漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

映画「100日間生きたワニ」を観たのと、僕のこの1年関連

 

 映画を見る前に映画に言及してなんか変なことになったので、仕方ないから観るかなと思ったり、そんな理由で観るのっておかしくない?って思ったり、こういうこと書いてから見ると、アングルができているので、面白かったと書いても面白くなかったと書いても、作品そのもの以外の対立の文脈に回収されたりするだろうし、それは嫌だから観ないのが面倒がないなと思いました。

 でも、そう思ったところで、結局作品そのもの以外の部分で、自分が観る観ないかの正解が決まってくるのっておかしくない??とムカついてきたので、そうだ!!観よう!!と思って、仕事帰りにレイトショーで観てきました。

 

 観て思ったこととしては「100日後に死ぬワニ」のアニメ映画版としては、とても良く作られた作品だなと思いました。

 

 「100日後に死ぬワニ」はTwitter上で100日間連載された漫画で、100日後に死ぬことが予告された、擬人化されたワニの日々の生活を4コマ漫画として綴ったものです。

 これを60分の映画に置き換えることには、いくつかの転換が必要だろうなと思います。大きなところでは、漫画版は1日1作、100日間連載されるということが体験として存在しており、それをわずか60分で同様のものを追体験させるには異なる設計が必要だと思うからです。

 また、「死ぬことが示唆された中で見るそんなに劇的なことは起こらない日常」は、「死ぬことが示唆されてさえいなければエンターテイメント性に欠ける内容」です。つまり、個別の描写そのものはあまり面白くない(ことが意図された)内容であるはずです。面白くないものが、未来の死の情報を得ることでドキドキものとして捉えられるという認識の変わり方が、本作の面白い部分であったと思います。

 その別段、劇的というほどには面白いわけではない日常を綴るということ含めた上で、面白い映画を作るということは難しいことでしょう。

 

 日常の描写をする時間が増えるほどに退屈を感じるかもしれませんし、逆に日常の描写が減れば、ワニに対する感情が映画の中で十分に得られないかもしれません。この部分のバランスについて、映画は丁寧に作られていたなと感じました。

 

 映画の冒頭は、既に多くの人が知ることになっているワニの死、つまり原作の最終回から始まります。ここで、やがで死んでしまうということを印象付けた上で、100日前からの日常の描写が始まります。

 このような形で死ぬということが明示されたあとなので、原作の「最終的にどのような死を迎えるのか?」という部分への興味関心を引きに使うことなく、このように死んでしまうという理不尽の中で、ワニが日常を生きていたということについてフォーカスが当たっているように感じました。

 つまり、人との約束や、未来への希望、それらが最終的には果たされないものであるということに対する悲しみです。そして、それについて、作中の人々はその日まで決して気づくことはないということの苦しさです。

 

 ここから、僕の個人的な話になるのですが、近しい身内がこの1年で3人亡くなりました。そのうち2人はもういい歳だったので、遠からず別れが来るだろうとは思っていて、実家に帰ったときには、もしかしたらこれで直接喋るのは最後かもしれないと毎回思っていました。最後に会ったのは2020年の正月です。

 そのうちの1人が入院したことを聞いたのは昨年の夏頃です。コロナ禍もあり、地元に帰ってお見舞いに行くこともできないことも仕方ないと思っていました。その後、危篤の情報と、持ち直して欲しいという願いと、数日後の訃報、そして情勢が情勢なので、葬式にも帰って来ないようにとの話が身内からありました。

 僕は小さい頃、家庭がいろいろあったので、その人に育てられていたようなところがあります。なので、身内の中でも一番近しい人でしたが、歳をとっており病気も重ねていたので、遠からず別れがあるだろうことはとっくに覚悟していました。でも、その別れがまさかこんな状況の中でになるとは、最後にあったときにはちっとも思ってもおらず、なんで今なんだよという理不尽を感じてしまいました。

 あらゆることを仕方ないと思いはしましたが、自分は何にもやらないうちに大切な人がいなくなって、それを悼むことも、自分のいない場所で全てが終わってしまいました。ある日、近所を散歩しながら、それがどうしようもなく悲しくなって、その辺でうずくまって泣いてしまったりしました。

 人生はひとつの因果で綴られる物語ではないので、起こることの多くは離散的で理不尽なことです。

 

 その1ヶ月後、また1人身内の訃報(祖母)があり、連続することでさらに、何で今なんだという気持ちを抱えたままで、先月、また身内が亡くなりました。病気でしたが、同年代でまだ若く、快復するものだと思っていました。

 正直今も全然その辺の、自分の中にあったものがなくなった穴はまだ空いたままです。そのうち埋まるのだとは思いますが。

 

