僕にもあります。

 だから、気づかないうちに花が咲く可能性も失ってしまった能力の種が、もしかしたら自分にもあったのかな?と思ってなんだか面白くなってしまいました。人生はそういうところがいいですよね。無駄にするという贅沢です。

 

 ただ、それを知らないから笑っていられますが、知っていたらどうだっただろうな?と思います。しょうもないのうりょくには、そういう示唆もあって、だって、異能が人生を決めるのなら、生まれた時点で既に色んなことが決められてしまっているじゃないですか。

 実際、それに近いことも世の中にはあります。例えば、偉大なスポーツ選手の子供は、周囲が同じ道を歩ませようとしてしまうでしょうし、僕が知る開業医の息子たちは、子供の頃から自分も医者になるものだと周囲の雰囲気から読み取って自覚していました。そう思うことで、跡取りとして周囲が喜んでくれることも分かっていたのでしょう。でも、自分の歩む道が生まれたときに決まっているということを不幸と感じてしまうこともあるかもしれません(もちろんそうでない幸福なケースもあるでしょうが)。

 

 「ナンバデッドエンド」という漫画があって、これは「ナンバMG5」という漫画の続編なのですが、ギャグであった前作から、一歩シリアスに踏み込んだ悲しく苦しいことが描かれた漫画でもあります。主人公の難波剛はヤンキー一家の子供として生まれ、有名なヤンキーであった兄からの期待もあり、自分の夢はヤンキーとしての関東制覇をすることだと無邪気に思って育ちました。

 でも、喧嘩に明け暮れる中学生時代に、剛は普通の高校生の生活に憧れるようになり、親には内緒でヤンキー高に進んだと見せかけて普通の学校に進学をしてしまいます。家では最強のヤンキー、学校ではシャバい男、その二重生活は早々に破綻し、同じ学校の生徒を守るために戦う、マスクを着けて特攻服を着た謎のヤンキーとして剛は有名になってしまいます。身にかかる火の粉を振り払っているうちに、結局自分が望むか望まざるかには関係なく、剛はどんどん関東制覇に近づいてしまうのですが、ここで話はデッドエンドに切り替わります。

 

 剛には暴力の才能がありました。そして皆に頼りにされる人望もあります。剛は自分の才能を求められるままに発揮して、どんどんヤンキーの道を歩んでいきます。でも、剛は本当に最強のヤンキーになりたかったのでしょうか?周りはそうすれば喜びます。助けた人たちには感謝をされます。でも、それのどれひとつとして剛自身が望み、選んだものではありません。

 

 シャバい学校へ進学したことで、剛は絵を描くことが好きな自分に気づきました。そして、将来はこの道を進みたいと思うようになりました。それは剛が自分だけで初めて見つけたものです。そして、その後天的に見つけられた望みは、剛の抱える先天的な宿業によって破壊されてしまいます。親や兄に嘘をついていた嘘はバレてしまいます。喧嘩を続けてきてしまったことは、学校にバレ、進学の道は閉ざされてしまいます。

 半端に周囲の期待に応えず、最初から正直に言っていればよかったのかもしれません。でも、無邪気に寄せられる期待や、自分ならば助けられるという状況を無視できることは剛にはできなかったわけです。

 

 果たして何かの才能があるということ、そしてそれに周囲から期待が寄せられることは、本当に無邪気に幸せだと思っていいことなのでしょうか?(ナンバMG5とナンバデッドエンドはめちゃくちゃ面白いのでよかったら読んでください)

 

 「バガボンド」の柳生石舟斎は、戦乱の世の中で、自分の強さを様々な有力者のために役立てなかったことを「石の舟は浮かばず」と肯定的に語りました。その力を発揮したとしたら、むしろそれが柳生を潰すことになっていたと思ったからです。

 悪い想像をするならば、自分を含めた人間には、犯罪者の才能なんていうものもあるのかもしれません。表には出さずとも、心の中では汚いことばかり考えてしまう人だっているのではないでしょうか?僕自身、自分が綺麗なものだけで構成されていない自覚はあります。

 その汚さが例えば先天的にあったとしても、それを表に出して他人にぶつけることなく、そのまま一生を終えることもできるかもしれません。いや、多くの人はそうなんじゃないでしょうか?

 

 人を極限状態に追い詰めたときに出てくるのが本性、というのは、それは実際そういう側面もあるのかもしれません。それでも、極限状態になりさえしなければ相手に対してその本性を出さずに済むことができるということが、素晴らしいこととは思いませんか?いかに人間が先天的な邪悪さを抱えていたとしても、極限状態でさえなければ、手を取り合うことの方を選べるのだとすれば、その後天的な社会性を尊ぶべきなのではないかというふうに僕は思ってしまいます。

 

 調子こいて書いてたら話が逸れましたが、人間が持って生まれるものは様々だと思います。それは遺伝子に刻まれたものもそうかもしれませんし、生まれ育った環境や与えられた立場など、自分で選び、コントロールすることができない領域というものは多々あります。

 そういったものだけで自分の歩き方が全て決まってしまうということは、それがたとえ社会として一番効率のよいことだったとしても、それを構成している部品としての人間の幸福さとはあまり関係がないのではないかと思っていて、非効率だったとしても、部品のひとつひとつとしてのそれぞれの人間が、あまりにすり減らされることがないような世の中であってほしいなということをずっと思っています。

 

 しょうもないのうりょく、まだ単行本も出てないですが、単行本化してくれ~と念を送っています(竹書房に向けて)。