感情的な部分だけで言うと、学校の隅っこで生きてきたような人が主人公の漫画があったときに、それが実写化されたときに、学校の中心で生きてきたような俳優(ここに偏見があるぞ!)が演じて、それが見た人にキャアキャア言われてたとしたら、え?こういう人に結局収穫されるの?ってのはあると思う。
— ピエール手塚🍙 (@oskdgkmgkkk) 2020年7月11日
前にこんなことを描いていて、これ自体は自分自身でも悪い偏見だなと思って書いたんですが、同時に、ここに確かに気持ちもあるよなということも思ったりしたんですよね。
このツイートにも予防線としてこれは偏見であるものとして書いているつもりですが、別にルックスがめちゃくちゃいい俳優だからといって、学校の中心にいたとも限らないですし、学校の隅にいる気持ちが分からないとも思いません。また、ルックスがいいことには、それを裏付ける努力もあり楽なことではないでしょうし、ルックスがいいことによって巻き起こる別の困難さもあるでしょう。
何かを持っているも持っていないも人それぞれです。
でも、例えばこれもセンシティブな話ですが、同性愛を取り扱った物語があるとして、それを異性愛者の俳優が演じて、主に異性愛者がそれを喜んで見ているという状況があったとき、それは自分たちの困難さを取り扱った物語であったはずなのに、結局、そこの困難さを味わったことがない人たちの楽しみのために、自分たちにとって大切なものが消費されていると感じてしまうようなことは、きっとあるんじゃないかなと思います。
もちろん、その状況を歓迎する人もいるでしょうし、あくまであるないのレベルの話です。
これは別に答えがない話で、その根本にあるのは断絶の話だなと思います。我らと彼らという間に線が引かれているからこそ、自分たちの側だと思っていたものが、違う側のものとして取り扱われていることにきっと違和感があるのでしょう。
例えば、誰からも見放された人間の苦しみの物語があったとき、その感情を一回も感じたことがない人たちの中でそれが楽しまれていたとしたらどうでしょうか?その苦しみを感じたことのない人たちの演技で、その苦しみを感じたことのない人たちが感動して、その物語が彼らのものとして存在していたときに、そこに「一度もその苦しみを感じたことがないくせに!」という気持ちは、おそらくきっと存在するだろうなと思います。
そして、その気持ちは持ってしまうかもしれませんが、おそらくそれだけで、ただどうしようもないものです。ある感情を取り扱った物語は、それを感じたことがある人以外は作ることに参加してはならないし、それを楽しんでもならないとしたら、それはそれで別の辛さが存在してしまうでしょう。
それは人間と人間の間に存在する壁を、より強固にしてしまう辛さです。
人間は群れを意識してしまうからなのか、あちらとこちらの境界の話については、注目をしやすいように思います。その話は、あちら側の話なのか、それともこちら側の話なのかということをどうしても思ってしまうという苦しさがあるように思うんですよね。
実際、ネットとかで議論と呼ばれているものの中には、ただ単に、敵と味方というあちらとこちらを見分けることしかしていないように見えるものも多くあります。その場合、相手を何らかの属性であると判断できれば話が終わってしまったりします。
具体的に言うなら、「相手がネトウヨだと分かったから、これ以上話しても仕方がない」というような話の終わり方をしたりします。そして、ここにはどんな属性を入れてもいいです。
相手の発言傾向に、何らかの属性を見出すことができたとして、それは別に元々していた話を終わらせる理由にはなりませんが、敵と味方という意識でやっていると、敵は「理由なく否定していいもの」、味方は「理由なく肯定すべきもの」というような分類にすることもできます。そうなると、理屈としてはその時点で正しさの整理が終わってしまうので、話す必要がなくなってしまうのではないかと考えています。
でも、目の前に課題があるなら、本当にすべきことは、敵とか味方とかではなく、その課題についてどのように取り扱うべきで、そのためにどのように行動していくかを話し合っていくということだと思うんですよね。それが大切なことです。
そのためには、あちらとこちらという境界線の壁があることは、あんまり良くないなという気持ちがあります。なぜならそれは、もともとの課題に対して、責任は壁の向こう側にあるものとして、結局互いに何もしなくていいという結論を導くために便利だからです。
まあでも、壁はあるじゃないですか。僕も日々それを目の前にしています。そして、境界があり、それを乗り越えない前提なら、壁の向こう側に責任を投げつけて、だからこちら側では何もしなくていいみたいなことを思っちゃうんですよね。
ただ、その状態にもいい加減うんざりしているようなところがあったりしています。
話がすげえズレた気もしますが、こちら側の物と思っていたものが、あちら側の物として取り扱われているときの居心地の悪さみたいなものは、自分を振り返っても確実にあって、でもそれって、そのものの問題ではなく、そこにおける自分が認識している境界線の話なんじゃないかなとも思うんですよね。
ならば、その境界線について、自分がどう取り扱うのか?というのがこの話の重要な部分だと思います。ただし、どのように取り扱うべきかの正解が、自分にはまだ分かっていないなと思ったりしています。