 「100日間生きたワニ」という映画は、人間のそういう部分に対する喚起を行うような内容だったなと思いました。なので、映画を観ながら頭の中でぐるぐる回っていたのは、映画そのものではなく、ずっと自分自身の個人的な話です。

 理不尽はあります。果たされると思っていた約束は果たされないことがあります。思い描いていた未来は、来ないことがあります。でも、それが悲しいからといって、失われた何かがそのまま戻ってくることは決してありません。

 人生はその状態で続いていくし、そういうものだなということを思っています。そして、この映画は、そういう自分の気分が、多くの人と共有されうるものだなということを示してくれるような内容だったと思います。

 

 なので、映画が良いとか悪いとかは正直よく分からなくて、ただ、観ながらずっと自分のことを考えてしまったなと思いました。それがこの映画の持っていた力だなと思いました。そして、この映画はある種の原作に対する批評的な内容だったと思います。つまり、原作漫画が描いていたものもそれだったんだろうなということに改めて目を向けるような内容だったということです。

 映画の後半のオリジナルパートにおいて、ワニが失われた中で生きる人たちの姿を見る中で、それがよりくっきりしたように感じました。ワニに死が訪れる瞬間を待つことは、この物語から得られる本筋ではなく、その理不尽な死が訪れる前まで、人はそれを知らずに生きていたという話です。

 

 観てよかったような気もする一方で、映画の中の人たちは、それぞれ歩み出していましたが、自分はまだそこから抜けられていないんだよなあということを思ったので、映画を観た後、いろいろ考えながら帰ってきてしまいました。

 

 世の中の状況がそれなりに安心できるようになったときに、久々に実家に帰って、やっと墓参りができて、そこで自分の中でようやく整理がつくのかもしれません。 先日、一周忌の話もありましたが、まだワクチンを接種していないからと、この夏もまだ帰らないことにしました。

 なので、それは早くても年末になりそうです。

子供の頃好きだったものを今見たら面白く感じなかった関連

 子供の頃にめちゃくちゃ好きだったものを、大人になってから見たら、記憶の中の輝かしさとは裏腹に、そこまで面白いように感じなかった、ということはある話なのではないかと思います。少なくとも僕はあります。

 

 こういうことがあったときに思っているのは、そこで、当該作品や自分自身に対して何らかネガティブな感情を持つ必要は別にないんじゃないかということです。

 つまり例えば、「子供の頃は絶対値としてはそんなに面白くないものも面白く感じていた」とか、「自分は子供の頃に持っていた感性を失ってしまった」とか、というネガティブな理屈を使って、思い出と現状のギャップに納得をしなくてもいいのではないか?と思っています。

 

 では、僕がどういう理屈でそれを捉えるといいと思っているかというと、「子供のときに見た作品から摂取できる栄養素は全て吸収してしまい、もはや自分自身の血肉になってしまった」という理解になります。

 つまり、その作品が自分自身と区別がつかなくなるところまで既に取り込んだので、今見ても当初持っていた新鮮さという特徴を失ってしまっているという理解です。最初から面白くなかったとか面白く感じられなくなったというわけではなく、そこから取り入れられる面白は、もう十分に吸収して、自分自身と同化してしまったんだなと思ったりしています。

 そう思うと何かを否定しなくていいので、なんらかネガティブな気持ちを抱かなくて都合がいいんじゃないかと考えています。

 

 僕は、何かの作品を面白いと感じる場合、「それを見ることで、自分の中にある何かが変わった」と感じられることが重要だと感じています。つまり、見る前と見た後で、自分の中の何かが変わったという体験は、見てよかったなと感じられやすいものだということです。

 一方で、それを見たところでそこから既に知っているものしか発見できないと、人は退屈してしまうと思います。知っている話をもう知っていると思いながらも何度も聞くことに人はあんまり耐えられません。

 

 小さい子の面倒を見ている人は分かると思うんですが、子供の頃って、同じビデオなんかを何回も何回も見ても平気だったりするんですよね。それについて僕は、まだ知らないものが多い時期には、新しく目にしたものから取り入れられる要素がとても多いということが関連していると思っています。だから、何回見てもまだまだ新しい味を感じられるとか、それを咀嚼して血肉に変えるのに時間がかかったりして、ずっと味のするガムを噛んでいる感じなのではないかと思っています。

 そしてそれをもう味がしないほどに十分吸収しきれば、観る必要が無くなります。

 

 同じ映画を10回見れば映画監督になれるという話があります。山賀博之氏はこれを実際にやって、映画監督をやったという逸話もあります。僕の解釈では、これは「普通は10回も見れない」という話だと思うんですよね。なぜなら、普通は1回見れば映画はだいたい分かったと思いますし、2回3回と繰り返し見ても、そこから新しく得られるものは段々と少なくなっていくはずだと思うからです。

 何度も見るのを重ねるなら、毎回新しいものでも見つけられないと退屈してしまいます。10回見ても退屈しないなら、ストーリーや登場人物の演技の他に、例えば、カメラの構図や物語の構造、演出意図などに目を向けていく必要があるはずです。映画には沢山の情報が込められているので、初見だとストーリーの結末以外にしか目がいかなくても、何度も繰り返し見るうちに、なぜ映画がこのような構成になっているのかの理解が深まるはずです。

 そこまで理解すれば、自分が映画の構成を考え、物語るためにどのような価値判断をすればいいかにも目が届いたりするんじゃないでしょうか?

