僕は大人の顔色を伺う子供だったと思います。なぜそうなったかというと、周囲にちょっとしたことで怒鳴り散らす大人がいたからでしょう。だから、その人を怒らせないように、怒らせないような振る舞いを心がけました。家で赤ん坊が泣きだすと不機嫌になる人がいます。なので、子供のころの僕は赤ん坊を背負って歩き回ったり、その人に声の聞こえないところまで出かけたりしました。子供たちにあれこれ命令し(風呂に入れや掃除をしろなどなのでそれは別に悪いことでもないです)、そして、子供が言うことを聞かないと怒鳴り散らしたりします。僕はそこにいた子供たちの中で年長な方なので、まだまだ自分のことばかりで動かない下の子供たちより率先して動いたりします。なぜなら怒鳴り散らされたくなかったからです。
怒るということは意志表明でしょう。「自分の不快に感じることを、周囲はしてはいけない」という意志表明です。他人を不快にすることで、自分を不快にするものを排除しようとする行為だと思います。それも別にそんなには悪くはないと思います。やり過ぎさえしなければ。自分が望むことを周囲に言うことすらできないことよりはずっと健全ではないかと思います。言うことができなければ、不快なものは残ったままで、その不快と付き合い続けなければなりません。しかし、僕はそんな感じだったので、色々と思うことは数あれど、黙ってニコニコしながら、言うことを聞き続けました。それが怒鳴られない唯一の道だと思っていたからです。大きな不快を除去するために、小さな不快を受け入れ続けたということでした。
僕は誰とも争いたくありませんでした。目の前に山と積まれた何かから、何かひとつを選ぶときも、他のひとたちが全部選びきるのを待って、残った最後のものを拾うようにしました。それが一番不快な気持ちになることが少なく、楽だったからです。取り合いになることが、僕には不快でした。楽に流れた結果、扱いやすい良い子供として認識されていたと思います。しかし、そんな良い子供の背後にあったのは、心根の優しさというような上等なものではありません。自分の特性に合わせて楽に流れただけの話です。
人間の行動は、その多くが、立場と環境に規定されるものだと思います。立場や環境に縛られずに自分の意志を表明できるのは、超人か、あるいは狂人でしょう。朝起きて仕事に行くのは、仕事の側が朝から来ることを望んでいるからです。仕事がなければお金が得られません。お金がないと生きられませんから、僕は朝仕事に行きます。別にそれが嫌というわけではないんです。ただ、朝仕事場に僕を移動させているのは、仕事の側であって、僕の自由意志ではありません。僕はどちらかというと、家で寝ている方が好きです。
僕は他人の仕事にダメ出しをしたりするのが苦手です。なぜかというと、それをすると、目の前の人があからさまに嫌そうな顔をしたりするのが嫌だからです。また、他人の持っている感性を否定することで、自分も傷ついたような気持ちになったりもします。でも一方、仕事ではそれをガンガンします。なぜなら、仕事には目的があり、目的に沿わないものが上がってきたとき、それを目的に沿う形に直させるのが僕の役割だからです。僕がその役割を果たすことで、仕事が目的に対して正しく回り、そうして生まれたお金を得て、僕は今日も寝る場所を確保し、食べるものにありつけます。
人間が自分の意志で決定できることは比較的少ないと思っています。それをする以前に、周囲の環境をがっちり固められ、何かの立場を与えられます。ある立場で、ある環境ならば、自分の利益を最大化するための必要な一手も大体決まっています。あたかも自分の意志で選んだかのように、用意された最善手を打ち続けることになったりします。それも別に悪いことではありません。与えられたものをこなしてさえいれば、そこそこいい感じに暮らせるということは、社会が大きくは間違っておらず、平和であるということだと思うからです。もしかすると、平和という言葉は不適切かもしれませんが、社会側が用意した規範に沿った選択肢は有効に機能しており、少なくとも混乱はしていないということです。
三宅乱丈の「ペット」は大好きな漫画なので、何回か関連する話を書いていると思います。この物語に登場するペットと呼ばれる人々は、精神感応の能力により、他人の記憶と自分の記憶の区別がつかず、自我が確立できない幼少期を過ごしています。その中で、ある人物が確立した記憶を整理する方法により、ようやく彼らは自分と他人の区別ができ、一人の人間として行動できるようになります。その方法とは、自分自身を規定するような好ましい記憶を集めた「ヤマ」と、その周囲を取り囲むように配置した忌避すべき記憶を集めた「タニ」を作るということです。タニを境界としたヤマがあることで、彼らは自分と他人の区別をつけることができるようになります。
