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「邦キチ!映子さん」の池ちゃんは善良だなと思った関連

 「邦キチ!映子さん」、シーズン7の第8話で描かれる池ちゃんの人物像が面白いなと思いました。

 

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 池ちゃんは年間映画を85本観る映画好きの大学生で、インスタで映画レビューなどもしているそうです。他にはnoteでも8000字ものレビューなんかをしていて、自他ともに認める映画大好き人間です。そのように友達にも映画大好き人間と認識されていて、日々映画の話を沢山しているようです。

 しかし、友達には漠然とすごいね面白いねとは言われても、それはただの人物として肯定するというような意味であって、話の中身で人を動かす様子はなく、noteのフォロワーも増えません。

 

 池ちゃんが実際喋っている内容を見ると、ある映画の監督や脚本が誰であるだとか、その人が関わった別の作品を挙げることなどに終始していて、それを見た結果、池ちゃんがどう感じたかということに関しては、ぼんやりとした「良かった」「感動した」ということしか分かりません。

 つまり、池ちゃんが喋っていることは情報だけです。そこでは、池ちゃんがその映画でどのように感情が動かされたかということについては語られていないんですよね。でも、話で人を動かす強い力は感情から出てくるものだと思います。だから、池ちゃんの映画の話にはその部分がきっと足りません。

 

 池ちゃんの面白いところは、そこに自覚があるということです。「自分の話は面白くない」という自覚です。だからこそ、映画のツッコミどころを端的に提示しては、部長にテンポよくツッコまれる(つまり部長の感情を動かしている)邦キチに憧れの気持ちを抱いてしまうのではないかと思いました。

 

 これを見て思ったのは、池ちゃんというのはなんて善良な人間なんだ!ということです。例えば、自分には面白い感想を書く力はないが読解力は十分にあるので、それが面白くないということは分かるとき、人には何ができるでしょうか?こういった部分をこじらせると「自分は感想を書かずに、他人の感想にケチをつける」という行動に出る可能性だって十分にあります。

 自分は映画の感想を書く能力がないくせに、他人の感想を探しては、こいつは映画を全然分かっていない!と文句をつける人間、めちゃくちゃウザいと思います。そんなことをされたら、感想を書いている側からすると、こいつと付き合いたくねえなと思ったりするでしょう。

 

 池ちゃんが友達は沢山いるのは、そういうことをしない、つまり「自分が分かっている人間である」ということを「あいつらは分かっていない」とあげつらい、蔑むことで示そうとしていないという善良さがあるからではないかと思いました。

 しかし、そのような善良さは、裏返すと自分への自信のなさとも理解できます。他人にマウンティングするということは、自分が優れているということを示したい、つまり、暗黙的に自分が優れた人間であるという自負が必要です。池ちゃんにはその部分が乏しく見えます。だからこそ、邦キチが自分より面白い感想を言っているとすぐに認めますし、自分を負けている側に置くということに拒否感が見られません。

 

 ひょっとするとそれは、池ちゃんが情報ばかりを羅列してしまうこととも関係しているのではないでしょうか?つまり、相手の知らない情報を提示するということは、相手にとって得があると感じられるということです。人とコミュニケーションをとる上で、自分が有益なものを提供できるときだけ話しかけるという傾向はよくあるものだと思います。

 普段は積極的に人に話しかけないけれど、相手が何か困っているときに解決方法を知っているときだけ話しかけられるとか、誤字脱字を見つけたので報告をするとか、相手の触れていない情報を付加的に提示することはできるというようなものです。

 これはSNSのリプライなんかで可視化されることが多いものだと思います。無邪気に有名人とやり取りをしたいと思って話しかける人もいると思いますが、無名で認識もされていない自分に話しかけられても迷惑だろうと思ってしまうような人でも、「相手に有益なものを提供できる」と思えたときには、そのタガが外れることがあります。なので、そういった相手に有益だと思える情報を、リプライとして送ってしまう人がいると思うんですよね。

 しかし、送られた側からすると、場合によってはそういう指摘は不要だと思っていたり、追加情報は別にいらないと思っているというようなすれ違いも発生したりします。

 相手に有益だと思えることでコミュニケーションをとろうとしても、それは別に上手くいくとも限りません。

 

 楽しいコミュニケーションをする上で大事なことのひとつは、相手から自分に興味を持ってもらうことだと思います。池ちゃんが出しているのはただの情報なので、そこから池ちゃんの内面について知ることはできません。なら、池ちゃんはなぜそれをしようとしないのでしょうか?

 可能性は大きく2つ考えられると思っていて、ひとつは自分について語ることは相手にとって有益ではないと思っているという自尊心の欠如、もうひとつは、自分の考えが間違っていたどうしようという不安です。両方とも、相手に自分の内面を提示したときの反動を考える行動であって、つまり、自分を守るために攻めができないというような感じかもなと思いました。

 

 自分語りは、お前の話なんて知らねえと嫌われる可能性がありますし、映画の観方が間違っていると指摘されても傷つく可能性があります。でも、傷つくリスクがあったとしても、内面を開示できないことには、他人から人間として興味を持ってもらうことは難しいのではないでしょうか?

 

 一方で、邦キチについては、その映画を見てその部分をチョイスする??というような提示を行っていると思います(あえてやっている)。それは聞く人のポイントを外すと興ざめされるかもしれませんし、実際、「邦キチ!映子さん」を、取り上げられている映画のファンが読んだ場合に、あの映画のその部分をピックアップする??と思って興ざめしているケースもあるのではないかと思います。

 つまり、邦キチの感想が場において面白く成り立っているのは、邦キチの話に対して部長が毎回ツッコむからこそ成立しているという話ではないかということです。そこにあるのは部長と邦キチの人間関係であって、つまり、それが池ちゃんにはないものだと思います。

 

 自分の何かしら偏った内面を開示しても、それに的確に反応を返してくれる人がいれば平気です(邦キチに関しては、それが無くても大丈夫そうですが)。だからこそ、恐れずに自分の思ったことをガンガン言っていくことができると思います。それがないなら、スベるリスクを怖れて、ぼんやりとした否定的なことを言われにくい情報だけの提示で済まそうとしてしまったりもするのかもしれません。

 

 一方で、この「自分の感想が面白くない」という池ちゃんの身も蓋もない内面開示に対しては、ネットで多くの反応が寄せられました。つまり人間は、人間のどうしようもなさのむき出しの部分に興味があって、それが提示されたときには反応を返してしまうんだと思うんですよね。

 この文章もまたそういった気持ちから書かれています。

 

 つまり、池ちゃんに必要なのは、感想において「自分がどう感じたのか?」という部分を隠さずに喋るということではないかと思っていて、そして、それを怖がらずにやるための、まず受け止めてくれる人間関係が必要という話ではないかと思いました。

 

 この話はまだ前編で、後編がどうなるかはまだよく分からないので、僕がめちゃくちゃ的を外したことを書いている可能性もあるのですが、ともあれ僕が思ったことの開示としてこの文章は書きました。

 なお、この文章は3000文字ぐらいです。