 

 目の前の作品から何を得られるかということが、その視聴体験の良し悪しには関係しているのではないかと思います。なので、大人になったことで初めて分かる良さなんていうものも、それはそれであるでしょう。子供の頃には上手く消化できなかった栄養素を、大人になる過程で得た酵素によって消化できるようになって、吸収できるようになったりします。

 そうなれば、子供の頃見たものは、子供なりの新鮮さで何かを得られ、大人になってから再度見ても、大人の理解力で何かを得られるようになるはずです。1つの作品で2度おいしくなります。お得ですね。

 

 また、大人になってから見たときに、もはや何かを得られなかったとしても、それはそれで別に悪いことではないというのが僕の感じ方です。なぜなら、今新しい何かを得られなくても、そこからはもう十分に何かを得たという事実は揺るがないと思うからです。。そこには食べ終わったあとの皿を見るような感謝があります。

 

 なので、何かからもう味がしないと感じたら、そこに感謝をすればいいと思っていて、そして、また別のまだ味がする自分にとって新鮮なものを食べればいいと思うんですよね。そして、人生が進んでいくことで、気がつくと、もう味がしなくなっていたと思っていたものから、また新たな栄養を得られる酵素を獲得しているかもしれません。

 そんな感じに別に何かを否定せずともよく、過去を肯定しながら、長い目でたまにぐるぐるしているのがいいなと思ったりしています。

肩こりがひどすぎてフィットボクシング2を始めた関連

 とにかく肩こりがひどく、人生で一番肩こりという状態を更新し続けている気がしたので、なんとかしなければいけないという気持ちから、フィットボクシング2を始めました。日常生活の中で、とにかく肩を動かしていないのが悪いのではないか?という考えのもとで、動かす口実が欲しかったということです。

 

 まだ4回ぐらいしかやっていないのですが、筋肉痛が追加されたのは別として、肩周りの血の巡りがよくなっている気がするので、普段どんだけ動かしてないんだという気持ちとともに、ちょっと定期的にやった方がいいなと思ったりしています。

 首肩背中がガッチガチになってて、ほんと血の巡りが悪いというか、動かすと、一瞬血が巡りがよくなって感覚が戻る感じというか、普段は常に死んでる気がしてならないので、ほんとどうにかしたいんですよね。

 

 むかし、肩こりってなんなのかわからなかったころに、なんとなく肩こりってこういうのかなって思ってた感じは、今思えば全然肩こりなんかではなく、あの頃の自分にこれが肩こりだぞ!と教えたい感じなのですが、教えることはできない。知ってしまったあとには、もうあの頃の快調な感じには戻れないという人生のままならなさを感じます。

 

 フィットボクシングをやっていると、ホーリーランドを読んだあとで、家でボクシングのワンツーの素振りをずっとやって筋肉痛になっていたことを思い出します。ホーリーランドは、引きこもっていた主人公が、ボクシングの教本を読んで、ありあまる時間で家でずっと拳を振っていたら、なんかめちゃくちゃすごいワンツーが打てるようになったという漫画で、そこから下北ヤンキー狩りボクサーというあだ名をつけられていくみたいな話なのですが、僕もめちゃくちゃすごいワンツーが打てるようになったら下北沢に行こうと思います。

 

 今ちょうどフィットボクシングを終えてこれを書いているんですが、30分ぐらいやってやっとワンセット終わってもうやりたくない気持ちと、効いてる気がするから続けたいという気持ちが戦っています。

 今は録りためてるお笑い番組を見ながら、少しでも気を紛らわせながらやっていますが、本音を言うと、何もせずに運動になって肩の調子も良くなってほどよくカロリーを消費するという結果だけが欲しいです。

 でも、そんなわけにはいかないからやろうかなと思っていますが、肩の調子がよくなったらやめてしまうかもしれません。でも、肩の調子がよくなったら実はやめていいような気もしませんか?