彼らは自分を人間として確立してくれた人物、「ヤマ」となる記憶を譲ってくれ、その記憶の整理の方法を教えてくれた人物を「ヤマ親」として慕います。なぜなら、彼らが「ヤマ」を与えてくれなければ、彼らは周囲とまともなコミュニケーションもとれないままに死んでいたかもしれないからです。強い思慕から「ヤマ親」につき従う彼らは「ペット」と揶揄されます。しかし、この物語の中には、そんな「ペット」にすらなれなかった子供がいました。彼女の名はメイリン、「タニ」によって「ヤマ」に鍵をかける方法を教えて貰えなかった少女です。「ペット」にもなれない彼女は、「ベビー」と呼ばれます。
メイリンの強い精神感応の能力は、他人の意識に容易にアクセスすることができる一方、「タニ」による鍵がないことで、彼女自身もまた簡単に他人にアクセスされてしまいます。彼女ほどの強い能力を持たない人々も、彼女を経由することで、その強い力を利用することができるようになります。年端もいかない彼女は道具として扱われます。そして、道具として使われることで、彼女の中には他人の記憶が入り混じることになります。それは、その他人の記憶が破壊され、潰されたときのおぞましい記憶の光景です。
周囲からすれば何の意志表示も行わない、人形のようなメイリンの頭の中では、数多くの大人のしでかしたおぞましい記憶が渦巻いています。彼女はそんな記憶を見ないように躾けられます。そして自分の「ヤマ」の一部、彼女の能力の象徴である蝶のイメージだけを見るように教えられます。目を逸らさず、その蝶だけを見つめることで、彼女は周囲の他人の記憶からの干渉をやり過ごし、過酷な環境で生き続けるのです。
この漫画の中のこの光景は、自分が経験した、周囲の人々の干渉によって自分の意志を押し込めてきた光景と重なる部分があるんじゃないかと思いました。他人が主張する、自己利益のための行動を淡々と受け入れ、それによって自分の利益はどんどん磨滅します。しかし、そこに逆らうほどの行動ができるわけでもなく、ただ、その中で、自分が好きなものだけを見つめ続けてやり過ごしました。僕にとってはそれが本ですし、それがコンピュータです。僕はそれらに耽溺したことで得たものを使い、その状況から脱しました。そして、大人になった今では、自分の裁量で多くのものを決めることができます。その気になれば、仕事だって辞めてどこへだって行くことができます。少なくともそう思っています。なぜなら、それぐらいの蓄えと能力は持っていると思うからです。合わない人間と無理して付き合うこともほとんどありません。今では僕はだいぶ自由ですが、自由になるまでにはそこそこの時間がかかってしまいました。ただ、それは必要な工程だったのでしょう。
僕は子供の頃の自分のいた環境が、平均的な環境と比較して、特段不幸なものであったとも思いませんし、誰だって多かれ少なかれそういうことはあるでしょう。世の中にはもっと選択肢の無かった人だって沢山います。人間は他の人間に、自分が得をするための行動を強いたりするものです。それは多くの場合、露わに剥かれた個人の欲求ではなく、その上に社会の規範のようなものを糊塗されて語られますし、「親と子」や「雇用関係」のような、力関係の不平等さがある場合は、その奥にあるものがより分かりにくくなります。
気を抜けば、周囲に要求される「やるべきこと」が、自分自身の「やりたいこと」を侵食してきます。気が付けば、自分の行動の多くが、自分自身の意志とは関係なく、周囲に要求されることによってのみ構成されてしまうかもしれません。それが悪いとは限りません。周囲との利害関係が互いに我慢しつつもがっちり噛みあえば、自由度はなくなるかもしれませんが、安定はするでしょう。不安な自由より、不自由な安定の方がむしろ気楽に生きられるかもしれません。それぞれの人が、自分の生活の中にそれらをどれだけの割合で混ぜ合わせるかを決めて、その通りに行動すればいいだけだと思います。ただ、それすら、本人の意志で決められない場合もあるかもしれませんが。
もし、自分の中に占める他人が多くなってしまい、それが辛くなったとき、そんなときはそこから目を逸らして見つめる対象となるもの、メイリンにとっての蝶があればいいんじゃないかと思います。そのためには、自分が何を好きで、何が嫌いかを明らかにすること、精神感応の超能力は持っていなくても、自分の「ヤマ」と「タニ」を理解することが、「自分自身が何者であるか」という自我を確立するために必要な工程なのではないでしょうか。
また今回も、漫画と漫画じゃないものを雑に結び付けて、適当なことを書いてしまいました。