 

 まあいいや。終わりです。

コミティア136に参加したレポ

 このブログでは特に告知をしませんでしたが、6/6に開催されたコミティア136にサークル参加しました。なぜ告知をしなかったかというと、世の情勢が情勢なので、人に積極的に来てくれという感じでもないなあと思ったからです。

 

 コミティアはイベント開催のガイドラインに則った形で開催され、検温や消毒、入場人数の管理、スペースも隙間を広くとった配置、通路も余裕のある感じで、頑張って開催できる条件を満たしてくれたんだなと思ってスタッフの労力に感謝の気持ちがありました。

 気になった点としては、検温の列がサークル参加者と一般参加者で同じだったので、入場時に長い列ができていて、余裕を持って現地到着していなければ、サークル入場の時間に間に合わなかったかもなと思ったところぐらいです。

 この辺については、サークル入場者専用の列があってもよかったかなと思いましたが、それぐらいのことを準備をする側が考えなかったとも思わないので、色んな兼ね合いでこれがいいということになったのかもなという理解をしています。

 

 さて、無理やり捻り出した新刊「命にふさわしい」が会場配送で届いていたので、その時点で大体の目的は達成したので、あとは人がきてくれたら本を売るという感じになりました。

 

 前回のコミティアでも入場制限があり、人でも少ないと思ったので何冊刷ったものかなと思ったのですが、余ってもその次の参加のときに持っていく本があるから、そんなに少なくしなくてもいいかなと思っていつもぐらい刷りました。結果、なんか擦った数の9割弱ぐらい捌けたので、全体の人出はやっぱり減っているものの思ったよりずっと人が来てくれてよかったなと思います。ちなみに新刊の原価率は8割強なので、ちょうどよく印刷費も回収でき、無料で本が発生した感じになりました。

 ちなみに今回の参加は、コミティアクラウドファンディングの返礼でもらった参加券を使ったので、実質無料コミティア でした。

 

 今回のコミティアの印象としては、以前本を買ってくれた人がまた買いに来てくれるケースが多くて、もう5年弱参加してることもあって、なんか馴染んできたなという気持ちになりました。

 同人誌即売会に出ると、色んな方面の知人が来てくれるので、なんだか生前葬みたいだなと思います。生前葬を思い浮かべるのは、それぐらいしか色んな方面の人が同じ場所に来てくれる人生イベントを思い浮かべられないからです。

 

 学生時代の方面からの直接的な知り合いや、インターネットで知り合った人、コミティア の会場で知り合った人や、いつも本を買いに来てくれる人、とにかく色んな人が来てくれるので、すげえ楽しかったですね。

 今回新しかったのは、僕は去年からYouTubeで公開しているインターネットラジオ「中野アラバキの人生思考囲い(略してじんしこ)」に参加しており、「じんしこ」を聞いていますと言って来てくれる人がいて、よかったです。じんしこは、中野でいちさんとあらばきさんがやっているラジオで、僕はただのファンだったのですが、参加するきっかけのひとつが、僕がコミティア会場で中野さんあらばきさんのそれぞれのスペースを訪れて「じんしこ聴いています」と伝えたことなので、実質コミティアみたいなラジオです。

 

 直近では、僕の商業デビューの話題をしているので、よかったら聞いてください。

www.youtube.com

 

 特にここしばらくは、仕事関係の人以外とはほとんど会うことがない生活をしているので、コミティアで色んな人と喋ることができると、人と直接喋るのはいいなあと思いました。

 5年ぐらい前に急にコミティアに参加してみようと思わなかったら、今どんな生活をしているのかわからないぐらい、そこから広がった人間関係があったり、漫画を描くようになって起こった出来事があって、中年がなんかを急に始めてみるのもいいもんだなと思ったりしています。

 できればまた次回もサークル参加したいですね。

 

 そういえば、開催は終わっているので手遅れで申し訳ないですが、新刊サンプルを上げていたので貼っておきます。

manga-no.com

学校の隅の人間の物語が、学校の中心の人間に奪われる話関連

 

 前にこんなことを描いていて、これ自体は自分自身でも悪い偏見だなと思って書いたんですが、同時に、ここに確かに気持ちもあるよなということも思ったりしたんですよね。

 このツイートにも予防線としてこれは偏見であるものとして書いているつもりですが、別にルックスがめちゃくちゃいい俳優だからといって、学校の中心にいたとも限らないですし、学校の隅にいる気持ちが分からないとも思いません。また、ルックスがいいことには、それを裏付ける努力もあり楽なことではないでしょうし、ルックスがいいことによって巻き起こる別の困難さもあるでしょう。

 何かを持っているも持っていないも人それぞれです。

 

 でも、例えばこれもセンシティブな話ですが、同性愛を取り扱った物語があるとして、それを異性愛者の俳優が演じて、主に異性愛者がそれを喜んで見ているという状況があったとき、それは自分たちの困難さを取り扱った物語であったはずなのに、結局、そこの困難さを味わったことがない人たちの楽しみのために、自分たちにとって大切なものが消費されていると感じてしまうようなことは、きっとあるんじゃないかなと思います。

 もちろん、その状況を歓迎する人もいるでしょうし、あくまであるないのレベルの話です。

 

 これは別に答えがない話で、その根本にあるのは断絶の話だなと思います。我らと彼らという間に線が引かれているからこそ、自分たちの側だと思っていたものが、違う側のものとして取り扱われていることにきっと違和感があるのでしょう。

 

 例えば、誰からも見放された人間の苦しみの物語があったとき、その感情を一回も感じたことがない人たちの中でそれが楽しまれていたとしたらどうでしょうか?その苦しみを感じたことのない人たちの演技で、その苦しみを感じたことのない人たちが感動して、その物語が彼らのものとして存在していたときに、そこに「一度もその苦しみを感じたことがないくせに!」という気持ちは、おそらくきっと存在するだろうなと思います。

 そして、その気持ちは持ってしまうかもしれませんが、おそらくそれだけで、ただどうしようもないものです。ある感情を取り扱った物語は、それを感じたことがある人以外は作ることに参加してはならないし、それを楽しんでもならないとしたら、それはそれで別の辛さが存在してしまうでしょう。

 それは人間と人間の間に存在する壁を、より強固にしてしまう辛さです。

 

 人間は群れを意識してしまうからなのか、あちらとこちらの境界の話については、注目をしやすいように思います。その話は、あちら側の話なのか、それともこちら側の話なのかということをどうしても思ってしまうという苦しさがあるように思うんですよね。

 

 実際、ネットとかで議論と呼ばれているものの中には、ただ単に、敵と味方というあちらとこちらを見分けることしかしていないように見えるものも多くあります。その場合、相手を何らかの属性であると判断できれば話が終わってしまったりします。

 具体的に言うなら、「相手がネトウヨだと分かったから、これ以上話しても仕方がない」というような話の終わり方をしたりします。そして、ここにはどんな属性を入れてもいいです。

 相手の発言傾向に、何らかの属性を見出すことができたとして、それは別に元々していた話を終わらせる理由にはなりませんが、敵と味方という意識でやっていると、敵は「理由なく否定していいもの」、味方は「理由なく肯定すべきもの」というような分類にすることもできます。そうなると、理屈としてはその時点で正しさの整理が終わってしまうので、話す必要がなくなってしまうのではないかと考えています。

 

 でも、目の前に課題があるなら、本当にすべきことは、敵とか味方とかではなく、その課題についてどのように取り扱うべきで、そのためにどのように行動していくかを話し合っていくということだと思うんですよね。それが大切なことです。

 そのためには、あちらとこちらという境界線の壁があることは、あんまり良くないなという気持ちがあります。なぜならそれは、もともとの課題に対して、責任は壁の向こう側にあるものとして、結局互いに何もしなくていいという結論を導くために便利だからです。

 

 まあでも、壁はあるじゃないですか。僕も日々それを目の前にしています。そして、境界があり、それを乗り越えない前提なら、壁の向こう側に責任を投げつけて、だからこちら側では何もしなくていいみたいなことを思っちゃうんですよね。

 ただ、その状態にもいい加減うんざりしているようなところがあったりしています。

 

 話がすげえズレた気もしますが、こちら側の物と思っていたものが、あちら側の物として取り扱われているときの居心地の悪さみたいなものは、自分を振り返っても確実にあって、でもそれって、そのものの問題ではなく、そこにおける自分が認識している境界線の話なんじゃないかなとも思うんですよね。

 ならば、その境界線について、自分がどう取り扱うのか?というのがこの話の重要な部分だと思います。ただし、どのように取り扱うべきかの正解が、自分にはまだ分かっていないなと思ったりしています。

花山薫からアベンガネへ関連

 花山薫は、刃牙シリーズに登場する男で、彼は格闘家のトーナメントに出場したりもしますが、格闘家ではありません。強いヤクザです。とても強いヤクザです。花山薫は強くなるためのトレーニングもしていません。ただ強い男です。天性の体格と握力、そして精神力が異常なために強い男です。花山薫は、強くあろうとはしますが、そのために自身を鍛えることを否定しています。

 「花の慶次」に「虎はなにゆえ強いと思う? もともと強いからよ」という言葉があります。弱い人間は修行をし、鍛えなければ強くなれませんが、強いものは最初からただ強くあることができます。花山薫もまた、そのような男です。

 

 昔、学校の後輩の恋愛相談を受けたときに、彼は「好きな子がいるけれど、その子に好かれるための行動をすることは違う気がする」と言っていました。好かれるために自分を変えることは、無理をしているということなので、そんなことをせず、自分がありのままでいることで好かれたいという話でした。

 それを聞いたとき、恋愛に対する態度が花山薫やん!っていう話になり、花山薫なら、花山薫が花山薫でいようとすることに、外部から言えることはないという結論になりました。

 

 このような話は、就活のときに自分の振る舞いや自己アピール内容を、就職に有利な感じに合わせにいくかどうか?というときにも再び出てきました。企業研究をせず、リクルートスーツを買わず、面接のマナーを学んだり想定問答の練習をしない、ありのままの姿で企業に就職したい!これもまた花山薫です。

 そう考えると、意外と世の中には花山薫がいます。何かの目的があったとしても、それに近づくために何かをするということは弱い人間がやることであって、それをせずに手に入れてこその強さだという話です。

 

 という話を、先日友達としていたのですが、なぜその話を今蒸し返すことになったかというと、僕が漫画を描くということに対して花山薫のような態度をとっているという指摘を受けたからでした(気に食わねえという文脈で)。

 

 つまり、僕は30ページ以上あるストーリー漫画の同人誌を初めて完成させられたのが34歳のときで、さすがに年齢が年齢なので、プロになりたいという気持ちもなく趣味でコミティアに出ていたのですが、そこで漫画を描くのが楽しくなってしまったので何度もコミティアに出ていると、あるとき、ヤンマガの編集さんから声をかけられ、この同人誌をそのままでいいからちばてつや賞に出してみませんか?と言われたので、原稿のファイルを送ったらヤング部門の佳作を受賞させてもらったという話です。

 そしてそれによって、漫画家という選択肢が人生に突如として出てきたものの、連載用のネームを上手く作れず、本業の仕事の忙しさにかまけて過ごしていたら、今度はコミックビームの編集さんに、読切漫画を描いてみませんか?と提案されたので、はい!描きます!と答えて描いたものが、来月の7月12日発売のコミックビームに載ることになりました。

 紙の雑誌に載るのは初めてなので、漫画家としての正式なデビューと言っていいように思います。おめでたいですね。まさか自分が39歳にしてこんなことになるとは、思いもしませんでした。

 

 

 でも、積極的にそうなろうとしてはなにひとつ動いたことがなく、なんとなく漫画を描くことが楽しくなっていたら、たまたまかけてもらった声に反応していたらこうなることになりました。そのような顔をしていたら「お前は花山薫気取りか?」と友達に言われたので、オッ、なんか恥ずかしいところをついてくるね!と思っちゃったんですよね。

 でもまあ考えてみてもくださいよ。フルタイムでごりごり労働している中年が、趣味でちらっと漫画を描くようになっただけのことが、そんなに多くを望んでもしんどいじゃないですか。もしかしたらプロの漫画家になれるかも!なんて思って欲を強く出してたら、生活を持ち崩してしまうかもしれないなと思って、怖いので、あんまり積極的には考えられなくないですか??

 

 なのですが、花山薫でもない人間が花山薫のような顔をするのは良くないなという気持ちもあります。なので、ロールモデルとして考えるなら、花山薫の対義語だなと思って、僕が思うに花山薫の対義語はアベンガネです。

 アベンガネは、ハンターハンターのグリードアイランド編に出てくる男で、作中の念能力を解除することができる除念師です。そして、彼はボマーという男に念能力の爆弾をつけられてしまいます。アベンガネは、その能力の解除条件を満たすために、主人公のゴンたちに情報を伝えたりしました。しかし、ゴンたちに期待をしていたというわけではありません。でも、ほんの少しでも念能力の解除の可能性が上がるなら、それをやった方がいいと考える男なんですよね。

 

 つまり、目的があっても、そこに近くために何かをすることを女々しいと捉える花山薫と、そこに少しでも近づける可能性があるなら、何でも一応やっとこうと考えるアベンガネです。

 

 僕は今やっと漫画家になろうかなという気持ちが盛り上がってきていて、今やっていることがまだ何かしらモノになるかが分からないので書くことはできないのですが、アベンガネしちゃおうかなと思って動いています。

 フルタイムで会社員の労働をしながら、プロの漫画家として活動することって、そんなに簡単なことじゃないと思うんですけど、もし、それができる可能性があるなら、少しでも何かをやっておこうかなと思って色々アベンガネしているので、もし進捗があったら、このブログを読んでいる皆さんにもお知らせしようと思います。

 

 ただ、今後何も書かなかったらボマーに爆死させられたとでも理解してください。R.I.P。

 

 そういえば賞を頂いた漫画も貼っておくのでよかったら読んでください(これがアベンガネ行為です)。

comic-days.com

 

 あとコミティアで出した漫画もこの辺はネットにアップロードしてるので、良かったら読んでください。おもしろいと思います。

manga-no.com

 

manga-no.com

映画版「映画大好きポンポさん」と自覚的な暴力関連

 令和にナウいのは暴力だなと思います。僕は物語の中に自覚的な暴力が登場するととても嬉しくなってしまう人間なので、映画版の「映画大好きポンポさん」を見て、すごく嬉しくなってしまいました。

 

 映画大好きポンポさんは、pixivで公開された杉谷庄吾人間プラモ)の漫画で、映画プロデューサーのポンポさんが、映画オタクで制作助手をしていたジーンくんに映画を撮らせるお話です。

 

www.pixiv.net

 

 この漫画で僕が面白く感じたのは、偏った考え方を肯定的に描いていた部分です。ポンポさんは長さが90分程度の分かりやすい娯楽作を好み、長い映画を嫌っています。その理由は、ポンポさんは子供の頃から映画プロデューサーだったおじいさんと一緒に映画を鑑賞させられていて、長い映画に辛い思い出があるからです。

 ただ、長い映画もそれらが名作であることは自体は認めます。でも、苦手なわけです。それはポンポさんの偏った考え方です。他にも、映画は女優を魅力的に撮れれば成立するとか、クリエイターに向くのは社会に居場所がない、目に光がない人々であるなど、独自の理屈を主張します。

 もちろんこれらは絶対的な指標ではありません。上映時間の長い映画が好きな人もいますし、きらびやかな青春を送ってきた素晴らしいクリエイターもいるでしょう。女優を魅力的に描けただけの作品を楽しめない人もいるかもしれません。ただ、ポンポさんの感性はそうであるというだけです。そして、ポンポさんに寄り添うということは、そういった偏った感性に寄り添うということです。

 世の中には人の数だけ、少しずつ違った良い悪いの感性があります。それらは絶対ではありません。でも、ひとりひとりにとっては重要なことのはずです。そして、そこに寄り添うかどうかという話があります。その、何に寄り添うかということがはっきりしていて良かったなと思いました。

 

 さて、映画版のポンポさんの話ですが、すごく良かったです。

 

 原作として漫画があったとしても、アニメは別の人が作った別の作品だと思っています。さらに媒体が変われば適切な表現も変わってくるものでしょう。なので、この映画版を作った人は、原作を読んで、これがどのような物語であると解釈し、それを表現することにしたのかというところが毎度気になります。

 僕が映画版を見て思ったのは、原作の中からピックアップして主軸に置くものが「暴力」なんだなと思ったというか、この原作を見て、暴力の物語だという認識をしたということに、ある種の批評性を感じて、そこがすごくよく感じました。

 

 この映画が着目したのは「上映時間が90分」という部分だと思います。ポンポさんがそれを好きだと言ったから、原作のジーンくんは自分の作った映画を90分におさめました。そして、この映画もまた、90分で終わります(映画の事前情報は何も調べてなかったのですが、絶対に90分で終わるものだという確信を持って見に行きました)。

 そして、この映画には原作にはない大きなオリジナルパートがあります。それが90分に収めるということの意味について、映画として掘り下げた部分だと思います。そしてそれが「暴力」です。

 ここで言っている「暴力」とは、「自分の考える形に、他人の形を歪める力」のことです。

 

 ジーンくんが撮った映像は72時間におよぶものでした(ちなみに原作では17時間)。それを90分に収めるということは、70時間30分の映像を、不必要なものとして排除するということです。せっかく撮った98%近い映像を、誰の目にも触れない形に葬り去るということです。

 ジーンくんは、それらの映像を自らの手で編集するという大役を担います。なぜなら彼は監督だからです(なお、監督が自分で編集をするのはポンポさんの映画会社の方針)。

 そして、撮れた映像は、ジーンくんの力だけで生み出せたものではありません。環境をお膳立てしてくれたポンポさんがいます。演じてくれる俳優がいます。撮影をしてくれたり、セットを作ってくれたりするスタッフがいます。それぞれの映像は、誰かのアイデアが入って撮られた素晴らしい映像であったりします。誰かの思い入れがあったりします。自然の偶然によってたまたま撮れた貴重な映像であったりもします。みんなのアイデアが結集して、思い出深い大切な映像であったりもします。

 切りたくはありません。切りたくはないという気持ちに寄り添えば、映画は長くなります。90分にはとうてい収まりません。大切な映像を切ることは、誰かの思いが踏みにじられることかもしれません。あなたたちの仕事は結局無駄だったと捉えられるかもしれないからです。

 

 そう、だからこそ暴力だなと思いました。監督をするということは暴力を振るうことです。様々な人の力が結集し、みんなで一生懸命作ったそれぞれの大切なものを、自分が望む形に切り刻んで、自分の望む形に作り上げる行為が監督には求められるからです。

 みんなに良い人と思われたいのであれば、監督なんてするべきではないのかもしれません。みんなの意見を全て取り込んだ、太った映画ではなく、自分を形作るために必要な最小限のものをカリカリになるまで削り込んだものが、少なくともポンポさんが望んだものであるのではないかと思うからです。

 

 ジーンくんは、監督という立場を与えられ、脚本を与えられ、キャスティングも与えられました。それを映画に仕立てるための監督としての役割を単純に果たすだけのことはできるかもしれません。でも、それだけでは、そこには自分がいません。でも、かつて自分が映画を見ていたときには、映画の中に自分を見つけていたことがあるはずです。その映画の中にあるものが自分の中にあるものと共鳴してその映画を良いと感じていたはずです。

 みんなの意見を全て尊重するなら、何十時間もの映画になってしまいそうなとき、それを削り込むためのガイドラインとして、ジーンくんは自分自身を発見しました。そしてそれにそぐわないものは、それがどれだけ大事なものであったとしても削る決意をします。そして、削るだけではなく、足りないものを追加撮影したいとも決心します。

 これは監督のわがままです。今あるものだけで完成させる方が簡単で、楽な道です。でも、それが自分じゃないときに、自分自身となるものを作り上げるわがままを突き通すことを、ジーンくんは望みました。それは多くの人に多大な迷惑をかけます。そして、多くの人が手助けをしてくれます。そして、それもジーンくんは切って構成し、映画を作るのです。

 それが暴力の目覚めだなと思って嬉しくなってしまいました。編集のシーンを刃物でフィルムを切り刻むように表現したことの意味が、後半になって理解ができました。だって、それは暴力だからです。みんなが一生懸命作ったものに、自分のエゴを基準にして、必要なものと必要でないものを切り分ける行為だからです。

 

 一度も暴力を振るったことのない人間が、初めて暴力を振るうシーンは、いつもある種感動的です。それは、他人の力で自分の形を決められるのではなく、自分の力で周りを歪めてでも、自分の形を決めるということだからです。つまり、それは自我の目覚めだと言えるからです。

 ジーンくんは監督になるために、暴力を手にすることになりました。自分の映画に不要なものを徹底的に切り続けた結果、ジーンくんの映画はついに完成します。それは、期せずして、ポンポさんが望んだ90分の映画となりました。

 

 ここが原作に加えられた良かったところでもあると感じました。ポンポさんのためだけに作った映画ではなく、自分のために作った映画が、ポンポさんが望んだものを重なったということです。

 創作物とはそういうものではないでしょうか?全ての人に好かれたいと思って作った物語が、全ての人に響くとは限りません。誰か一人のために作った物語が百万人に共感されることもあります。物語を書き手と受け手のコミュニケーションとして捉えた場合、それが双方向には上手くいっていないことが実は正解であることもあると思っています。

 結局物語で感動することは、見る人がそれぞれ勝手に発見しているだけの、すれ違ったコミュニケーションなのかもしれないと思ったりするからです。

 

 ジーンくんが自分のために作った物語がポンポさんの望むものと重なったということは、そういう奇跡的なことが起こったことのように思えて、僕はそれがとてもいいなと思いました。

 

 また、この映画は、何重にもなぞらえがされていて、映画監督となるジーンくんの心は、ジーンくんが撮る映画「マイスター」の主人公の立場とも重なります。そしてなにより、この映画そのものも重なります。原作にあるものの要素を一部削って、多くのものを足しています。

 それができることが創作者の振るう暴力であり、それをやるんだということが、作中作の登場人物と、作中の登場人物と、作品の在り方の3重構造で存在しており、言いたいことはそれなんだなということを深く重く突きつけられた気持ちになりました。

 そして、そのメッセージ性が僕に個人的にとても響いたので、とてもよく感じたのではないかと思います。僕は人間が自分の暴力を自覚し、それを振るうことを決意するということがとても好きなんですよね。令和の物語のスタンダードは「自覚的な暴力」だと勝手に思っています。

 

 なので、原作もすごく好きな漫画ですが、映画版も新たな意味ですごく良かったと思いました。

 

 余談ですが、作中の主要登場人物であるベテラン俳優のマーティンブラドックの声を大塚明夫が演じていて、映画の冒頭は彼の言葉から始まるのですが、それを見た瞬間、ベテランをベテランがやるということから、おそらく新人監督のジーンくんと、新人俳優のナタリーは、それぞれ声優としては新人がやるのだろうなとビビっと感じて、この映画をメタな意味でも解釈してくれよな!!というメッセージを勝手に受け取ったりしました。

 これも勝手に僕が受け取ったと感じているだけかもしれません。まあ、でもそういう見た人が勝手に何かを思うというようなことが物語を受け取るというところでは重要な気がしていて、僕はこの映画から色んな分かるものを受け取ったように思いました。

 とにかくすげえ良かったです。